柔夢の友と名の記憶
とってもお久しぶりです。
修正中だったお話が、少しだけ進んだので、ちまちま更新させていただきます。
これからも一緒に物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします!(:o」∠)
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《アルテ視点》
「ごめんなさい…ごめんなさい……変われなくてごめんなさい。
傷付けて、悲しませて……言うことを聞かなくてごめんなさい……」
喉が痛くなるほど、何度も何度も繰り返す。
謝っても、謝っても、足りない気がして。
胸の奥に溜まった重たいものが、涙と一緒に零れ落ちていく。
「呪いのせいにしてごめんなさい……向き合わず逃げてごめんなさい……」
……どれだけ言葉を重ねても、師匠には届かない。
失った時間も、傷付けた心も、戻ってはくれない。
分かっているのに、それでも口にせずにはいられなかった。
『────翠嵐』
その声に、はっとする。
気がつくと私は、いつの間にか夢の中にいた。
現実と違って、身体は軽く、けれど胸の痛みだけは、はっきりと残っている。
『翠嵐、ねぇ翠嵐』
「……え?」
悲しくて苦しくて……。
泣き続けていた私の耳に、やさしく、静かな声が届く。
怒りも責めも含まない、ただ呼びかけるだけの声。
『なぜ、泣いているの……翠嵐』
顔を上げると、深い翠色の瞳と、視線が重なった。
そこに立っていたのは、濡羽色の髪を、ゆるやかに揺らす女の子。
どこか懐かしくて……でも、はっきりと思い出せない存在。
「"貴女"は……誰?」
『……ふふっ』
問いかけると、彼女は小さな間を空けて、くすり、と小さく笑った。
『誰…なのでしょうね?』
はぐらかすような答えに、胸の奥が、少しだけざわつく。
「ここは何処?」
『さぁ……何処なのでしょうね?』
「……。」
答えは得られない。
けれど、不思議と怖くはなかった。
『ねぇ……なぜ?
どうして泣いているの?』
再び向けられた問いに、私は一瞬、言葉を探してから、小さく息を吸う。
「友達を、傷付けてしまったんです」
改めて声にすると、胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
『翠嵐が悪いの?』
「はい。私が……弱いせいなんです」
迷いなくそう答えると、彼女は少しだけ目を細めた。
『……弱いのは、いけない事?』
「はい。いけない事です」
『どうして?』
「私は、英雄ですから」
自分で言っておきながら、その言葉が、胸に刺さる。
『なら、強ければいいの?』
「強いだけでは……だめです。
でも強くないと……だめ」
「弱いのは、いけない事」……それ以外の答えが、見つからない。
『その強さは、純粋な力を示すもの?
それとも心の強さ?』
「……きっと、どちらもです」
少し考えてから、そう答えると、彼女は肩をすくめるように微笑んだ。
『あらまぁ……大変』
「えぇ。大変です」
何故だろう……彼女と言葉を交わすうちに、不思議と心が落ち着いていく。
それでも……やっぱり。
罪悪感だけは、消えてくれない。
「……強くなりたい」
ぽつりと零すと、彼女はこてん、と首を傾げた。
『……それは、邪神を倒す為?民を守る為?』
「それもありますが……一番は……」
言いかけた、その瞬間。
「『家族や仲間を護りたい』」
「……え」
彼女の声と、私の言葉が、重なった。
一言一句……ずれもない発言に、思わず目を見開いてしまう。
「どうして……」
なぜ、同じ言葉を……。
驚きで固まる私をよそに、彼女は、此処ではない何処か……遠くを見るように視線を逸らす。
『……幾万を守る力があろうとも、本当に大切なものを護れぬのなら、それは何の意味を持ちましょう』
そしてそれは……その言葉は、どこかで……聞いた事がある言い回しだった。
「『家族や仲間を護りたいと願うその心こそ、崇高にして、何よりも尊いもの』」
何となく声を発すると、また……言葉が重なった。
『……そう。
"この気持ち"が変わらぬ限り、大丈夫』
彼女はそれだけ言うと、私を抱きしめた。
『怖がらないで、翠嵐。
逃げなくても大丈夫ですから』
そして――
『ウァプラ殿は、優しい方だから』
ただ穏やかに、笑った。
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《探偵視点》
『う〜ん……。どうなってるんだろ〜?
