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猿飛佐助は実在したのか?

 忍者の代名詞のひとりとういうべき忍者・猿飛佐助さるとびさすけ。はたして彼は実在したのか? それとも架空の人物なのか?


 小説では直木賞作家である司馬遼太郎「風神の門」、柴田錬三郎「猿飛佐助」「真田幸村」、富田常雄「忍者 猿飛佐助」、半村良「産霊山秘録」らが書いている。ほかにも限りなく多くの有名無名の作家が主人公に、あるいは脇役として登場させている。

 漫画では手塚治虫、杉浦茂が描き、柴田錬三郎の原作で本宮ひろ志、すがやみつるが漫画化している。

 その他にも映画、テレビドラマ、アニメ、ゲーム、人形劇と枚挙にいとまがない。


 なぜこれらの作家、製作者が猿飛佐助を題材につかったといえば、大本になるのは大正時代に書かれた立川文庫たつかわぶんこに登場した真田十勇士の筆頭格として大人気となったからだ。

 当時の子供たちが好んで読み、その子供のなかに大人になってから作家となって小説や映像の世界で復活させた。それをまた読んだ子供や若者が自分流にアレンジして作品に登場させ……こうして猿飛佐助の名はメディアのなかに今も生き続けている。


 ここで立川文庫について解説する。1890年代、講談を速記して本にするのが流行し、旅回りの講釈師・玉田玉秀斎を筆頭とした創作集団は速記するのではなく、自ら書く講談本を大阪の立川文明堂に売り込んだ。文庫本より少し小さなサイズの立川文庫は安価で、少年から商店員らに大流行した。

 講談で人気の英雄、剣豪をつぎつぎに本となった。ラインナップは一休禅師、水戸黄門、大久保彦左衛門、宮本武蔵、荒木又右衛門、豊臣秀吉、安倍清明、本多平八郎、西郷隆盛などなど……変わったところでロビンソン・クルーソーなんてのもいる。


 なかでも第五編『眞田幸村さなだゆきむら』が大人気になった。旧仮名遣いだが、真田幸村のことである。これは大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田信繁と同一人物。出版社の地元、大阪の陣で活躍したのでなじみ深かったこともある。


 この本のなかで初めて猿飛佐助の名前がでた。真田モノは人気がでたので続々と派生作品が登場した。

大正3(1914)年に、立川文庫グループが雪花山人というペンネームで『立川文庫 第四十編 眞田三勇士 忍術の名人 猿飛佐助』を出版した。現代でいえばスピンオフによる単独主演作といったところだ。


 さて、主に猿飛佐助の本の執筆には玉秀斎の愛人であった山田敬の長男・山田鉄であったらしいと研究者によって判明しているが、猿飛佐助はこの人の創作したものか、実在の人物であったかが昭和の時代劇の黄金時代に取沙汰された。


 山田鉄は講談の「真田三代記」と中国の伝奇小説「西遊記」をミックスして真田十勇士の面々を作り上げたららしい。それまでの講談は勧善懲悪を元にしたものだが、真田十勇士モノは明るい作風で今でいうキャラクターが立った作風で人気が出た。

 ちなみに講談「真田三代記」は真田昌幸、真田幸村、その息子の真田大助が主人公で、実録風ではあるが、最後に真田幸村・大助親子は豊臣秀頼を奉じて薩摩に落ち延びて再起を図るという虚実入り混じった話である。


 真田十勇士の面々は実在した人物と架空の人物が入り混じっていて、ややこしい……

 ここでは猿飛佐助に限って考察する。


 司馬遼太郎は猿飛佐助を、上記の立川文庫グループによる創作である説と、江戸時代末期から大坂の庶民には語り継がれていたという説を紹介している。


 さて、猿飛佐助が有名になった立川文庫ではどう紹介されているのであろうか?


『立川文庫 第四十編 眞田三勇士 忍術の名人 猿飛佐助』によると、豪傑・猿飛佐助の出生はこうだ。

 信州鳥居峠のふもとに、鷲塚佐太夫という郷士があった。元は信州川中島の城主・森武蔵守長可の家来であった。しかし、森長可の主・織田信長が本能寺の変で亡くなり、信州をひきあげ別れた、残された鷲塚佐太夫は二君につかえずと、浪人。彼には二人の子があり、姉は小夜、弟は佐助といった――云々。


 これに類する資料が真田史料のなかにあった。信州松代藩主の真田氏が編集した『先公実録』である。その文献には真田幸村の父・真田昌幸に関係する資料「長国寺殿御事蹟稿」というのがあり、「出浦」という項目の『真田家戦功録』に編集者の河原綱徳が加筆した部分にこうある。


出浦

 真田家戦功録 出浦対馬守、甲州信玄につかえ、そのスッパ(忍者)を預かり、他国の城へ忍ばせた……(略)武田家滅亡後、森長可につかえ、のちに真田昌幸の家臣となる。小田原征伐のおし攻めにも参加……(略)


 と、言った具合に出浦対馬守は鷲塚佐太夫の話と一致する箇所が多い。ちなみに出浦対馬守とは大河ドラマ「真田丸」には、寺島進氏演じる出浦昌相手いでうらまさすけとして登場する。(もしかしたら出浦対馬守の初映像化かもしれない)


 立川文庫グループは彼をモデルに鷲塚佐太夫を創作したのではないか?


 では、猿飛佐助にもモデルになった人物がいるのではないだろうか?


 他にも「萬川集海」の伊賀忍者名人に下柘植の木猿という人物がいて、本名を上月佐助といった。なので、彼を猿飛佐助のモデルとする説がある。

 しかし、「萬川集海」の忍者はいつの時代の人か書かれていないのだ……


 時代小説家でSF作家でもある宮崎惇氏は『秘録戦国忍者伝』(桃園書房・1974年刊)を執筆するにおいて、真田史料を徹底的に調査して、出浦対馬守をはじめとする真田忍者を見つけた。現在の忍者本による真田忍者の紹介はその後塵を拝するようだ。


 出浦対馬守は幸村の兄・真田信之につかえて大坂夏の陣に参加していないが、真田幸村に従った忍者で、横谷正八郎という人物がいた。

 また、真田昌幸に仕えた忍者で唐沢玄蕃がいた。彼は幼名を“於猿おさる”というらしい。


 もしかしたら彼等をヒントに猿飛佐助は創作されたのであろうか?


 ところがところが、作家の宮崎淳氏は大坂城に保存された資料から“猿飛佐助”という人物を見つけ出した!

 大坂城に保存された『新撰実録泰平楽記大坂備』なる大坂夏の陣の配置図に“猿飛佐助”の名前が記されていたのだ。もしかして世紀の大発見?

 しかし、歴史学において別の人物に書かれた資料がないと真実とはされないのだ。

「真田三代記」の異本に猿飛佐助の名が見つかったらしいが、講談はフィクションである。

 真田家の史料には猿飛佐助の名は無いので、信憑性が低いと言わざるを得ない……


 一考するに、大坂夏の陣で猿飛佐助という人物は実在したのかもしれない。

 が、真田家の家臣とも、大阪城に集まった浪人のひとりだったともわからない。

 すると、立川文庫グループが時代考証をする際に、この変わった名前を見つけ、真田幸村の忍びの名前に採用したのだろうか?

 江戸末期に大坂の庶民に語り継がれたという伝説の真相は?

 

 さらなる新資料の発見に期待するしかないようだ……


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