第六話 離別(1)
昨夜、なかなか寝付けずにいたフィオナは、少し寝坊してしまった。
朝起きて、急いで階段を下りると、すでに同居人たちは食卓に集まっていた。
昨日の夕食時にはいなかったヴァンは、今朝は一番奥の定位置に座っていた。遅くなるとの言葉通り、皆が寝静まった深夜に帰ってきたのだろう。
「おはよう」
「おはようございます、ヴァン」
日常の挨拶が交わされ、いつもと同じ一日が始まる。
だがフィオナが朝食の席につくと、その場に双子の兄弟だけがいなかった。
昨夜遅く戻ってきたヴァンだけが顔を合わせたらしく、しばらく家を離れるとの伝言があったらしい。
「しばらくっていつだよー」
自家製ジャムをたっぷりつけたトーストを噛みちぎりながら、リッドが口を尖らす。
「何にも言わないで行くなんて、みずくせーやつらだな」
おたまを握ったカミュは不満顔だ。彼の場合、朝食を2人分余分に作ってしまったことが不満なのだろう。もっとも、育ち盛りが多いので、2人分の余剰などぺろりと消えてしまうのだが。
「それだけ、すぐ戻ってくるような用事ってことなんじゃないか? しばらくってことは、そのうち戻ってくるんだろ?」
「そりゃそうだろ」
空のスープ皿をカミュに突き出しながら、ラウが楽観的な意見を口にする。それに同意しながら、一気にスープを飲み干したリッドが、先を争うようにカミュに皿を突き出した。
「おまえら自分で入れろっつーの」
嫌そうな顔でぼやきながら、赤毛の少年が手際よくおかわりをついでやる。
「そうだね。ユーリは生活力がないから、多分すぐにカミュの料理が恋しくなって帰ってくるよ」
ウィルがあっけらかんと言うと、食卓に和やかな笑いが広がった。一人、奥の席に座るヴァンだけが、まずいものでも飲み込むような顔で食事を進めていたが、それもいつも通りと言えばそれまでだ。
「にしても、ジークはともかく、珍しいな、ユーリが出かけるの」
「あいつ引きこもりだからな。なんかまた、へんてこな発明の材料でも買いに行くんじゃねー?」
「なるほど」
リッドの予想に、ラウが納得する。いかにもありそうなことだ。
ユーリの趣味は、自称『発明』らしく、屋根裏部屋をアジトにして、日がな一日引きこもっていることが多い。そこで生み出されるものは、大抵がガラクタ――らしいが、たまに生活に役立つ物を作ってくることもあるので、侮れない。
いつもと変わらない朝の風景が過ぎていく。
ただ、フィオナの席から斜向かいの2席が、ぽっかりと空いている違和感だけは、どうしても拭えなかった。
「ごちそうさまでした!」
見事な食べっぷりでいち早く食事を終えたリッドが、手を合わせて席を立つ。
「なぁ、こいつの朝ごはん取ってきたいんだけどさ。子どもの鹿って何食うんだろ?」
リビングの隅の箱の中で、タオルにくるまって丸くなっている子鹿を覗きこむ。
「さぁ~果物とかでいいんじゃねぇの」
カミュの思いつきの意見に、同じく食事を終えたラウが立ち上がった。
「お、じゃあなんか裏庭から取ってる」
「オレも行く!」
「おー、来い来い」
「おいリッド、皿洗いは?」
「今日だけパス!」
カミュの突っ込みに、すでにラウの後を追って裏口に向かっていた少年の背中が答える。
「ったく、仕方ねーな……あ、お姫様はまだゆっくり食べてていいから」
慌てて手伝おうと食事の手を早めたフィオナに、目ざとく気付いたカミュが釘を刺す。
目配り気配りのきく料理上手な王子様は、手際良く空いた皿を重ねて、キッチンへと戻っていった。
その背中を見送り、言われた通り自分のペースで食事を取っていると、食後のコーヒーに口をつけたヴァンが、隣に座る兄に話しかけた。
「ウィル」
「何? ヴァン」
「お前は、魔女の存在を信じるか」
(魔女……)
その会話に、ドキンと胸が跳ねる。
昨日、ユーリたちから聞いた東の魔法使いの話が、ずっとフィオナの頭に張り付いていた。
あの時、ヴァンはその場にいなかったはずだが、そのタイムリーな話題に、フィオナは黙ったまま耳を傾けた。
紅茶を一口含んだあと、ウィルはこともなげに答えた。
「魔女はいるよ。城にいた時も、何度か魔女と名乗る者が訪れただろう」
「だが、あれは……」
「うん、とんだ詐欺師だったね」
にこやかに肯定し、ふと小首をかしげて見せる。長い白銀の髪が、さらりと白い頬を滑った。
「魔女はいるだろうけど、その力がどれほどのものなのかは……俺には分からないな」