ここをこうして…こうかな〜?
あ、間違えた。ややこしいな〜…』
柔らかく間延びした声が、静寂に溶けるように響いていた。
ここは、私の夢の中。
果てしなく白く、輪郭すら曖昧な、何も無い場所。
本来なら、いつもここで待っていてくれるはずのタルタニュクス様の気配があるのに──今日は、その姿がどこにも見当たらなかった。
代わりに視界に映ったのは、見慣れない象牙色の髪。
ふわり、ふわりと、空気に溶けるように揺れている。
“彼”は、まるで雲をかき集めて形にしたような存在だった。
輪郭も、顔立ちも、服装も、どこかぼやけていて掴めない。
ただ、そこに「いる」ということだけが、不思議とはっきり感じられる。
胸の奥に、じわりと不安が広がった。
「……誰?」
恐る恐る声をかける。
タルタニュクス様がいないこと、そして、また見知らぬ存在が夢に現れたことが、静かに心をざわつかせていた。
すると彼は、こちらへ振り向きもせず、ぽわぽわとした調子で答える。
『ん〜?え、僕〜?
僕はね〜────だよ〜』
「ッ今のって、まさか失言の呪い?!」
言葉の一部が、まるで最初から存在しなかったかのように抜け落ちる。
耳に届いたはずなのに、理解だけが滑り落ちていく。
……間違いない。
これは──失言の呪い特有の症状。
なら……この人も……神様、なの?
『ん?あれ〜?!エ──ちゃんだ〜!やっほ〜』
彼はくるりとこちらを振り返ると、ぱっと表情を明るくして、弾むようにこちらへ飛んできた。
まるで再会を喜ぶように、無邪気に。
「え、だ、誰なの?なんで私の名前…」
けれど私は、その距離の近さに戸惑いを隠せない。
彼が誰なのか、どうしても思い出せない。
『えぇ〜?!
やっぱりまだ僕の事、思い出してないの〜?
──様、寂し〜』
ぽよぽよとした涙が、重さもなく宙に浮かび上がる。
それは本当に泣いているというより、感情そのものが形になっているようで……。
どうやら本気で悲しんでいるらしい。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
まるで──私が泣かせてしまったみたいで。
「え、えっと、貴方は……どうして私の夢にいるの?
タルタニュクス様はどこ?」
『あぁ〜ごめんね〜。
──さん……タルタニュクス様はね、今日は英雄の所に行ってるよ〜』
問いかけると、彼は先程までの涙が嘘のように、あっさりとした様子で答える。
その切り替えの早さに、思わず少しだけ感心してしまった。
「……なら貴方は、何しに来たの?」
『ん〜…僕はね〜…』
今度は、ほんの少しだけ考え込むように宙を漂う。
けれど、それも束の間で。
『あ〜……。
強いて言うなら、君のお手伝いかな〜』
軽やかに、そう言った。
「何を、手伝ってくれるの?」
『エ──ちゃんが無くした──の記憶〜!
思い出してほしくて〜──様、ずっと頑張ってたんだよ〜』
「ずっと……?」
思わず、言葉がこぼれる。
だって彼と会うのは、これが初めてのはず。
それなのに、“ずっと”なんて──。
私の知らないところで、ずっと傍にいてくれていたのだろうか。
「私の記憶……取り戻す為に、手伝ってくれてたの?」
『うんうん。
これからもね〜たくさん手伝っちゃうよ〜!』
弾むような声。
その言葉には、疑いようのない善意が滲んでいた。
彼のことはよく分からない。
何ひとつ思い出せない。
それなのに──
不思議と、心が拒まない。
懐かしさにも似た、やわらかな感覚が胸に広がる。
この人は、私にとって……どんな存在だったんだろう。
「…ありがとう!見知らぬ白いぽわぽわさん!」
『見知らぬ白いぽわぽわ〜?
