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夜、宰相付きの武官だという兵士がやって来て2つの言葉を伝えた。
1つは書斎に置いている書物を宰相府まで届けて欲しいというものだった。
指定された本はライドゥル語の辞書のようなもので、宰相府であればわざわざ持ち込まずとも置いてあるだろうものだった。
テレーゼとシェイラは首を傾げ、他に何かあるのかと尋ねた。
続けられたのは昼間、マティアス侯爵邸を訪れる途中王太弟殿下が何者かに襲われたというものだった。
「それは…!」
声が震える。
言葉を失った母を横に、なんとか冷静さを保たせながらシェイラが尋ねる。
「殿下はご無事なのですね」
「もちろんです」
ですがと口籠った兵士にシェイラは見当をつける。
本は口実だ。襲われたというのには何か裏があって、シェイラを呼び出そうとしているのだ。
奇しくも指定された本はtライドゥル語の辞書。するとライドゥルに関連していることだろうか。政治文書に使われるライドゥルの古語までを自在に操るシェイラは翻訳に通訳にと重宝がられている。何か手伝わせたいことがあるのかもしれないと考え、承りましたと応じる。
朝一番に持って来て欲しいという伝言は寧ろ都合がよかった。
ジークヴァルトの無事を確認したいし、お礼も言いたい。
起き出したシェイラは、母より昨日、一昨日とジークヴァルトが見舞いに来てくれたと知らされとても驚いたのだ。
王の魔術から解放されたばかりだからと言って、見舞いに来てくれたジークヴァルトを前にすよすよと寝続けていたという自分が残念で仕方がない。
しかもマティアス邸を訪れる途中に襲われるなんて、今日会えないことをひどく残念に思っていた自分を責めたくさえなる。
「分かりました、必ず明日朝一番に書物を探し、宰相府にうかがいますわ」
しっかりとした口調で告げ、兵士の労をねぎらう。
その夜、シェイラはあまり眠れなかった。
無事と言っても毒薬を煽り、倒れたらしい。
何よりも無事な姿を確認したいと祈るように指を組み合わせたままソファに座り、なかなか動かない時計の針を見上げ続けた。
翌朝。
登城するには早過ぎる時間に起き出したシェイラは、紺のワンピースを着る。
宰相府に書物を持っていくだけなのだからと、なるべく目立たない装いをし、書庫へと向かう。代々学問好きな者が多いマティアス邸の書庫は広大だ。王宮とまではいかないが、王都の図書館に匹敵する書物が揃えられており、大概の本を探し出すことが出来る。
フェルディナンドの指定した本は、書庫でも奥の方にある、5冊組の分厚いものだ。同じ書物もシェイラ自身も所持しているのだが、そちらの方は学術院の自室に置いており、いささか埃の被ったそれらを運び出し、装丁に問題のないことを確認する。
侍女のマリーと執事に手伝ってもらい馬車にまで運び込むと、ちょうどタイミングを合わせたように大きなバスケットを抱えた料理長がやってくる。
「シェイラお嬢様」
「ありがとう、フランツ。朝早くから手間をかけさせてしまったごめんなさい」
バスケットの中には、片手で摘みやすい軽食が入っている。宰相府で徹夜しているだろうフェルディナンドとイザク、そして内官の方達のために用意してもらったものだ。
「フランツのターキーのサンドイッチはお父様のお気に入りだもの、きっと喜んでくださるわ」
「えぇえぇ、旦那様はこれがお好きですから」
ふくよかなで笑顔が絶えない料理長からバスケットを受け取り、馬車へと乗り込む。
マティアス侯爵邸から王宮までは馬車で向かっても10分ほどの距離にある。料理を持っているため、ゆっくりめに走らせてと頼み、窓から朝の風景を見る。
屋敷を出てからしばらくはなだらかな坂道だ。この区画は上位貴族のタウンハウスが多く建っており、屋敷の間の間隔も広めに取られている。門の隙間からは貴族夫人達が贅をこらしたガーデンが見え、春のこの時期は特に目を和ませてくれる。
