12話 対立
来世では幸せになりたい。
エレノーラとして生まれ変わる前の自分は、そう願いながら特殊魔法を発動させた。
(…………あぁ、成功したんだ)
平静な心で自身の手を見ながら確認する。
そして今の状況を冷静に見つめだした。
せっかく生まれ変わったというのに、人が決めた幸せを黙って受け入れる人生は果たして本当に幸せなのだろうか。
(……そんなのは嫌。私の幸せは自分自身で決めたい)
エレノーラは唇を噛みながら、目の前の紙を両手でくしゃりと握りしめた。
「エレノーラ……! あなた何てことを」
すぐに隣から発せられた怒気を含んだ静かな声。エレノーラの肩が跳ね上がった。
恐る恐る隣に目をやると、母が恐ろしい顔をしていた。
実際は淑女然とした品のある表情なのだが、エレノーラには怒りをたぎらせているようにしか見えない。
肌を刺すように痛いほど伝わってくる母の怒り。
後から自分に吐き捨てられる叱責の言葉に恐怖が込み上げてくる。
「もっ、申し訳ございませんっ……!」
エレノーラはクシャッとなった紙を震える手で慌てて広げ、ペンを持った。
これ以上母の機嫌を損ねてはいけない。客人の前で叱られてしまう。
婚姻届へのサインを急がねばという考えに支配される。
早く。早くしなければ怒鳴られてしまう。
思考力が失われ、自分が何をしようとしているのか分かっていない。
けれど懐かしい存在に気付き、ペンを走らせる寸前で踏みとどまった。
体の中を巡る強い力。
今世では一度も感じ取ることができなかった存在。
どれだけ魔法書を読み漁っても、学園で他人の魔法を目の当たりにしても、イメージトレーニングしてみても、ほんの少しも感じられずに諦めていたものだ。
脆弱な自分が一人で生きていくには、魔法の力は必要不可欠だと思っていた。
学園を卒業すると同時に家を出る決心をしたものの、不安に押し潰されそうだった。
だけどその不安は今この瞬間をもって消えた。
たった一人で孤独に生きてきた経験と、生きていく術を取り戻したから。
「かっ、書きませんっ!」
エレノーラは勢いよく立ち上がり、高らかにそう告げた。
今にも吐きそうな胃の圧迫感に耐え、青色の目に涙をためながら。
「────なっ」
初めて見る娘の反抗的な態度に母は思わず右手を振り上げそうになる。
しかし客人の前だということを思い出し、ぐっとこらえた。
「エレノーラ、どうしちゃったの? 緊張しているのなら、一度座って落ち着いたらどうかしら」
慈愛に満ちた表情で、我が子を心配する母のようにそっと優しくかけられた言葉。
だけどエレノーラは知っている。そこには思い通りにならない娘に苛立つ気持ちしかなく、愛情なんて欠片も込められていない。
人前で上手く話せなかった時のように。
ダンスの練習中、講師の足を踏んでしまった時のように。
茶会でティーカップを落としてしまった時のように。
娘の失敗を自分のことのように恥じる、苛立つ気持ちしか存在しない。
母の機嫌を損ねることは、何よりも恐ろしいことだった。
だけど今は絶対に従いたくない。エレノーラは瞳に強い意志を灯した。
「座りませんし書きません!」
涙目で母をキッと睨みつけた。
怖い。怖すぎてエレノーラの足はぷるぷると震えている。立っているのがやっとで、やっぱり座りたい……なんて思ったけれど、我慢しながら睨み続けた。
母はまごうことなき鬼の形相になった。
公爵に背中を向けているので、その恐ろしい顔は彼には見えておらず、エレノーラとその後方の扉の横に控えているケイトを含む使用人二人にしか見えていない。
ケイトたちはすぐに顔を下に向けた。
いつも何も見えていない振りをして、視線を床に注いでやり過ごしてきた。
女主人の機嫌を損ねないよう、与えられた仕事にだけ精をださなければ、解雇されてしまうから。
エレノーラはそれを理解している。
母が近くに居ない時は優しく気遣ってくれる使用人たちのことが好きだ。
その存在はしっかり心の支えになっていた。
だから今、母から向けられるプレッシャーにも何とか耐えて、じっと睨み続けていられる。
初めて目の当たりにする娘の頑なな表情に、母は眉をひそめた。
この場での説得は諦めて、くるりと前を向き直して公爵に淑女の笑みを向けた。
「ディクソン様、娘は少々感傷的になっているようでして……申し訳ございませんが、後日あらためてお時間をいただけますでしょうか?」
「ええ、その方が良さそうですね。私のことはお気になさらず、エレノーラ嬢のお気持ちをしっかり聞いてあげてください」
公爵は嫌な顔一つせず、穏やかに返事をした。
「それではこれで失礼します」
ニコリと笑顔を向けられたエレノーラは、何も言わずに公爵に頭を下げた。
彼を玄関まで見送るために、母は使用人を一人連れて応接室から出ていった。
パタンと扉が閉まる音と同時に、力が抜けたエレノーラはその場にへたりこんだ。
「お嬢様っ!」
部屋に残ったケイトは青ざめながらエレノーラに慌てて駆け寄った。
「大丈夫よ、ケイト」
エレノーラは心配をかけないように精一杯の笑顔を向けながら思案する。
(今すぐ荷物を纏めて、できるだけ早くこの家を出よう……)
卒業まで耐えるつもりでいたが、それはもう必要ない。
なんなら今この瞬間、母がこの場に戻ってくる前に出ていきたい。
独り立ちしたいなどと言ったところで認められないのは分かりきったこと。
母を納得させられる言葉なんてこの世に存在しない。
母にとって正しいことは自分自身の考えだけ。話し合いなんてものは無意味で、ただ延々と持論をぶつけられるだけ。
今からのことを思うと震えが止まらなくなるけれど、最後くらいは言いたいことをきちんと伝えてから別れようと決めた。
(大丈夫……! やればできるはず)
だってもう、無力な貴族の娘ではないのだから。
なんとか自分を奮い立たせて立ち上がると、ズンズンと重い足音が近付いてきた。
壊れそうな勢いで応接室の扉が開くと、そこには鬼がいた。
「エレノーラッ! あなた何てことをしてくれたの!」
「ひぃっ」
普段の表面上の淑やかさは見る影もなく、行動までもが鬼になり果てた母に怒鳴られる。
エレノーラはやっぱりさっさと消えればよかったと後悔した。
(ひいぃぃぃぃ)
ここまで怒り心頭な母は初めてで、恐怖心に冒されて縮こまる。
だけどこれで最後。言いたいことを言えるのは今しかないのだと、スカートをぎゅっと握りしめた。
「私はっ、今からこの家を出て自立します!」
「はぁぁ!? あなた何を言ってるの。そんなの無理に決まっているでしょう」
「むむむ無理ではありませんっ!」
「無理に決まっています! あと情けない話し方をするんじゃありません! いついかなる時も淑やかに慎ましくと教えてきたでしょう!」
「ひぃっ」
それは鬼の形相で声を荒らげている本人が言えることではない。
反論したいけれど怖すぎて無理だ。
だけど自分の気持ちだけは何とか伝えなくてはと声を震わせる。
「緊張してしまったり、怖くて震えてしまうのは、仕方ない、でしょう。これが私なんです……! 私はっお母様が理想とする娘にはなれませんから、貴族なんて、ややや辞めますっ!」
「っっ、何てことを言うの!」
エレノーラの目には、勢いよく向かってくる平手が映った。
ぶたれる……!
とっさに顔を守るように構えた両手からは、反射的に魔法が飛び出した。




