宿敵(ライバル)と恋敵(ライバル)
「神城、国生。週末に練習試合するぞ」
芥先輩の影に怯えてサンドバッグの影に隠れていた僕を捕まえると、原田先輩はマコトも呼び出してそんな宣言をしてきた。
いきなりの事に「一年なのにですか?」と他の先輩に遠慮する意味で聞いたのだけど、原田先輩は顎でリングを示しながら「国生に十人抜きされる連中なんかほっとけ」と言った。
リングの周りには、痛みを訴える先輩達が死屍累々。
僕とマコトのスパーリングが一方的過ぎて、練習にならないと判断した原田先輩がやらせたのだけど、結果は確かに情けないかもしれない。
そのせいで原田先輩がマコトの相手をする事になったのだけれど、そうなると僕の相手が自然と残った芥先輩になるので、僕は組み合わせを変えるように涙目で懇願した。
「県内にボクシング部は、ここ以外には星岡学園にしかないからね。他にフェザー級で強い人の噂も聞かないし、ユウキくんもインターハイ出場は狙えると思うから、試合慣れをしといた方がいいと思うんだ」
そして件のアブノーマル先輩が、その危険な趣味を少しも感じさせない爽やかな笑顔で、僕のインターハイ出場を仄めかす。
その本性を感じさせない微笑を幸いととるか、それとも悪質な擬態ととるか、とにかくこの人が居るだけで僕は心が休まりそうに無い。
僕がそんな事を考えていると、一緒に話を聞いていたカナタさんが「マコトは狙えないんですか?」と少し不思議そうな様子で聞いた。
きっと僕が期待されているのに、僕より強いマコトについて触れられなかったから不思議に思ったのだろう。しかし僕のインターハイ出場を軽く流されたように見えるのは、被害妄想だろうか。
そんな僕を哀れに思ったのかは定かでは無いけど、原田先輩は残念そうな顔をすると「高校の公式戦に女子ボクシングは無いんだよ」と告げた。
高校生でも女子アマチュアの大会には出る事は可能なのだけど、そちらに出るなら高校では無くジムと相談する事になるだろうから、原田先輩も言及はしなかったのだろう。
「悪いな、中間テストが終わったばっかなのに」
「マコトはともかく僕は大丈夫ですよ」
原田先輩の気遣いにそう笑いながら返すと、マコトに後頭部を無言で殴られた。
ラビットパンチは反則なのに。
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「うー、汗が引かない」
お風呂からあがったばかりで、全体的にウェットになっている神城くんが、だるそうに開脚体前屈をしながら漏らす。
その背中を押している私の目の前には、乾かすどころかろくに拭いていないのか、男の子にしては長い髪の先に水滴が残っている。
一緒に暮らし始めた頃は、お風呂上りを見られるのが恥ずかしくてすぐに部屋にこもっていたのだけれど、最近では神城くんが出てくるのを待ってストレッチを手伝う事が増えてきた。
マコトが言うには「身体的接触は好感度を高めるらしいから、林間学校のアレで心の距離も縮んだんじゃないか」という事らしいけれど、あまりにマコトらしくない説得力に、思わずじっと見つめてしまった。
そんな私の心境に気付いたのか、マコトは「清家が言ってたんだよ」と膨れっ面で白状してくれたのだけれど、そこで出てきた名前には少なからず驚いた。
何でも清家くんは対人関係に悩んでいて、心理学の知識がそこそこあるらしい。そこでちょうどいいと思って、私と神城くんの事を聞いてみたそうなのだけれど、はっきり言ってありがた迷惑でしかない。
自分で微かに恋心のようなものが燻り始めている事に気付いているのに、それを他人に解説されて羞恥心を刺激されるのは、一緒に住んでいる今の状況では非常に困る。
困る以上に、恋に恋して照れている自分が想像できなくて、実際にそうなってしまったら恐いという感情もあるのだけれど。
「んーカナタさん、そのまま二十秒押しといて」
「うん」
神城くんの上半身が、床にべたりとつくまで押したところで、その状態をキープするように指示される。