この、髪の先までが輝くような美貌の青年は、とても冷静で、視野が広い――とフィオナは思う。リッドなどは、「ウィルは何でも知っている」と、自分のことのように胸を張って言う。
もちろん、ウィルにも分からないことはあるのだろうが、「分からないこと」に対しての視点が、フィオナ達とは違う気がする。
「本当に伝説通りの力を持っていれば、彼女たちは不老不死で、どんな怪我も病も治せて、あらゆる呪術に精通している。また呪文一つで炎を生み、風を巻き起こすことも出来る。そんな力を持っているなら、とっくに大陸を支配していそうだけど――魔女というのは、よほど欲がないのかな?」
(そうかも……)
ウィルの言葉を聞きながら、フィオナはひとり納得していた。
レイン。この『迷いの森』に住まう魔女。
本名はローズレインというらしい。無垢な少女のような顔を持つその人物が何者なのか、フィオナは彼自身の言葉でしか知らない。
ただ、聖日祭にアルファザード王国の王都ファザーンで偶然出会った時、彼が見せた不思議な力は、その言葉を信じさせるだけのものだった。
おそらくは、最近アルファザードの第一王子レナードが寵愛しているという噂の魔法使いとは、彼のことだろう。
大国の王子の傍に魔法使いの影があるというのは実に怪しいが、レイン自身の言動を見ていると、大国を裏から操るとか、そういうことに興味がありそうには見えない。
……もっとも、フィオナとてレインの多くを知っているわけではないし、彼の別の一面があったとしても、なんら不思議はないのだが。
奇妙なことに、この『森の家』の住人で、レインのことを知っているのは、どうやらフィオナだけのようだった。
レインと出会うきっかけになった、森に住む不思議な少年――ルイロット曰く、森の魔女は外から来る人間とは、接触しないようにしているらしい。
フィオナだけが、どうして特別に面会を許されたのかは謎だ。
だが、理由はどうであれ、その『特別』になれたことが、今のフィオナにとっては重要だった。
実は、昨夜はずっとそのことを考えていたせいで、なかなか寝付けなかったのだ。
「ヴァン、ウィル。私、ちょっと出てくるわね。そんなに遠くには行かないから、心配しないで」
食事を終え、空いた皿をキッチンへと運ぶと、カミュはもうほとんど作業を終えていた。せめて自分の分だけはと軽く手伝ったフィオナは、2人にそう伝えて、そそくさとダイニングを離れた。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「…………」
1人分の送り出す声しか聞こえず、玄関先で一度振り返ると、指定席に座ったヴァンは、じっと前を見据え、腕を組んでいた。何か、思案にふける時の姿だ。
イアルンヴィズの森の中は、何のあてもなくさ迷い歩くと、簡単に遭難できてしまうほどには深い。
身体を動かすのが好きだというラウは、よく一人で、冒険と称してかなり奥深いところまで探索することがあるが、フィオナはせいぜい、同居人たちに教えてもらったことのある場所くらいしか、歩き回れる自信はなかった。
フィオナは、大樹の下に立っていた。
『ウィルの樹』とリッドと2人で名付けた大樹は、その森の中でも異様な存在感を見せつけている。
大きく広がった枝の隅々まで碧の若葉が繁り、ほんの2週間ほど前に見た、薄桃色の花天井が夢幻のように思えた。
「ルイロット!」
青々と茂る碧の葉に向かって、声を張る。
「ルイロット、いないの?」
だが、声はむなしく枝葉に吸い込まれ、後には風のさざめきと小鳥たちのさえずりだけが残った。
レインに会いたい。
いつか、会いたいと願えば会えると言ってくれた彼の言葉を思い出し、フィオナはもう一度森に叫んだ。
「レインに会わせて欲しいの!」
シュヴァルトの帝王に仕える東の魔法使いが、失明した人間の傷すら癒せるというのなら、アルファザードの王子に協力する西の魔法使いが、歩けないウィルの足を治すことだって可能なのではないか。
フィオナがそんな期待を抱くのは、自然なことだ。
レインが特別にフィオナとしか会ってくれないのだとしたら、フィオナが彼に頼むしかない。遠いシュヴァルト帝国に赴いて、東の魔法使いに会おうとするよりは、よほど現実的なはずだ。
だがいくら呼びかけても応えはなく、フィオナは胸のうちの希望が急速にしぼんでゆくのを感じた。
「レイン……お願いだから……!」
祈るような気持ちで、歩き出す。以前、ここでルイロットを見つけ、レインの家まで連れて行ってもらった道程を思い返した。
(確か、こっち……?)
