その後
少しばかり、その後の話をしよう。
1900年、新たに手野統括の役員、それも取締役となった子爵は、代理人を立て、その者を日本へと派遣した。
その者は、ジェームズの親しき者であり、これ以後、手野統括役員としての子爵の総代理人として活動する。
1903年、留学生として現地に赴いていた砂賀テルは子爵と結婚することとなるが、日露戦争のため結婚式などの手続きは1905年まで延期とされた。
グッディ子爵の血筋には、テルが産んだ第29代子爵より砂賀家の血が入ることとなる。
1910年に春雷会は手野財閥全体の議会という存在となり、株式会社へと変更する。
このため株式が発行され、1914年に特別会員としてグッディ子爵にも株が分けられることとなる。
さらに、1931年から2年間、グッディ子爵が春雷会の代表取締役となった。
これと、1937年のアメリカにいるテック・カバナーの代表取締役就任が遠因となり、太平洋戦争終結後の財閥解体において、春雷会は生き延びることができたとされる。
春雷会株式会社化と同時に、手野財閥は欧州総代理店を設置することとなり、子爵がその店長となることが決定された。
このため、欧州統括部部長及び手野財閥欧州総代理店総店長という肩書で、グッディ子爵は就くこととなる。
手野財閥から渡される莫大な富は、これまで手放していた土地を買い戻しても十分なほどで、さらにフランスのボルドーワインのシャトーを2つ買うほどとなった。
子爵の邸宅は大河内が代理人として買い、名義は砂賀家当主であった。
しかし、1941年の太平洋戦争勃発により関係悪化の没収を避けるために、現地に設立した法人が保有することとなる。
手野財閥の関連業務は継続して子爵の責任の下、行われていたが、1945年終戦により、手野財閥が解体されると同時に、手野財閥が欧州、アフリカなどに残した資産の全てを継承することが決定され、子爵はそのすべてを受諾した。
なお、この継承は、手野財閥が復活する際までという期限があり、事実1970年の手野グループ総親会社となる手野産業が設立されると、グループ再編に伴って手放すこととなる。
2000年時点ではスコットランド貴族として、ロードシップ・オブ・パーラメント並びに第33代グッディ子爵を。
そしてグレートブリテン貴族として第15代アマーダン州のアマーダンのアマーダン男爵の爵位を有している。
また、1790年に作成され、2020年1月1日に有効となる特許状に基づいて、当日現に生存しているグッディ子爵は、以下の連合王国貴族の爵位が授けられる。
全て初代で、アマーダン公爵、チェリー侯爵、グッディ伯爵、ポッシュ伯爵、ポッシュ子爵、ダンディー州のアマーダンのミーチャン男爵である。
1790年には軍功により叙爵されることとなっていたが、いまだに不明な原因によって延期を繰り返していた。
そして2020年に叙爵するということで2017年末に発表があった。
ただし、本人はグッディ子爵で呼ばれることが一番うれしいということである。
それは、自身の歴史そのものであるからだろう。
全体として、グッディ子爵は手野財閥、手野グループと協力することによって、闇の勢力とも呼ばれるほどに強大な権力を手に入れた。
特に手野グループにある武装警備業者は、あのアメリカとも渡り合えるともいわれるほどの武力を有している。
これを背景として、手野家、砂賀家とグッディ子爵は今後も協力関係を持ち続けるつもりだ。