最初はその体の柔らかさに驚いたけれど、どんな格闘技でも柔軟性は必要らしい。最初はつま先に指先も届かなかったと、苦笑しながら神城くんが教えてくれた。
「……神城くんは試合したことあるの?」
「あるよ。U-15っていう十五歳以下の大会で、決勝までいった」
さらりと言ったけれど、それはかなり凄いことなのでは。私がそう聞くと、神城くんはどこか複雑そうな顔になり「マコトは優勝したし」と悔しそうに漏らした。
後日その事についてマコトに聞くと「いや、同じ階級の奴が少なすぎて、予選とか不戦勝だったぞ」とつまらなさそうに答えた。
神城くんが準優勝なら、その神城くんを圧倒するマコトは、もう男子と一緒に試合をさせた方がいいのでは無いか。そう本気で思ってしまったのは、失礼だけど仕方ないと思う。
「んー、ありがとう。もういいよ」
「うん」
言われて手を離すと、神城くんはすっと立ち上がり、軽く背伸びをした。
そして徐に台所に向うなり「コーヒー入れるけど飲む?」と聞いてきたけれど、私はゆっくりと首を横に振った。
私はコーヒーはあまり飲まなかったのだけれど、神城くんが私に入れてくれるコーヒーは程よい甘さと濃さで、実は入れてくれるのを楽しみにしていてたりする。
だけど今飲んでしまうと、間違いなく眠れなくなってしまうので、残念に思いつつも遠慮した。
神城くんは平気らしいけれど、もしかしたらコーヒーを飲みすぎて、既にカフェインに免疫が出来ているだろうか。
健康に悪そうだけれど、実際の所は大丈夫なのか。少し不安になった私は、コーヒーに口をつける神城くんを横目に、携帯でカフェイン中毒について検索を始めた
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『よろしくお願いしまーす!!』
練習試合当日。
スキンヘッドの先生に率いられてやってきた星岡学園の生徒を部室に招き入れると、部員全員で並んで一斉に礼をした。
相手の生徒の人数は六人ほどで、そのうち試合相手は四人。
こちらにまともに試合出来る人は、僕とマコト、原田部長に芥先輩の四人だけなので、それぞれに合った階級の人だけ連れてきたらしい。お互いに一人しか居ない女子部員が、同じ階級というのは幸運だったのか、それとも不運か。
「それじゃあ女子から始めるぞ。国生さんと橘さん、準備したらリングに上がって」
普段は姿を見せない顧問の先生が、相手の監督さんとの話が終わると指示を出し始める。
やせていて温和そうな先生は、とてもボクシングに詳しそうには見えないけど、こちらが相手を迎えている以上は先生がある程度は仕切らないとダメなのかもしれない。
「大丈夫かな……相手の人」
「うん。色んな意味で失礼だよカナタさん」
見学に来ていたカナタさんが、相手にもマコトにも失礼な心配事を口にする。もっともそれは、三鷹東の部員達にとっては共通の懸念事項とも言えるのだけれど。
マコトと僕の試合相手は、橘カスミに橘リュウという双子の一年生。
リュウくんは茶色い髪を短く刈り込んだ、全体的に鋭利な感じのする恐そうな人で、カスミさんは栗色の長い髪を後頭部でシニョンにしている、見た目は大人しそうな子だった。
リュウくんはともかく、カスミさんのその顔つきはとても人を殴れるようには見えなくて、殴り合いが至上の喜びと言っても過言では無いマコトの相手が出来るのかと不安になってくる。
「カーン」とゴングが鳴って、リングの上でグローブを合わせると、二人が同時に構えて動き始める。
しかしマコトの試合相手、カスミさんの構えた瞬間に、リング上のマコトも含めて三鷹東の部員達が静かにどよめいた。
それは左手を下げ、腕が直角になるように構えた独特のスタイル。
『ヒットマンスタイル』
思わず呟いた言葉に重なる声があったので、気になって声が聞こえて来た方へと振り返ると、いつの間にか隣に原田部長がいた。
それに気を取られた僅かな間に、試合は予想外の方向に動き始め、どよめきが次第に強くなっていく。
「マコトがやられてる」
カナタさんの言う通り、マコトは動き回るカスミさんを追いきれずに、接近するたびに攻撃を受けてしまっていた。
