其の二十九 恐怖と困惑
中身が動く筈のない太一のタンスから消えてなくなった、赤いTシャツ。
ファミレスで見た、そして家の廊下で見たあの真っ赤な色のTシャツのことか。
本来なら馬鹿馬鹿しく思える様なその考えすらしっくりきてしまう程、度重なる超常現象の所為で心はそれをすんなりと受け入れてしまった。
何故タンスに入っていた物がなくなる? 太一のタンスは、母さん以外は触らない筈だ。あれは母さんの心の拠り所だから。それは俺と父さんの共通認識だったから。
誰も何も言わずとも。
「……知らない」
何とか辛うじて、それだけ自分の中から搾り出す様に言った。おかしく聞こえなかっただろうか。本当に何も知らないのに、何故か背中をツウ、と嫌な汗が伝う。
「うーん? 花ちゃんが触る訳ないし、おかしいわねえ」
母さんはそう言って、呑気に首を傾げている。花はあそこの存在は知らない筈だ。いくら勝手知ったる俺んちだって、花はそういう無粋なことはしない。使われていない部屋に入るなど、あり得なかった。
「母さんが何かと間違えてどっかに持って行ったんじゃないの?」
「ええー?」
母さんはまだ納得がいかない様だが、俺だって答えを持っている訳じゃない。暗闇に包まれた裏山に目線を戻し、その中に太一の手や足が見えないかをヒヤリとする気持ちで確認した。……この間は、家からの明かりを照らす日に焼けた子供の足があったが。
幸い、今は人らしき姿は見えなかった。
心からの安堵というのはこういう感覚のことを言うのだ。俺は、自分が思った以上に怯えているという事実に居た堪れなくなった。太一は兄弟なのに、愛情も持てずただあいつの影に怯えている。先程までは会いたいとすら思っていたのに、もう怖い。
急ぎ立ち上がると、縁側を後にして母さんの元へ向かった。この場にひとり残されるのは、怖い。
「母さん、晩飯の支度手伝おっか?」
母さんと一緒に家の中に戻りたくて、口実を作る。
「え? どうしたの宗ちゃんがそんなことを言うなんて」
俺の言葉を聞いた母さんは、本当に嬉しそうに目を細めた。……口実にしなくても、もしかしたらいいかもしれない。
分からないから、注意されるとイラッとするから。そんな子供っぽい理由で、母さんの手伝いなどろくにしてこなかった。
だが、花と話しながら家事をする母さんを見て、もう少し素直になろうかなと思ったのは事実だ。
「母さんばっかり大変だろ。俺も出来る時はやるからさ、声かけてよ。――必要な時が分かんないから」
母さんは少し驚いた様に俺を見た後、フワッと笑って頷いた。
「じゃあ、まずはお米を研いでもらおうかな。やり方分かる?」
「あー……何となく?」
母さんがぷっと笑うと、俺の強張っていた気持ちがほぐれていくのが分かった。同時に、何とも言いようのない恐怖心も徐々に薄れていく。
俺は混乱していた。あれは幻覚なのだと思いたいのに、折角思い込もうとしていたのに、事あるごとに太一が俺はここにいるんだと主張する様に痕跡を残していくから。
「じゃあ教えてあげるから、台所に行こうか」
「うん」
花は今風呂に入っているから、花が恥ずかしがらない様に今の内に付き合い始めたことを報告しようか。
風呂上がりにその事実を知って慌てふためく花の姿を想像したら可笑しくて、俺の上がったり下がったりな気分がようやく上昇気流に乗った。
もう、自分が分からなかった。太一が怖くて避けたいのか、会って話し合いたいのか、自分のことなのに、何ひとつ分からない。
でも、もし万が一にでもあれが幻じゃないなら、太一はきっとどこかでまた俺の目の前に現れる筈だ。現れるのには、きっと理由がある。あいつが出ては消えてを繰り返すから、それで恐怖を感じているだけなのかもしれない。
追いかけて姿をはっきり見せてもらったら、太一の目的が分かるんじゃないか。無謀にもそう考えた。先程まではあんなに怯えていたのに。
太一は俺が好きだ。きっと今でも。だったら、太一は俺に何か伝えたいことがあるんじゃないか。段々、そんな気がしてきた。
俺が怖がって逃げていくから伝えられないだけじゃないのか? と、これまで何度も目の前で消えたことは頭の片隅に追いやり、自分の都合の良い様に思考を捻じ曲げる。
そうしないと、気が狂いそうだった。
そして俺は。
母さんの後について台所へ戻る道すがら、赤い色を見つけたら今度こそ捕まえようと思ったのだった。




