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神隠しの子  作者: ミドリ
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其の五十 太一の領域

挿絵(By みてみん)

 花は、ゆっくりと例の立て札の前まで歩いてくると、止まった。


 花の横に並び、立て札を目を細めて見つめる花の表情を観察する。


「……熊ねえ。本当かな?」


 小馬鹿にした様なその言い方には、明らかな棘があった。可愛らしい顔には、これまで一度も見たことのない侮蔑の色が浮かんでいる。


 嫌な予感に、背中がムズムズしてきた。冷静に考えたら、そんな可能性なんてある訳がないに決まっている。だが、どうしてもその不安を拭うことが出来なかった。


 もしそうだとしても、認めたくはなかった。そんなこと、ある筈がない。そんなことがあったら、さっき自分がした行為は。


 信じたくなくて、これはきっと花の裏側の顔なのだろうと、それこそ事実であったら立ち直ることが出来なさそうなことを期待した。


 迷い込みそうになる混乱から、無理矢理頭を切り替える。ここに来た目的を忘れてはならない。


「花、教えてくれ。あの日のことを」

「そんなに知りたい?」


 ちろりと覗く花の舌は、赤く艶めかしかった。だけど、これにキスをしたいとは思わなかった。


 幾度となく味わった花の口は、今キスをしたら、これまでとは違う味がするのではないか。そう思い始めたら、キスをするのが恐ろしくなってきた。先程は行為自体に夢中になり過ぎて、キスはしなかった。だがもし今キスをして、ブドウ味でもしてしまったら。


 俺はきっともう二度と、花の身体を抱くことは出来なくなるに違いない。


「……知る為に来たんだ。勿体ぶらずに教えてくれ」

「そっかあ。どうしようかな?」


 花は、俺を焦らしてどうしたいのだろう。どうして俺をこんな目に合わせるんだろう。


 これは本当に花なのか。それとも、俺が恐れていることが起きているのか。何もかもが分からないが、はっきりさせたいという気持ちは失せつつあった。答えが、俺が望まない結果だとしたら、自分はきっとまたニセの太一の殻に閉じこもってしまう。だけど、偽物だろうがなんだろうが、俺はもう太一には一瞬たりとも戻りたくはなかった。


 もう二度と、重なる瞬間は欲しくなかった。


「ちゃんとはっきりと、思い出してやりたいんだ。太一のことを」


 わざと試す様な言い方をしてみる。これを聞いて、今まで通り少しでも嫌がる素振りがあったら、これは花。だが、そうでなかったら――。


「嬉しい、宗二……!」


 吐息の様な妖艶な声が、俺の名前を呼び捨てにした。


 自分の身体が硬直するのが、分かった。


 声を出そうとした。嘘だろ、なに冗談言ってんだよ、そう言いたかった。


 だが、開けられた口からは、声は出てきてはくれなかった。緊張で喉が張り付かんばかりに乾燥し、口の中の唾をかき集めて呑み込むと、辛うじて掠れ声を発することが出来た。


「お前は……」


 その先は、続けることが出来なかった。花が、ふいっと柵の方に向かって進んで行ってしまったからだ。股下程度の高さまである木の柵をひょいと跨ぐと、鬱蒼と生い茂る山の森へと躊躇なく踏み込む。


「お、おいっ」


 手を伸ばすが、足は行くなとばかりに動いてくれなかった。行っては駄目だ、そこは太一の墓場なのだから。太一の領域に入ったら、二度と出て来られなくなるのではないか。


 根拠のない恐怖心に襲われ、伸ばした手の力も段々と抜けてきてしまった。


「な、なあ……! そっちは入っちゃ駄目だ、戻ってこいよ!」


 背中を向けて奥へとゆっくり進んでいた花が、動きを感じさせぬままこちらを振り返った。伐採されていない木が作る影の色は濃く、まだ午前中だというのに黄昏時かの様な雰囲気だ。


 また一瞬、ちらりと赤色が視界にちらついた。それは本当に一瞬だった。時折僅かに差し込む木漏れ日が、そう見えたのだろうか。


 暗い影の中、花が誘う。


「こっちに来たら、教えてあげるよ」

「……さっきもそう言って、教えてくれなかったじゃないか!」


 俺は、花に向かってだったら言わない様な口調で責める様に言った。それに対し、花は艶やかに笑う。


「あれは、宗二とひとつになりたかったから」

「ひ、ひとつって……! 何言って……」


 花にあるまじき言葉の選択に、そこに立っているのが花ではないかの様な錯覚を覚えた。


「そう怒るなよ、悪かったって。――だから聞いただろ? 気持ち良かったかって」


 花が、――いや、花の形をした何かが、すっと手を伸ばす。


「それとも、また逃げるのか?」


 ガン! と頭を殴られたかの様な衝撃が、俺を襲った。また、逃げる。そうか、俺はずっと逃げていたのか。だが、何からだ? 一体何から逃げていたのか。それが分からないままでは、逃げていたことを認めることすら叶わない。


「……行けば、話すんだな」

「逃げなければね」


 ぐ、と痛い程に唇を噛み締めると、犬歯が当たったのか、血の味が滲んだ。


 花の中にいるのが何であろうと、あれは花だ。花を危険な目に遭わせたくはなかった。


「今行く」


 柵の前まで行くと、一旦立ち止まる。ごくりと唾を呑み込むと、覚悟を決めてそれを跨いで入った。


 太一の領域へ。

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