いくらマコトが防御が下手だとは言え、それはあまりにも一方的に見えたし、反撃する時には既にその場から離れているカスミさんの動きは速い。
この展開はさすがに予想外にも程があった。
カスミさんの動きは、とてもじゃないけど高校に入ってからボクシングを始めた人の動きでは無く、中学の頃からやっていたのだとしか思えない。
そして経験者だとしたら、何故U-15の大会に出てこなかったのかという疑問が出てくる。
「ありゃ神城の動きだな」
「はい?」
いきなり原田先輩の口から自分の名前が出てきたので、僕は意味が分からずに首を傾げてしまう。
「橘って子の動きは、おまえの真似してるとしか思えない。リーチがあるわけでも無いのに、ヒットマンスタイルでいく物好きはそう居ないし、ジャブ打つ時に一瞬だけ拳よりも肘が前に出る癖まで一緒なのは偶然じゃないだろ」
「よく見えますねそんなの」
原田先輩の観察眼に驚いたけど、もしカスミさんが僕の真似をしているのだとしたら、自分でも気付かなかった癖まで再現している事にも驚いた。
「お前の相手はあの子の双子の兄貴だけど、もしかしておまえ対策に妹に覚えさせたのか?」
「わざわざ練習試合のためにですか? あんまり意味無いし、そもそも時間が足りな……」
原田部長にそう返している最中に、たった今話題に上っているリュウくんと目が合って言葉が出てこなくなる。
改めてよく見てみると、その顔は確かに見覚えのあるもので、もし記憶違いで無いのなら原田部長の言っている事に現実味が出てくる。
「……すいません。橘リュウってU-15の予選大会で当たった事がありました」
「おまえアレ出たのか? 予選って何月にあるんだ?」
「四月です。あの時は橘さんは試合には出てなかったし、この一年でボクシングを覚えたってことかな?」
だとしたら、その成長速度は天才的だとしかいえない。今のマコトが押されている状況を見る限りは、彼女は三年もボクシングをやっている僕とマコトに迫る実力を持っているという事なのだから。
「じゃあ国生が勝つな」
「え? マコトは押されて……無いし」
少し目を離した隙に、試合の展開はまったく逆のものになっていた。
カスミさんの下から上がってくる独特の軌道のフリッカージャブを、マコトは完全に防ぐようになり、逆にカスミさんは距離がつまった瞬間に放たれるマコトの一撃を避けきれず、辛うじて腕で防御しているといった感じだ。
マコトがもう少しで追い詰めるという所でゴングが鳴ってしまったけれど、次のラウンドには決着がつきそうな雰囲気が既に出来上がってしまっている。
「神城の真似で国生に勝てるわけ無いだろ。普段誰が国生の相手してんだ」
「あー……」
言われて納得する。
カナタさんが見ている部活中は自粛しているけれど、ジムでマコトの相手をする時は、会長の命令もあって本気ではなくても手は出している。マコトにとって、僕以上に追い詰め方を知っている相手は居ないだろう。
それにマコトは接近戦が得意なバリバリのインファイターだけど、僕のような距離を取るアウトボクサーの対処法はよく知っている。試合が長引くほど、経験の差が出てくるのは間違いない。
そして次のゴングが鳴るなり、マコトが動いた。
今まで守勢に回っていたマコトが、多少の被弾も構わずに、カスミさんを追いながら連撃を放つ。
追い足を蹴るようにして放たれたマコトの右ストレートが、橘さんの左頬を掠める。それに遅れて後ろに下がったカスミさんの表情は、大きく目を見開いて硬直し、正に凍りつくという表現が的確な状態だった。
そりゃそうだろう。マコトの渾身の右ストレートは、同じ階級の人間だったら男でも軽くKOしかねない、本当に理不尽な威力なのだから。その片鱗を感じ取って、思わず距離をとってしまうのは仕方ない。
「!?」
だけどそれがまずかった。背にコーナーポストが当たり、カスミさんは思わずと言った感じに背後へと視線を向けると、追い詰められたことを自覚したのか僅かに口元を歪める。
フットワークの軽い人なら、あるいは逃げられるかもしれないけれど、マコトが相手では並みの選手では逃げられないだろう。
