夜明け前の逃走
夜の王宮は、昼間とは別の様子を見せていた。
宴の喧騒が去った後の静寂は、肌を刺すような鋭さを帯び、身を切るようだった。
ミレイナは、人気のない回廊を歩いていた。
両手は、何も持っていなかった。
あの夜、床に転がった花瓶は、誰にも拾われることなく片付けられた。
あれを拾う資格すら、自分にはないのだと、静かに思い知らされた。
誰にも呼び止められることなく、王宮を後にする。
冷え込んだ空気をまとったまま、静まり返ったアヴァロン家の門をくぐった。
屋敷に戻ったとき、待っていたのは重い沈黙だった。
祝宴で失敗した娘に対して、家では誰も視線を合わせようとしなかった。
父も、母も、目をそらした。
咎めるでも、慰めるでもなく。
まるで最初から、結果を知っていたかのように。
期待など、初めから持っていなかったかのように。
母の目には、失望がありありと浮かんでいた。
言葉にされるよりも、はるかに重く、突き刺さった。
父は、ため息をひとつ落としただけだった。
その音は、かえって耳の奥に残った。
何も言われなかった。
何も責められなかった。
けれど、だからこそ、ミレイナは理解していた。
この家には、もう自分の居場所はないのだと。
ミレイナは、自分の部屋に逃げ込んだ。
扉を閉めた音が、思いのほか重たく響き、胸の奥に沈んだ。
薄暗い室内には、かすかな埃の匂いが漂っていた。
暖炉の火はとうに消え、凍りついたような空気が壁に染み付いている。
鏡台の前に立ち、ミレイナはそっと鏡を覗き込んだ。
そこに映った自分は、知らない誰かのようだった。
乾ききった瞳。
疲れ切った肌。
何を考えているのか、自分でもわからない、虚ろな顔。
指先で頬をなぞってみても、何の温もりも感じなかった。
思い描いていた未来とは、あまりにも違っていた。
ただ、ここにいるのは、すべてを失った者の姿だけだった。
ゆっくりと鏡から離れ、暖炉の前にしゃがみ込む。
冷たい石畳の上で、ミレイナは小さく膝を抱えた。
肩を寄せ、体を縮めても、刺すような寒さは消えなかった。
時は凍りついたように止まり、空間だけが重く沈んでいた。
声を出せば、すべてが崩れてしまいそうで、何も言えなかった。
ただ静かに、息を潜めて座り込む。
世界から、ひとり、切り離されたように。
◇
どれくらい、そうしていたのか、わからなかった。
時間は確かに流れていたはずなのに、現実の感覚は、少しずつ霧散していった。
目を閉じていたわけでもない。
ただ、すべてが遠のいていくようだった。
窓の向こうには、分厚い闇が広がっていた。
まだ夜明けには程遠い。
その暗さは、終わりを告げることなく続いているように思えた。
けれど、このまま座り込んでいても、何も変わらないことだけは、痛いほどわかっていた。
体は鉛のように重たかった。
立ち上がるだけの力すら、どこかに置き去りにしてしまったかのようだった。
それでも、ミレイナは手をつき、壁にすがりながら、ゆっくりと立ち上がった。
足元がぐらついた。
寒さと空腹と、そして心の痛みが、容赦なく彼女を蝕んでいた。
それでも、立たなければならなかった。
ここに留まっていては、自分が自分でなくなってしまう。
そんな、かすかな恐怖だけが、唯一の支えだった。
顔を合わせれば、家族にとっての「厄介者」として扱われる未来しかない。
誰も、あの日の屈辱を帳消しにはしてくれない。
何も、変わることはない。
だったら。
この場所を出るしかない。
しかし、行くあてなどなかった。
頼れる者も、待っている者もいなかった。
室内に差し込む微かな明かりの中、ミレイナはそっとクローゼットを開けた。
手を伸ばし、くすんだ色合いの古びたマントを選び取る。
ひんやりとした布地が、指先にまとわりついた。
そのまま数秒、動けなかった。
本当にこのまま出てしまっていいのか。
そんな小さな迷いが胸を掠めた。
けれど、振り返る理由など、もはやどこにもなかった。
身支度は、驚くほど手早かった。
考えれば考えるほど、動けなくなる気がしたからだ。
必要最低限のものだけを、小さな革袋に詰める。
最後に、小箱にしまっていた家族の肖像画を見た。
数秒、ためらったのち、それを袋には入れなかった。
◇
屋敷の裏門は、昼間でも人通りが少ない。
夜更けになれば、警備の目も緩み、ほとんど無人に近かった。
本来なら、令嬢が足を踏み入れることなどない。
薄汚れた石畳。
煤けた壁。
ひっそりと、忘れ去られたような通用口。
ミレイナは、そこで立ち止まった。
乾いた夜風が、足元をすり抜ける。
普段なら絶対に通らない場所。
ここを越えれば、もう戻れない。
扉にそっと手をかけた。
金属の冷たさが、掌に刺さる。
ほんのわずかに、体がこわばった。
迷いも、恐れも、すべてその指先に滲んでいた。
それでも、力を込めた。
軋む音と共に、扉がわずかに開く。
夜の空気が流れ込んできた。
乾いた冷気が、頬を刺した。
だが、それすらも、ミレイナにはむしろ救いだった。
心の痛みの方が、ずっと、冷たかったのだ。
◇
ミレイナはただ一人、夜明け前の王都を、あてもなく歩き出した。
街路の石畳は夜露に濡れ、歩くたびに靴底から湿った冷たさが這い上がってくる。
街灯の光はほとんど消え、通りに人影はなかった。
店の看板は固く閉ざされ、窓もカーテンで覆われている。
吐く息が白く煙る。
マントの下、体はかすかに震えていた。
空がわずかに白み始める中、ミレイナは王都の門を目指した。
門が開くのは夜明け。
出入りする商人たちに紛れ込めば、目立たず街を出られるかもしれない。
足元は重く、靴の中まで湿気が染み込んでいた。
かじかむ指先を握りしめ、ミレイナは唇を引き結んだ。
どこへ向かうかは、まだ決まっていなかった。
ただ、この国に留まる意味がないことだけは、はっきりとわかっていた。
やがて、門の前にたどり着く。
まだ夜明けには早いが、すでに何台かの荷車が列を作っている。
寒さに耐えながら、ミレイナはその列の影に身を寄せた。
目立たぬように、静かに。
遠くで、鳥の鳴く声が聞こえた。
暗闇の中に、かすかな光の気配が生まれ始める。
夜が明けた。
ゆっくりと、門が開く。
朝の空気が、まだ見ぬ外の世界への道を広げていった。
ミレイナは、小さな背中を、かすかに震わせながら、静かに門をくぐった。
涙は、流さなかった。
流せるような、温かなものは、もう何一つ残っていなかった。




