其の三十五 消えた影
母さんをぐいぐい引っ張ると、平らな場所に来たところで手を離し、寺務所の中に駆け込んだ。
「花っ!」
「うわっ! びっくりした!」
広い土間には、花が立って驚いた様な顔でこちらを見ている。花の横にいるのは小柄な住職の奥さんで、白い割烹着を着用していた。見渡す限り、赤い服の男はいない。
バクバクいう心臓を上から拳で押さえながら、念の為尋ねた。
「あ、あの、赤い服を着た男の人が来ませんでしたか!?」
「へ? どうしたの宗ちゃん」
俺は、咄嗟に言い訳を口にする。これだって可能性はあるだろうし、誤魔化せるだろうと考えながら。
「いや、花が手桶置き場から寺務所に向かってすぐに、手桶置き場の裏から男が出てきてさ。そいつの動きが怪しかったから、それで……」
すると、住職の奥さんが、言いにくそうな微妙な笑みを浮かべた。
「宗二くん、あのねえ。手桶置き場は壁にぴったりとくっついてるから、裏なんてないのよ」
それを聞いた花が、目を見開く。そんなに大きく開いたら、目ん玉が落ちてしまいやしないか、なんて余計な心配をしてしまった。
住職の奥さんが、済まなそうに小声で教えてくれた。
「まあ、お寺だからねえ。あるわよ、そういうことも」
「そういうこと……」
俺が呟くと、住職の奥さんは苦笑した。目尻に作られた横皺は、通常では考えられない出来事を幾度も刻んで作られたのだろうか、などとくだらないことを思う。
「ここには、いろんな人がいるからねえ」
そう言って、寺務所の玄関の先に広がる墓場を遠い目で見た。いろんな人という言葉には、生きているのも死んでいるのも含まれているのだろう。
背中を、冷たい汗が伝った。
寺務所の外からは、一体何万匹いるのかと思いたくなる様な蝉の声が聞こえてくる。無言になると、そればかりがいやに耳に入り、非現実感が俺を襲った。
「……ま、冷たい麦茶でもどう?」
そう言って、何でもないことの様に微笑むので、それ以上何も言わなかった。麦茶は欲しいので、ただこくんと頷く。
「待っててね。座ってていいわよ」
「……ありがとうございます」
場を支配する得も言われぬ雰囲気に、ただ静かに座るしか出来なかった。
すると、遅れてやってきた母さんが、「ああ、ここは涼しいわねえ!」と呑気に笑いながら入ってきた。途端、緊迫していた雰囲気が緩むのだから、人の持つ明るさというのは実は色々な場所で役立っているに違いない。少なくとも、母さんの登場で、いつの間にか入っていた肩の力はフッと抜けた。
住職の奥さんが、廊下にある冷蔵庫から冷たそうな麦茶を取り出す。涼しそうな磨り硝子の湯呑みに麦茶を注ぐと、「どうぞ」と穏やかに笑いかけた。
「あ、いただきます」
「今日はもっと暑くなりそうねえ」
口に触れた途端、急に喉の渇きが襲ってきて、我慢できず麦茶を一気飲みした。喉から食道まで、冷たい物が流れていく感覚。気持ちよかった。このまま、先程の非現実感も呑み込まれて消えてなくなれ。情けない思いと共に、最後のひと口を嚥下した。
「お昼、何食べたい?」
母さんが、火照った顔のまま尋ねる。
「さすがに暑過ぎるからな。買いに行くのも大変だろ? 家にある物でいいよ」
それに、代わりに買いに行かされるのもこの暑さではきつい。
俺の言葉に、住職の奥さんがにこにこと母さんに笑いかける。
「宗二くんは優しいわねえ。うちの息子なんてこの時期はもう尖って尖って、大変だったわよお」
「そういえば、宗ちゃんは反抗期はなかったわねえ」
おほほ、なんて笑いながら人の話をしているので、居心地が悪くなってそっぽを向く。すると、花が慰め顔で小さく微笑んでくれた。俺の癒やしは花だ。間違いない。
そういえば、住職の奥さんは先程から俺のことを宗二と呼んでいる。……花が話したのだろうか。
楽しそうに世間話をする二人を横目に、思えば色んな人に気を遣わせていたのだな、と改めて自分の身勝手さを顧みたのだった。