「っしゃあぁー!!」
マコトの咆哮と共に、カスミさんに向って試合を決定付ける猛攻が始まる。しかし猛攻と言っても、それはたった数秒で終わった。
「カスミ!?」
パパンと連続して音が響き、リュウくんが妹を呼ぶ声が室内を満たす。
試合を決めたのは、ジャブでガードが下がったところに放たれた、ワンツーのお手本のような一撃だった。
ヒットマンスタイルは、左手を下げた状態で構えるために防御には難がある。図らずも、僕の問題点を指摘するような、そんな結果だった。
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マコトの試合は、最初の苦戦はなんだったのかと拍子抜けするくらい、最後は圧倒的な印象で終わった。マコトが言うには、「ビックリして対処が遅れた」という事らしい。
私にはまったく分からなかったけれど、試合相手の動きが神城くんのそれに似ていたらしいので、驚いたのは仕方ないのかもしれない。
「さーて、ユーキのカッコいいとこが見れるぞカナタ」
「ふふ。勿論僕もユウキくんの勇士をグホァッ!?」
私の隣に居たマコトが茶化すようにリングを眺めながら言ったけれど、さらに隣に居た芥先輩が恍惚とした笑みを浮かべているのに気付くと、笑顔で放ったアッパーでその体を地面から引っこ抜いた。
人間が地面に埋まっているわけは無いのだけれど、芥先輩が垂直に浮上するその姿は、引っこ抜いたと表現するのがとてもしっくりくる光景だった。
「何でこっちに来てるんですか芥先輩?」
「うーん。最近他の部員がね、近付くと逃げるんだよね」
芥先輩の答えを聞いて他の部員の一人に視線を向けると、さっと気まずそうに視線を反らし、他の部員も順番に見ていくと波のように全員が視線を反らしていった。
おそらく芥先輩が、神城くんを好きだという事実が広まって、自分も標的にされるのではないかと警戒しているのだろう。原田先輩は平気なみたいだけれど、それは原田先輩が実力行使で芥先輩に勝てるからであって、他の部員にとっては切実な問題なのかもしれない。
「酷いよね。たまたま好きになった子が男の子だっただけなのにさ」
「普通の人はたまたまで同性を好きになったりしませんから」
マコトを間に挟んでそんなやり取りをしている間に、いつの間にかゴングが鳴っていて、神城くんと橘くんの試合が始まっていた。
橘くんの妹が神城くんの動きを再現していたのを思い出して「大丈夫かな」と呟くと「大丈夫だろ」とマコトが欠片も心配していない様子で答えた。
何故断言できるのかと目で聞いてみると、マコトは肩をすくめながら顎でリングの方を示す。見ていれば分かるという事なのだろう。
「速えっ!?」
驚愕の声は星岡学園の生徒のもの。だけどそれはこの場にいる全員、平然としているマコトを除いたほぼ全ての人の感想だと思う。
「クォッ!?」
橘くんの苦しそうな声が、観戦している人たちの歓声の中でも伝わってくる。
橘くんは今のところ一撃ももらっていないし、むしろ攻め立てているといって良い。けれどそれは神城くんには全然当たらなくて、攻めているはずの橘くんが逆に追い詰められているような錯覚を覚える。
「速い……と言っても普段とあんまり変わらないよね。反応が早くなってるのかな?」
「そうそう。ユーキって全国大会に出た辺りからな、試合で異様なくらい集中力発揮するようになったんだよ。ホントかどうか知らないけど、世界がスローになるとか何とか」
「本当なら高一のレベルじゃないね。でも相手の子も追いつき始めてる。順応早いなあ」
芥先輩の言葉に注意して見てみると、確かに先ほどまで掠りもしなかったパンチが、何度も当たりそうになり神城くんが体勢を崩しそうになる。
しかしそこは神城くんの身体能力が高いのか、すぐに持ち直して相手の攻撃を再び寄せ付けなくなる。
そしてそのまま第一ラウンドが終わり、第二ラウンドが始まったところで、まるでマコトの試合の焼き直しのようにそれまでの攻守が逆転していた。