だがいつも、あの家に赴く時は霧に絡め取られて、方向感覚も時間感覚もないまま、気が付けば突如現れた小さな家の前に立っていた。
どちらに向かっていたか、上っていたか、下っていたか、それすらも記憶が判然としない。思いつくままに足を進めてみても、やはりどこまでも奥深い森が続くだけで、あの不思議な小さな家が現れることはなかった。
レインという存在が嘘だったかのように――そこに、フィオナたち以外に人が棲んでいることなどあり得ないとでもいうように――森は無情に、フィオナの呼び声を響かせる。
ルイロットとレインの名を呼びながら歩き続けるうち、フィオナは、もしかしたらあれは夢だったのではないかと思い出した。
この森の中で出逢った魔法使い。
時が止まったような不思議な小部屋。
美しいものしか映さないわがままな鏡。
レインは、ルイロットは――本当にいたのだろうか。
魔法のように消えてしまった彼らの姿は、この不思議な森の見せた幻だったのではないか。
(そんなはず……ない……!)
「レイン! レイン、お願いよ。何でもするから……もし出来るなら、ウィルの足を治して!」
不安を打ち消し、指を組んで懇願する。
『私はこの森の魔女ですから、この森で起こった出来事は全て知っています』
以前、迷うフィオナに可能性を指し示した彼は、そう言っていた。
ならば、この願いも届いているはずだ。
その時、風が止んだ。
それまで、当り前のように梢をくすぐっていた春風が、ピタリと止んだのだ。
穏やかだった森に、急に、真の意味での静寂が訪れる。
まるで様子を窺うように、森の中にどこか張りつめた空気が漂い――そしてやはり、何も起こらなかった。
それでも諦めきれず、あてもなく森の中を歩き続けたフィオナだが、結局、その小さな森の家を見つけることは出来なかった。
へとへとに疲れて、ふと我に返った時、フィオナはとんでもないことに気付いた。
「私……今どこにいるのかしら……」
空はまだ明るいが、太陽の傾き加減からして、正午はとっくに過ぎていると思われる。朝から家を出て、昼食の時間にも戻らないとなると、そろそろ同居人たちが心配し始める頃だろう。
「どうしよう……」
最近、少しだけ自覚が出てきたのだが、フィオナは方向音痴だ。以前教えてもらった、迷った時の対処法を思い出そうと、とりあえず手近な木の根が盛り上がったところに座り込む。
「方角的には、多分北西に来たわ」
口に出して確認する。細かい道程は覚えていないが、そちらの方向に歩いてきた自覚はあった。
「北には大きな川がある。あの川はかなり西の方まで走っていて、そのままアルファザードのどこかに流れ込んでいるとジークが言っていた」
フィオナは川を渡っていない。目を閉じて、耳を澄ますが、風の音や葉擦れの音、鳥のさえずりや小動物の息遣いが聞こえるだけで、水音は聞こえてこない。
見上げた太陽は西に傾き始めており、そこから方角を割り出し、フィオナは北を向いてみた。
川はまだ近くはなさそうだが、このまま北へ歩いていけば必ずぶつかるはずだ。そこから上流へ辿っていけば、今よりは『森の家』に近づけるはずだ。
あの川辺は見晴らしがいいし、ジェードやクンツァイトが水を飲みにやってくることも多い。住人達の探索の目につきやすいだろう。……探してもらうことが前提となっていることが情けないが。
つたないが、それくらいの知恵しか思い浮かばず、フィオナはすぐに行動に移した。が、本当にそれで合っているという確信があるわけではない。
(これで、実は全然見当違いの方向に歩いていたら、本当に笑えないわ……)
それでも、まず自力で解決出来る範囲を想定し、目的達成に向けて思考を巡らし、行動に移すという一連の作業を、戸惑いもなく行えるようになったのは――この森に来て、自立を目指し始めてからの変化であるということに、フィオナ自身は気付いていなかった。
「あら……?」
フィオナが北に向かって歩き出すと、徐々に視界が白んできた。
霧だ。
これは――
「ルイロット?」
首をめぐらす。覚えのある感覚だった。この森である人物と出会うと、必ずと言っていいほど起こる現象。
「レインの家に連れて行ってくれるの?」
期待を胸に問いかける。が、返事はなかった。
代わりに視界の端で、人影が霧の中を舞った。羽でも生えているような身軽さで、影はついてこいとでも言いたげに、フィオナを引き離していく。
「待って、ルイロット」
霧が出てしまえば、距離感も方角すらも分からない。フィオナは目を凝らし、ルイロットの影を追うことだけに集中した。
すると、ふいに疲れていた身体が軽くなった。体重が半分抜けたようなその感覚も、やはり霧の中を彼を追う時に、いつも感じたものだ。
しばらく追い続けると、それまでつかず離れずの距離を保っていた影を、急に見失った。
「ルイロット……?」
呟いた声が何かの合図だったかのように強い風が吹き、フィオナは思わず目をつぶった。
乱れる髪を押さえ、目を開けた時、目の前の光景に言葉を失う。
霧が晴れたその場所は――『ウィルの樹』の下だった。
戻ってきてしまった。
立ったまま夢でも見ていたのかと思うようなその現象に、ただ、傾いた太陽だけが、時間の経過を教えてくれる。
(私に会う気はないってこと?)
