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忍者・忍術の研究ノート  作者: 辻風一
忍者の流派
13/28

伊賀忍者

 伊賀忍者とは伊賀国(三重県北西部)の土豪につかえた郷士たちのことです。

 土豪は小豪族の意味で、郷士とは半分武士、半分農民という存在です。


 伊賀忍術の発祥についてはいろいろあり、菊岡如幻の『伊乱記』によると、古代中国の始皇帝が不老不死の薬を求めて、家臣・徐福じょふくに日本の山々を探させたが見つからず、日本人に捕鯨や紙すきなどの大陸の技術を伝えた。その中に忍術があったという。まあ、伝説です。


 ほかの説では、伊賀国には小さな土豪が乱立し、つねに小規模な戦闘を繰り返していました。

 数十人規模の戦闘では体技が重要となり、山伏に兵法・火薬などを教わり、独自の体術――忍術――が発展していったと言われています。


 伊賀国は痩せた土地であり、伊賀の土豪たちは独自の体術を得た者たちを都の朝廷や大名家に傭兵として売り出し、勇名を馳せていきました。甲賀忍者の項目で延べますが、「鈎の陣」が転機となって忍者は日本津々浦々に有名になりました。


 伊賀国は天下取りの出世コースからは外れた存在で、織田信長の天下布武に反抗して、天正伊賀の乱が勃発します。この戦争はいづれ詳しく述べようと思います。

 結果的に大敗した伊賀国は信長軍に滅ぼされ、焦土と化します……

 

 生き残った伊賀の人々は土地に戻って復興する者もいれば、なかには戦国大名に雇われるものもいました。

 その翌年、天下に王手をかけた信長に運命の時が来る。明智光秀の謀反です。


 織田信長の盟友だった家康は、本能寺の変で事態は一変した。

 信長の招きにより、堺の街を物見遊山していた家康一行は少人数で、どの街道を通っても明智の軍勢の網に捕らわれてもおかしくない状況だった。

 また、徳川家康は天正伊賀の乱に参加し、伊賀では恨んでいる者たちも多かったので、危険な逃避行です。


 しかし、服部半蔵がすぐに伊賀と甲賀の忍びたちに使いを走らせ、明智の包囲網をかいくぐり、街道を避け、甲賀から伊賀の山中を越え、伊勢から海路、本拠地の三河へ戻る計画をたてた。


 天下騒乱で各地の土豪が蜂起し、盗賊も荒れ回ったなかを、家康と家臣団は伊賀者二百名に警護され、甲賀の多羅尾氏ら甲賀忍者の援護も受け、無事に三河へ帰ることができた。


 これを家康伊賀越えの危難という――


 徳川家康は服部半蔵に褒美として三千石を与え、伊賀者二百名を同心として江戸に千貫文の土地を与えた。この幕府の同心にならなかった伊賀忍者は、帰農して百姓となっていきました。しかし、中には伊賀国の新領主となった藤堂家に藩士、もしくは無足人としてつかえる者もいました。


 はじめ、伊賀忍者たちの住居は江戸城の西門にあった。西門はつまり裏口だ。そこの警護のため服部半蔵正成の屋敷と伊賀の与力二十騎と同心二百名が住んでいた。なので、西門も、通称“半蔵門”と呼ばれ、現在も地名として残っている。


 もしも江戸城が攻撃されれば、将軍一家は伊賀同心、途中で八王子同心と合流して甲府へのがれ、再起をはかるという用意があった。


 と、誇らしい役職であったが、伊賀組を支配していた服部半蔵も、二代目・正就が不祥事をおこして改易となり、伊賀同心たちも市城整理によって現在の四谷伊賀町に引っ越しとなったのだ。

 やがて時代は平和になり、伊賀同心も甲賀与力も忍術を忘れて、役人となっていきます。


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