ふふっ何それ〜!
エ──ちゃんにまた面白い呼び名つけられちゃった〜』
楽しそうに笑う彼の声が、空間に軽やかに弾む。
「……また?」
その一言に、思考が引っかかる。
私は彼に、呼び名をつけたことがある?
いつ?どんな名前を……?
記憶の奥に手を伸ばしかけた、その時。
『あれ〜?どうかしたの〜?』
「あ、ううん。
それより、どうやって手伝ってくれるの?」
沈みかけた意識を、彼の声がやさしく引き上げる。
『エ──ちゃんが無くした記憶を、夢で観せてあげるよ〜』
「それって、アルテみたいな……」
夢を描く力。
現実のように鮮明な明晰夢。
あの力と、同じ──。
『そ〜だよ〜!僕もね、観せてあげられるんだ〜』
彼は楽しそうに、くすくすと笑う。
その無邪気さに、少しだけ緊張がほどけた。
『まずはね〜…エ──ちゃんのお友達〜!
あの子達の事ならよく覚えてるよ〜!』
「私の友達?」
胸の奥が、わずかにざわめく。
それは、今代の英雄達のこと?
それとも──まだ思い出せていない、誰かがいるのだろうか。
『うん!それじゃいっくよ〜』
彼が手を差し出すように、空間がゆらりと歪む。
……視界が溶けていく。
白の世界がほどけ、より深く、より濃い夢へと引き込まれていく。
あぁ……。
懐かしい。
どうしてだろう。
理由も分からないのに、胸が満たされていく。
心地よくて。
優しくて。
安心する温もりに、そっと包まれる。
私はそのまま──
記憶の夢へと、静かに踏み込んだ。
✿ ✿ ✿ ✿
気が付くと、私は石畳の広場に立っていた。
乾いた風が頬を撫で、どこか焦げたような匂いが鼻先をかすめる。
見慣れない……いや、やっぱり見慣れた場所。
何度も足を運んだはずの、けれど名前が思い出せない場所。
胸の奥が、妙にざわつく。
でも私、何をしに来たんだっけ?
ぼんやりと立ち尽くしていると、不意に背後から声が飛んできた。
「……また来たのかよー?不良娘」
「ッ不良言うな!」
耳に届いた瞬間、反射的に言葉が飛び出した。
考えるより先に、感情が動く。
自分の口から勝手に出た声に驚き、思わず口元を押さえると、くすくすと楽しげな笑い声が響いた。
「悪魔や気性の荒い戦神と連むやつを不良と呼ばずになんと呼ぶんだよー」
声の主を見れば、綺麗な黒髪を風に靡かせながら、胡座をかいて座っている“彼女”。
陽光を受けて艶やかに光る髪。
宝石のように澄んだ朱い瞳が、からかうように細められている。
あ……そうだ。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
この子は私の、大切な友達……親友だ。
どうして一瞬でも分からなかったんだろう?
いつも一緒にいるのに。
……って、それより!
「悪魔も戦神も悪い子じゃないもん!」
思わず一歩踏み出す。
大事な存在を悪く言われるのは、どうしても我慢ならない。
「君だって戦神でしょ!
私の大好きな友達を不良だなんて……誰にも言わせないぞ!」
胸を張って言い切ると、彼女は大きく息を吐いた。
「……はぁー…。
お前って、変わってるよねー」
何だ今の溜息は!失礼な!