先ほどまでは普通に構えていた神城くんが、左手を下げた状態で攻撃を開始する。もちろん橘くんも反撃するけれど、攻撃が当たってから反撃しても、そこに神城くんは既に居ない。
再び星岡学園の生徒から声が上がったけれど、その声は先ほどのように速さに驚いたものでは無く「ヒットマンスタイル」という神城くんの構えを指摘するものだった。
「あの構え方は珍しいの?」
「珍しいぞ。欠点も多い構え方だからな。ユーキの場合は全身のばねが強いし、反射神経も高いから何とかなってるけど、好き好んで使う意味無いし」
「背高くないしな」と最後につけくわえながら、マコトは溜息をつく。
要するに神城くんのポリシーのようなもので、必ずしも神代くんに合った構え方では無いという事だろう。背の高さがどう関係するのかは、イマイチよく分からないけれど。
「お、決まるか?」
マコトの言葉に視線をリングに戻すと、神城くんの左腕が連続で動き、橘くんの頭が小刻みに揺れるのが見えた。そして怯んだ所にトドメという事か、神城くんが今日始めて右手を振る。
しかし橘くんは神城くんが思っていた以上に打たれ強いらしく、その目に闘志を燃やすと、神城くんに合わせるように右を振り始める。
横から「あ、ヤバ」という声が聞こえてきて、もしかしたらと思い胸が締め付けられるような苦しさに襲われる。だけどそんな私の不安を追い散らすように「神城さん頑張ってー!」という、細いけれど力強い女子の声が響いた。
「……は?」
呆けたような声を出したのはマコト。だけど彼女だけでなくその場に居るほとんどの人が、今の状況が掴めずに呆然としていると思う。
リングの上には、何が何だか分からない様子で立っている神城くんと、心なし寂しそうにダウンしている橘くん。
そしてリングのすぐそばで微笑んでいるのは、橘くんの妹である橘さん。混乱の原因は、敵であるはずの彼女が、何故か兄ではなくて神城くんに声援を送ったことだった。
「えーと……どういう事?」
「……知らん」
屈んで倒れている橘くんに問いかける神城くんと、倒れたまま不貞腐れている橘くん。
ダウンしているのにカウントはとらなくて良いのだろうか。他の人たちと同様に混乱しながらも、頭の一部で冷静にそんな事を思った。
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予定されていた試合を終えた結果は、三勝を上げるという中々良いものだった。原田先輩は負けてしまったのだけれど、これは相手が悪かったとしか言えないと思う。
原田先輩も大きい人なのだけれど、相手はそれよりさらに背が高くて、試合の様子は慣れていないカナタさんが目を反らすほどに熾烈なものだった。
練習試合で、何故体を壊しかねない勢いで打ち合ったのかと聞くと「本能で戦ってたから仕方ない」という答えを頂いた。普段は冷静なようでいて、やはり見た目通りな原田先輩だった。
「改めてはじめまして神城さん。お会い出来て嬉しいです」
現地解散なのか、バラバラに帰っていく部員達を尻目に頭を下げてきたのは、シニョンにしていた髪を下したカスミさん。その隣では、先ほどまで試合相手だったリュウくんが「おまえなんか知るか」とばかりにそっぽを向いている。
「はじめましては良いんだけど……えーと、色々と何で?」
「ええ、混乱されるのは無理ないかと。全国U-15ジュニアボクシング大会を見て以来、あなたのファンなんです」
その言葉を聞いて隣のリュウくんが見るからに落ち込んだ雰囲気になり、後方で「嫉妬の炎が!」と一部の先輩が叫んだけど「他校の人間に恥さらすんじゃねえ!」という原田先輩の実力行使で静かになったので見なかったことにした。
「それが高じて自分でもボクシングを始めてみたのですけど、やはり国生さんには通じませんでしたね」
「そりゃそうだ……。いや待て。ユーキのファンになったのが地方じゃ無くて全国大会の方なら、まだ一年も経ってないぞ」
確かに、地方予選は四月だったけど、全国大会が行われたのは八月だ。ますますもって、カスミさんには才能があったのだとしか思えない。
「そこはそうですね、愛の力では無いでしょうか?」