人通りはあまり多くない。
一般民衆はほとんど立ち入らない場所だから当然だ。
だから昼間から物盗りが出たのかと考え、矛盾を感じる。
昼間であれば、人通りの少ない場所で滅多にこない人を狙うより、街中の人混みの中でサイフを掠め取る方がよほど効率的だろう。
貴族の馬車には屈強な私兵が乗り込んでいることも多く、手持ちという意味でも商人の方が遥かにいい。
物盗りというのならばこの場所も、狙う相手もおかしい。
ジークヴァルトとヴィリーは軍服で、騎馬で移動していた。あの2人ならば結構な速さで馬を駆っていただろう。剣の腕を過信したのだとしても、決して襲うような相手ではない。
「お嬢様、いかがなさいましたか」
しばらく考えこんでいると向かい側の席に座るエレンが話しかけてくる。
今日の付き添いはマリーではない。念のためにとテレーゼが兵士を連れていくよう言ったのだ。エレンは侯爵家では数少ない女性兵士であり、剣の師でもある。シェイラ自身、王太子の婚約者という危うい立場からそれなりに剣の指導は受けている。
「よく、分からないわ」
「物盗りのことですか」
「えぇ。やはり、兵士が誰か知って、狙ったということよね」
「そうでございましょうね」
横に置かれた書物をちらりと見、ライドゥルが「ほぼ唯一の次代」となった王太弟を狙ってきた、と想像をする。
可能性は否定しない。この5年間、領地を奪われたライドゥルはずっと、奪還の機会を探していただろう。
しかし、と思う。
ジークヴァルトが狙われる可能性は他にもある。
ユーリエが実は納得していなかったとすれば?
離宮にやられた王妃様が未だ王宮内に力を持っていたとすれば?
確かにエルンストは失脚した。が、ジークヴァルトが倒れればエルンストを再び担ぎ出すしかないのだ。
不運や不幸、偶然が重なり、この国にはあまりに王子が少ない。
それはティトゥーリアの貴族社会を歪め、他国に狙われる隙を与える。
ジークヴァルトの妃選びは急務だろう。カテリーナから招待状が届いたお茶会で、そのまま相手が決まるかもしれない。逆に、決まらなければアーデルベルトの継妃選びが、手っ取り早く側妃の後宮入りが進言されるだろう。同時に、失脚したエルンストさえも後継作りの駒して持ち出されるかもしれない。
けれどそれではまた、貴族は割れるのだ。
この日のシェイラは首元の詰まったワンピースを着、その下には首飾りを忍ばせている。皮紐を通しただけのジークヴァルトの守り石だ。それをぎゅっと握りながら、これを返す覚悟をしなければならないのだろうと想像する。しかも早々に。
出来ることならばその日は1日も遠ければいいと思うが、おそらくかなわないのだろうと途方に暮れた。
一晩休めば大丈夫だろうと思っていたが、不覚にも随分と寝てしまったらしい。
カーテンからのぞく陽の光は随分と高く、時計を確認すれば昼と言っていい時間だった。
熱は、ない。
ごっそりと体力が奪われたような気はするが、割れるような頭痛もない。
散らすことができたかとほっと息を吐き、上体を起こす。
ぽとりと、額に置かれていたらしいタオルが落ちる。それを右手で取り上げつつ寝室から出ると、ジークヴァルトの視線は釘付けとなる。
ここは軍司令部の自室だ。
軍将校の部屋は2部屋から作られる。1つは寝室で、もう1つは執務室だ。本来は居住スペースに過ぎないのだが、朝に夜にと緊急事態が発生する軍では、居住スペースに机や書類を持ち込んでいる者が多い。
ジークヴァルトも同様で、端に置かれたソファにも書類が積み上げられているような状態なのだが、執務机に座る人を見つける。
その人はペンを走らせていた。
途中、分厚い本をめくり、視線をずらしてはまた、書き物へと戻る。
金の長い髪は作業には邪魔なのだろう、1つに結えられている。