私は不満そのままに頬を膨らませる。
「ふんっ!どうせ私は変神ですよーだ!」
「はいはい。変神さーん」
「ちょっとは否定してよ!」
拗ねた声を上げると、あっさり受け入れられてしまう。
なんて無関心ぶりだ!
否定してくれないと、ちょっと本気で泣いちゃうぞ!
「で、なんの用があって此処に来たわけー?」
彼女は頬杖をつきながら、こちらを見上げる。
「あ、そうだった!あのね!次の戦にね!
私も参加する事になったの!」
そうだ、それを伝えに来たんだった。
胸の奥が高鳴る。
誇らしさと、ほんの少しの緊張。
けれど彼女は怪訝な顔をする。
「はぁー?お前が血腥い暴力沙汰に参加すんのー?
てかーそんな事、嬉々として報告するなんてさー……遂に本物の不良娘になるつもりー?」
「ちっがうし!
皆の士気を上げる為についてくの!」
なんですぐに私を不良にしたがるんだこの子は!
「魔物との戦いでお前の力、役立つわけー?」
「しっつれいな!
役立つからママに許可してもらったの!」
胸を張る。
ちゃんと認められているのだ。
「お前は"不和を司る女神"でしょー?
逆効果にならないわけー?」
「ふふん!この力だって、使い用によっては役立つんですー!
戦の日を楽しみにしてくれたまえよ!」
得意げに顎を上げる。
「へぇー楽しみだなー」
「思ってないでしょ!めちゃ棒読みじゃん!」
まっっったく!
我が親友は私へのリスペクトが足りなすぎる!
対等に扱ってよね!
そうして睨みつけていると、背後から別の声が降ってきた。
「お前ら相変わらず仲良いね」
振り向けば、柔らかな笑みを浮かべた“彼”。
「うん!私達、ちょー仲良しなんだ!」
「いえーい」
私は彼女と適当に手を上げて応える。
「楽しそうでなによりだよ」
この声、この空気。
あぁ……安心する。
“彼”も、私の親友だ。
「んでー?お前は何の用ー?」
「あぁ、次の戦の件でね」
「お前もかよー」
どうやら私達は、同じ理由でここに来たらしい。
それがおかしくて、顔を見合わせる。
次の瞬間、堪えきれずに笑いがこみ上げてきて……三人でケタケタと笑いあった。
空は高く、風は穏やかで。
この時間が永遠に続けばいいのに、と一瞬思う。
……あれ?
胸の奥に、小さな違和感。
何か……大事なことを、忘れている気がする。
でも。
今は、まあいっか。
笑い声に溶けるように、意識がまた淡く揺らいだ。
✿ ✿ ✿ ✿
魔物───それは、生き物を脅かす存在。
それらは、神々が創り出したものではない。
祝福でも、意志ある創造でもなく。
悪意や憎悪、嫉妬や絶望……生き物の胸に生まれた“良くないもの”が、澱のように溜まり、やがて形を得た存在。
いわば、負の感情の具現。
とっても良くない塊。
それらは生き物に有害な“瘴気”を好み、まるで呼吸をするようにそれを取り込み、力へと変える。
相容れない存在。
共存はできない。
だからこそ──戦う必要があるのだ。
「あの魔物に……俺は、負けられない!」
剣を握る手が震えている者が大きな声で宣言する。
けれどそれは恐怖ではなく、昂ぶりだ。
「絶対に勝ってやる…!勝ってみせる!」
「魔物相手でも臆したりしないぞ!
見てろ!すぐに打ち倒してやる!この俺がー!」
今日の戦は、その魔物を討つためのもの。
空気は張り詰めているのに、不思議と重苦しくはない。
むしろ、熱い。
あちこちから威勢のいい声が上がり、刃が閃き、魔法が弾け……もの凄い早さで魔物が薙ぎ倒されていく。
あっという間に瘴気は霧散し、戦場の空気が浄化されていく。
「……すっごいやる気だなー」
黒髪の彼女が、どこか呆れたように呟く。
「俺達の出る幕なさそうだね……」
隣の彼も、苦笑混じりに肩をすくめた。
その様子を見て胸の奥がじんわりと温かくなり、私は鼻を鳴らす。
「ふふん!これが、私の力の活用法だよ!