探しても無駄だと、そう言われている気がした。
「私が都合のいいお願いをしようとしているのがバレて、愛想尽かされちゃったのかな……」
レインは何でもお見通しだ。
そして、彼に会う気がない限り、フィオナがどれだけ望んでも、彼に会うことが出来ないのも、また事実だった。
「フィオナ!」
肩を落とした背に声がかかり、振り返ったフィオナは、声の主に驚いて駆け寄った。
「ウィル! どうして……」
普段、あまり一人で出歩くことのない車椅子の青年が、安堵したような表情で見上げてきた。
「こんなところにいたのか。みんな探してるよ」
「ごめんなさい。すぐ戻るつもりだったんだけど……少し迷っちゃって。でもウィルの方こそ、こんなところまで1人で出歩いたら、ヴァンが心配するんじゃない?」
弟の名を出すと、ウィルが少し寂しげな表情で微笑んだ。
「留守番してろって言われたんだけどね。君に会いたくて、俺も勝手に探しに出たんだ」
「私に?」
首をかしげる。一緒に暮らしているのに、わざわざ会いたいと言われるのも不思議な気分だった。
「正確には、君にお願いがあって、かな……ね、フィオナ」
一度言葉を切り、迷うように目を伏せたウィルをじっと待つ。
「君は、ヴァンがどこかへ行ってしまったらどうする?」
「え?」
全く予想外の投げかけに、咄嗟に返す言葉が思いつかなかった。
だが、向けられた目は真剣そのものだ。
「ひとりでどこか危険な場所へ向かって、二度と戻ってこないとしたら」
「そんな……」
そんなのは、嫌だ。
その仮定を考えた瞬間、胸にせり上がったのは、感情的な拒絶だ。
だが、考える。
ヴァンがどこかに行く時――それは、彼自身が何か目的があって、そう決断した時だ。
一度、満天の星空の下でフィオナに過去を語ったヴァンの眼差しは、揺るぎない未来へと向けられていた。
きっと彼がこの場所を離れることがあるとしたら、その『未来』のためなのだろう。
「嫌?」
「嫌、です。でも……」
それが、あの人の決めた道なら――
そう言おうとして、言葉が出なかった。
迷い、唇を噛んで台詞を飲み込んだフィオナを見て、ウィルが黙って頷いた。
「ヴァンを引き留めて欲しいんだ」
肩に手を置いて、覗き込むようにして見据える目は、彼が大切に思う青年と同じ色をしていた。
「君の言葉で、君の声で、君の心で。どこにも行かないでって」
「ウィルは……?」
なぜ、そんなことを自分に頼むのだろう。それは素直な疑問だった。
ウィルがそうして欲しいなら、きっとヴァンは従うはずだ。
すると、青年は悲しげに微笑み――微笑んだだけで、何も応えなかった。
「俺が君にそう頼んだっていうのは、言わないで」
言って、伸びた右手が、フィオナの頬に添えられた。
「ね? お願いだよ、フィオナ」
重ねて頼まれ、その時初めて、彼が普段にはない焦りや不安を抱えているのだと気付いた。
ヴァンは、朝からなにも普段と変わることはなかったと思う。
だが、彼のことを誰よりもよく知るはずの兄が、何か異変を感じているのだとしたら、それが気のせいであるとは思えなかった。