視線は机におとされているのだから、見えない。
不意に、その人はペンを机へと置き、空いた手を胸元にやる。ほっと柔らかな息を吐き出し、顔を上げる。
目が、合った。
ジークヴァルトの大切な碧が大きく開かれ、うるむ。
「シェイラ?」
がたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、慌てたせいで机に足をぶつけたのも気にせず駆け寄ってくる。
「殿下、具合は?」
「あぁ」
「熱は、…あぁ、さがってらっしゃるわ」
「大丈夫だよ、シェイラ」
「あ、」
王太弟殿下の額に手を当てるという行動に今更ながら気づいたシェイラはいつになくわたわたと慌てた様子を見せる。思わずくすりとしてしまったジークヴァルトに、自分はなんてことをと赤面するしかない。
「す、すみませんっ」
ジークヴァルトは首を振る。
5年前、まだ婚約者だった頃、少しおてんばだった少女を思い出し、その面影を懐かしく思う。
「貴方こそ、一昨日訪れた時はまだ熱があったけれど」
なんてことはなく額に額を合わせ、熱を確認する。
「あ、えと、もう、下がっております、わ」
「そう、顔は赤いけれど」
「ジーク様…!」
からかわれているのだと気づきシェイラは名を呼ぶ。ジーク様と、かつての馴染んだ名を呼ばれしっくりとする。彼女には王太弟殿下なんて呼ばれたくないなぁと思いながら柔らかな身体を抱きしめる。まだ毒が散らし切れてないようでふらつく。すると、慌てたようにシェイラが腕を回してくれ、2人して絨毯のうえに蹲み込んでしまう。
「殿下、まだお身体がきついのではございませんか」
「体力が奪われているだけだよ。少し口に入れたら大丈夫」
「では、お食事を用意するよう言ってきます、わ」
「シェイラ、少しこのままで」
背を抱く。
引っ張られたことでシェイラは半分ほど腰を上げることになる。
ワンピースの上質な生地に顎を乗せ、ずっとこうしていたいなどと思う。
何故、この娘が軍指令部にいるのか。
間違いなく宰相の差配だ。どういう気まぐれか、看病にと送り込んできたのか。
いや、それだけではないな。
ジークヴァルトはシェイラを抱きしめたまま、耳元で問う。
「シェイラ、さっきまで何を書いていた」
少し口調が変わってしまっていたのかもしれない。そう、部下を詰問するような。ぴくりと肩を揺らしたシェイラは、少し困ったような声で応えた。
「報告資料を作っておりました」
ジークヴァルトに隠すようなことではない。
けれど、甘やかな空気が一気に霧散していくような気がして少し、残念に思う。
父に命じられていた。
殿下が襲われたことは内密にしている。女官をつけるわけにいかないからお前が側にいてさしあげろ。
そして、目を覚まされたらお伝えしておいてくれ。
「午前中、通訳として殿下を襲ったライドゥル兵の聴取に参加し、陛下に奏上するための資料を作成しておりました」
「参加していた、貴方が?」
「はい、どうやらライドゥルでも地方の出身者らしく、通訳出来る方が他にいらっしゃらなかったようですわ」
それで加わったと告げる。
ジークヴァルトはきな臭いことにシェイラが巻き込まれていることに憤慨しているようだったが、彼女にとってはほんの些細なことだった。
5年間エルンストの婚約者として妃教育を受け、アーデルベルトからフェルディナンドからと、翻訳を中心に機密情報に触れ合うようになった彼女にはもう、政治のうすら暗い話に逃げ出してしまうような少女ではない。
5年前はこんな風ではなかっただろうなと懐かしく思う。
いや、ジークヴァルトに別れを告げた日が、始まりだっただろうか。
「王太弟殿下」
胸にあるこの石を返しても、せめてこの人の役に立つ人間でいられるだろうか。
シェイラもまた、アーデルベルトに相対しているかのような口調で告げる。
「ライドゥルはティトゥーア側からの開戦を望んでいるのかもしれません」