争わずにはいられない気持ち!対抗心!
それを増幅させると、皆強くなるんだよ!」
本来なら“不和”を生む、私の異能力。
衝突を生み、軋轢を生み、分断を生むはずの力。
けれど、それは使い方次第だ。
私が異能力混じりにほんの少し背中を押すだけで、それは“競争心”や“闘志”へ変わるのだから。
「へぇーすごいじゃんかー」
「流石だよ。俺にはできない芸当だ」
素直な賞賛に、胸がさらに膨らむ。
「どうどう?期待以上でしょ?」
ぐいぐいと二人に詰め寄ると、くすりと笑われた。
胸を張れば張るほど、褒められるたびに、私の鼻はどんどん高くなる。
……ふふん!悪くない気分だ。
「もっと褒めてくれたっていいんだよ?ねぇねぇねぇ!」
「うんうん。
争いが絶えない素敵な世界が作れるねー」
「あってたまるかそんな世界ッ!」
「とんでもなく物騒で最高だね」
「黙れこの戦闘狂ッ!」
いやダメだこの二人物騒すぎる。
私はどちらの返答も即座に全力で否定した。
そのまま額を押さえ、溜息をつく。
せっかく良い感じにまとめたのに、台無しだ。
けれど、二人の楽しそうな横顔を見ていると、結局、口元が緩んでしまう。
戦場の熱気の中で、三人だけの軽口が、やけに心地よかった。
きっと──
こうやって笑っていられる限り、私はこの力を誇っていいのだ。
「でもまぁー……。
お前みたいな存在は必要だよねー」
それを擽ったく感じていると、彼女がサラッと好意をぶつけてきた。
「少なくとも私にとって、お前は大切な存在だからさー安心しなよー」
軽い調子のはずなのに、その言葉だけは妙に真っ直ぐで……。
胸の奥に、じんわりと沁み込んでくる。
「俺もお前の事好きだよ」
穏やかな声が重なる。
「え、ななッ何さ急に!
……照れちゃうじゃん」
おふざけ無しで褒められると、それはそれで困る。
だって、心の準備……全然できてなかったから。
あぁ全く!これだから油断ならない。
頬が熱い。
視線を逸らしても、二人の笑顔が視界の端に映る。
「えー?何照れてんのー?
私、お前の事ずっと前から尊敬してるしー」
「いつも傍にいてくれて、ありがとね」
「んもうッ!唐突なんだよ!君達はいつも!」
くそぅ……二人の笑顔を見ると、気持ちがふわふわしてしまう……!悔しい…!
胸の奥が、甘く、あたたかい。
戦場の喧騒すら遠のいていくような、不思議な安心感。
「んじゃーこれからはー褒める前に、わざわざ報告してやろーかー?
『今からお前を褒め倒す』って」
「報告して!」
「えーまじー?」
「なんか殺神予告みたいだね」
何だかまた物騒な単語が聞こえてきたが……。
次は聞き流す。
いちいち反応してたらキリがないからね。
──そう、笑い合っていた、その時。
ふと。
風が、止んだ。
さっきまで確かにあった戦場の音が、まるで遠い夢の向こうへ沈んでいくように、薄れていき……空気が、少しだけ冷たくなる。
───そして。
「……お前は幸せになれよー。エ──」
「次こそ、自分の幸せを掴んでね」
それは、突然だった。
さっきまでの軽口とは違う……。
どこか遠くから響くような声音。
「え?……ねぇ、今なんて?」
胸が強く跳ねる。
二人が、私の……名前を……呼んでくれた筈、なのに……。
おかしい。なんで……そんな……だって、今のは……。
「はー?二回も言わせる気ー?
