王太子の嘲笑
新作の投稿です
王宮の大広間には、華やかな光が満ちていた。
数百の燭台に灯された炎が、磨き上げられた大理石の床にゆらめき、煌びやかなドレスを纏った令嬢たちの姿を照らし出す。
この夜は、アルザリオ王国の王太子アレクシス殿下の生誕を祝うために催された、盛大な晩餐会――その目玉が「贈り物の儀」だった。
貴族たちがそれぞれの娘を伴い、心を込めた贈り物を王太子に捧げる。
その評価次第では、娘の名声や、場合によっては縁談の話すら左右される。
それは、単なる祝宴などではない。
若き令嬢たちの未来を賭けた、静かなる戦場だった。
列に並んだミレイナ・アヴァロンは、小箱を抱えたまま俯いた。
指先がわずかに震えている。力を込めて抑えようとすればするほど、震えはかえって目立つように思えた。
周囲から注がれる視線は冷たかった。
華やかな装いの令嬢たちは、横目にミレイナを見やり、笑いを堪えている。
落ちぶれたアヴァロン家の娘。誰もが、そう心の中で嘲っていた。
列の前では、別の令嬢が大輪のバラの花束を捧げ、アレクシスの微笑みを引き出していた。
美しさと華やかさ。見栄えがすべてを決める世界。
誠実さなど、ここでは何の価値も持たないことを、ミレイナは嫌というほど知っていた。
それでも、まだどこかで期待していた。
例え周囲がどれほど冷たくあろうと、例えこの手に捧げる贈り物がつまらないと嘲られようと、
彼だけは、違うかもしれないと、心の片隅で願っていた。
幼い頃、あの王子に憧れた気持ちは、消えてなどいなかった。
初めて出会ったあの日。
ミレイナにとってアレクシスは、ただそこにいるだけで、世界を照らす光だった。
威厳と優雅さ、どんな令嬢にも分け隔てなく微笑む寛容さ。
子どもながらに、その背中を、いつか追いかけていきたいと思った。
今も、胸のどこかで、必死に探している。
あのころ見上げた、誇り高く、優しかったあの人の面影を。
冷たくないはずだと、信じたかった。
見捨てないでほしいと、すがるような想いが消せなかった。
理屈では分かっていても。
現実が突きつけられていても――
心だけが、どうしても追いつかなかった。
その希望が、愚かだったと知るのに、長い時間は必要なかった。
「次、アヴァロン侯爵令嬢、ミレイナ・アヴァロン。」
呼び出しの声に、小さく肩を震わせた。
ミレイナはぎこちなく一礼し、膝が笑いそうになるのを必死にこらえながら壇上へと進む。
目の前に立つアレクシスは、相変わらず美しかった。
だが、その微笑みに、温かさは微塵もなかった。
まるで、手に取る前から価値を見限っているかのような、冷たい目だった。
ミレイナは恭しくひざまずき、震える手で小箱を差し出した。
「王太子殿下。心を込めた贈り物を、お受け取りくださいませ。」
喉がかすれた。声が出ただけでも奇跡のように思えた。
アレクシスは小箱を受け取り、無造作に蓋を開ける。
銀細工の小さな花瓶が現れた。
王国の国花、アイリスを繊細にあしらった細工は、質素ながら、細部に込めた想いだけは誰にも負けないはずだった。
一瞬の静寂。
そのあとに響いたのは、抑えきれない嘲笑だった。
「これが、君の精一杯か?」
冷たい声が、会場中に響いた。
ミレイナの胸が、ひどく軋んだ。
「君は、華やかさというものを、まるで知らないのだな。」
そう言い捨てると、アレクシスは手にした小箱を無造作に投げ捨てた。
箱は乾いた音を立てて床を転がり、蓋が外れて中身が散らばる。
花瓶は石床にぶつかり、鈍い音を立てた。
銀の表面に、かすかな歪みが走ったのが見えた。
ミレイナは動けなかった。
拾い上げる勇気も、声をあげる力も残っていなかった。
誰も助けなかった。
誰も、止めようとしなかった。
見下ろす貴族たちの間に、忍び笑いが静かに広がっていく。
「だが――まあいい。誠意だけは、受け取ろう。」
吐き捨てるような声を最後に、アレクシスは次の令嬢へと向き直った。
膝に力が入らなかった。
それでもミレイナは、なんとか立ち上がった。
倒れれば、もう二度と自分を取り戻せない気がした。
壇上を降りる間、どんな顔をしていたか、自分でもわからなかった。
耳がぼうっとして、周囲のざわめきすら遠く聞こえた。
俯けば、その場で崩れ落ちてしまう気がした。
だから、顔を上げたまま歩くしかなかった。
涙をこらえるために、唇を必死に噛み締めながら。
これ以上、ここにはいられない。
誰の目にも触れたくなかった。
この国も、宮廷も、すべてが、自分には縁遠い場所だったのだと、ただ痛感するばかりだった。
どれだけ願っても、どれだけ努力しても、叶わないものがある。
ミレイナは、初めてそれを心の底から思い知らされた。
あたたかいものは、どこにもない。
信じた未来は、ここにはない。
ミレイナ・アヴァロンは、音もなく壊れた心を抱えながら、ひたすら壇上を降りた。
誰にも気づかれないように、静かに。
そして、もう二度と、ここへ戻らないことだけを、ぼんやりと願った。