さらりととんでもない事を言うカスミさん。しかし僕にそれを喜ぶ余裕は無かった。別にカナタさんに悪いとかいう事では無くて、単純にカスミさんは愛が重いタイプだと思ったからだ。
勝手な想像だけど、この人は何かあったら「あなたを殺して私も死にます!」とか言っちゃうタイプの人なのではないだろうか
「ところでそちらの人は、神城さんとはどういったご関係でしょうか?」
にっこりと微笑みながら、カスミさんがカナタさんの事を聞いてくる。だけどその目は笑っていなくて、どこか肌寒い空気すら感じる。
一番彼女を理解しているであろうリュウくんの引きっぷりからして、今の状況はもしかしなくても修羅場なのでは無いだろうかと思い、今更ながら逃げ出したくなってくる。
「婚約者です」
そしてそんな修羅場に、何を思ったのかカナタさんは一歩前に出ると、自ら爆弾を放り込んだ。
その動じず、涼しげな目線は正にクールビューティー。
本来ならここは、カナタさんが自分から僕の事を婚約者と認めてくれたことに喜ぶべきなのだろうけど、熱した油に水を入れると水蒸気爆発が起きるので勘弁して欲しいとしか思えなかった。
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「婚……約者?」
「!?」
ズザッと音がする勢いで、橘くんが妹さんから距離をとった。だけどその正面に立っている私は、引く気は無いし譲る気も無い。
芥先輩のときとは違い、橘さんに神城くんがとられるというリアルな想像は、私の中に自分でもよく分からない焦りを生んだのだと思う。
それが嫉妬か、それとも女としてのプライドかは分からないけれど、とにかく神城くんが私を見てくれなくなるというのが、とても恐ろしい事のような気がしてしまっていた。
それでもその心を恋の一部だと認められない私は、とても往生際が悪くて我侭なのかもしれない。
「なるほど……ああ、でも私達はまだ高校生ですし、心変わりする可能性もありますよね」
そう言って笑った橘さんはとても綺麗で、同時に憎らしかった。
この人は私と反対の人だと、その笑顔を見て思った。自信に溢れているけれど、その自信に根拠の無いものが混じり、傲慢な自分を許容してしまっている。
それは神城くんの事が無くても、彼女と仲良くなる事は無かっただろうと確信させる溝だった。
「……変わらないよ」
「え?」
橘さんの言葉に、私はわざわざ反論するつもりは無かったけれど、神城くんが私の隣に立ちながらそう告げた。
その顔はボクシングをやっているときほど鋭くは無いけれど、真っ直ぐとした意志を込めた目は凛々しくて、とても頼もしく見える。
「僕は一生カナタさんだけを見て、カナタさんだけを愛し続ける自信がある。心変わりなんて、するはずが無い」
それは言葉だけ見れば、青臭い子供の主張だったかもしれないけれど、神城くんの真摯な瞳が笑って流すことを許さなかった。
ああ本気なのだと分かり、私は安堵したもののすぐに恥ずかしくなった。
もしかしなくても、今のは結婚を申し込まれた……所謂プロポーズでは無いのかと。
「おまえの負けだ。諦めろ」
「……」
何か感じる所があったのか、橘くんは何処か満足そうな笑みを浮かべると、呆然としている橘さんに声をかける。橘さんはそれにすぐに答えることは無かったけれど、無言で踵を返すとスタスタと出口へと歩き出した。
外へ出る直前に「諦めませんから」と告げたのは、彼女なりの意地だったのかもしれない。
「では、俺も帰らせてもらう。神城、今度はおまえを追い詰めて見せるからな」
「うん。僕も追いつかれないように頑張るよ」
橘くんも去っていって、その場には三鷹東の人間だけになる。だけど皆この妙な空気に気付いているのか、誰も言葉を発しようとしない。
「また同じことを聞かれたら、何度だって同じことを言うから」
独り言のように呟かれたそれが、答えを返すまでいつまでも待っているという意味に聞こえたのは、臆病な私の心のせいかもしれない。
だけどその無条件に私を許すような言葉が、とても嬉しかった。