恥ずかしーからやだー」
「こいつの分も俺が言ってあげようか?」
ッ──違う!
違う違う違うッ……!
───失言の……呪い……。
耳鳴りがする。
名前の部分だけが、白く塗り潰されたみたいに、抜け落ちる。
「ち、ちが……私の名前!
もう一回……お願い!もう一回呼んで!私の事!」
「はー?変なエ──…。
別に何回だって呼んでやるけどさー」
「どうしたの?疲れた?
力、使いすぎたんじゃないか?」
でもそれって、思い出した事……知ってる事には影響しないはずだ。
私は、自分の名前……"エタンセル"を思い出している。
ちゃんと……取り戻したのに。
どうして……。
「ね、ねぇ……私……私って、エタンセルじゃないの?」
縋るように。
確かめるように。
私は……私の名前は……?
「……お前、大丈夫ー?
お前はエタンセルじゃなくて、エ──でしょー?
自分の名前、大事にしなよー?
お前のおかーさんから貰った大事な物でしょー?」
「エ──……。
今日は早めに帰ろう」
エタンセル。
これは、私の名前……そのはず。
だって……だって、違うなら……!
足元がぐらりと揺れる。
「……エタンセルじゃないなら……私は……?
私って……誰……誰なの……?」
声が震える。
指先が冷たい。
「……お前さー…」
混乱していると、彼女が呆れた様に私を見ていた。
「もしかしてー"私達の名前"も思い出せないわけー?」
「え……」
「だーかーらー……私達、二人の名前ー」
名前……。
そうだ。
二人の、名前。
「わ、分からない……わかんない…ごめん……。
私……私は……君達の事も……」
喉が詰まる。
この子達の名前……それも、わからない。
親友なのに。
大切な人達なのに。
「酷いねー……不良娘」
朱い目が、寂しそうに私を見ている。
「ッ……」
あぁ……。
なんで思い出せないんだろう。
彼女の事。
彼の事。
私は、大好きだったのに。
今も、会いたくて仕方がないのに。
……胸が締めつけられる。
「仕方ないからー、もう一回だけ教えたげるー」
苦しくて泣きそうになっていると、彼女がそう言って笑った。
「私の名前はー『"エニューオー"』」
隣にいた彼も、私の涙を拭いながら教えてくれた。
「俺の名前は『"アレス"』」
エニューオー。
アレス。
音が、胸の奥に落ちる。
「エニューオーと……アレス?」
確かめるようにその名を口にすると、ひどく懐かしい感覚に包まれた。
胸の奥が、温かく灯る。
「そーそー。それが、お前の大親友の名前だぞー。
もう絶対、忘れるなよー?」
あぁ……間違いない。
これが二人の名前。
やっぱり私の名前は思い出せないけど、二人の名前を呼べる事に、今は安心する。
「俺達はお前の事忘れないからさ。
忘れたって、何度でも思い出させてあげるよ」
涙を全て拭ってくれたアレスに、私は笑顔を向ける。
「……忘れないよ」
そして、約束する。
胸に刻むように。
「もう、絶対忘れない」
✿ ✿ ✿ ✿
『エ──ちゃん、そろそろ朝だよ〜』
柔らかな声に、意識が浮かび上がる。
気が付くと、いつもの白い空間に戻って来ていた。
果てしなく広がる、輪郭の曖昧な白。
静かで、あたたかくて、どこか安心する場所。
顔を上げると、夢を見せてくれた彼がすぐそこにいた。
「……白い…ぽわぽわさん」
声がやけに近いと思っていたら、どうやら私は彼に膝枕されていたらしい。
ふわりとした感触に頭が沈み込んでいる。
寝心地も、居心地もいい。
だから私は起き上がらず、そのまま彼を見上げる。
白く滲んだ輪郭の奥で、彼が笑う。
『ふふっ……。
少しはお役に立てたかな〜?』
「うん……ありがとう…。
大事な友達の名前、思い出せたよ」
胸に灯る、確かな温もり。
エニューオー。アレス。
その名を呼んだ時の懐かしさは、まだ残っている。
『そっか〜良かった〜!』
彼は本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、こちらまで満たされる。
揺れる象牙色の髪が、あまりにも柔らかそうで──
思わず手を伸ばす。
指先が触れると、やっぱりふわふわしていて。
温度はあるのに、どこか夢みたいに軽い。
それも何だか、懐かしい。
「……ねぇ貴方は?」
『え?』
彼はきょとんと首を傾げる。
その仕草が、妙に愛おしい。
「貴方は……ううん。
貴方も!私の大事な人でしょ?
だから、ここにいるんだよね?」
言葉にすると、不思議と確信が深まる。
何度も夢を見て、少しずつ分かってきた。
この白くて何も無い空間にいられるのは──
私が心を許している、大事な人だけ。
拒絶も、不安もない場所。
だからきっと、この人も。
『……そっか』
彼の声が、少しだけ柔らかく沈む。
私が言葉を待っていると、ふわっと空気が緩んだ。
『そっかぁ〜…ふふっ……。
エ──ちゃんは僕の事、大好きなんだね〜』
「きっとそうだよ。
だから私、貴方の事も、絶対思い出す」
迷いはなかった。
かつてタルタニュクス様と約束した時みたいに。
大切な人は、ちゃんと取り戻すって。
『ふふっ!
僕もエ──ちゃんの事、大好きだよ〜』
その瞬間、額にやさしい熱が落ちてきた。
それは、悪夢を見た日にアルテがしてくれたみたいな──柔らかくて、温かいキス。
あぁ……やっぱりこの人……アルテに似てる。
『大丈夫……君は独りじゃないよ。
ずっと見守ってるからね』
その声は、白い空間に溶けるように優しくて。
「……?今……なんて……」
問い返そうとした瞬間、景色が淡く滲みはじめる。
白が薄れ、光が差し込み、夢の輪郭がほどけて……彼の姿も、声も、遠ざかる。
言葉の意味を理解するより前に──私の意識は、現実へと引き戻された。
『モ……フ…』
額に当たる、くすぐったい感触。
小さくて可愛らしい鳴き声に、ゆっくり目を開ける。
「……ん…?」
『モッフゥ……モッフゥ!』
「……ホノ?」
視界いっぱいに、もふもふの毛並み。
どうやらホノが、私のおでこにちょこんと乗って覗き込んでいたらしい。
さっき感じていた柔らかさは、この子の毛だったのか。
『モキュッ!モッフゥ!!』
「うわッくすぐったい!
ッあはは!……おはよう、ホノ」
くすぐったさに笑いがこぼれる。
夢の余韻が、少しずつ朝の光に溶けていく。
『モキュ〜!』
元気いっぱいの返事。
その無邪気さに、胸がほっとする。
「……ねぇホノ、私ね」
『モフゥ?』
首をかしげる小さな相棒に、私はそっと抱きつく。
ふわふわで、あったかくて、現実の温度。
「大事な人が……沢山いるみたい」
夢の中で呼んだ名前。
優しく触れてくれた手。
笑い合った時間。
全部、ちゃんとここに残ってる。
『モフ!モ…!モモ、モフゥ?』
どうやらホノは、喜びつつも“自分はどうなの?”と聞いているらしい。
でもそんなの、聞くまでもない。
「当たり前でしょ!
ホノの事も、大切だよ!」
『…モキュッ♪』
途端に、嬉しそうな顔をする愛しの毛玉ちゃん。
「え、何その顔……可愛いやつめ!」
頬をすり寄せると、ホノの毛がくすぐったくて、あたたかい。
夢の中でも、現実でも。
私は──独りじゃない。
そう思えた朝だった。




