冬の日
「寒いねー」
吐く息が白い。
季節の移り変わりは早いもので実りの季節は足早に通り過ぎ、気づけば冬の足音がすぐそこまで迫ってきていた。出したばかりの厚手のコートに身を包んで隣を歩くイヅナを見上げると、彼はやわらかそうなニットの帽子に包まれた頭を縦に振った。同時に、帽子の先端についている丸いファーがふわりと揺れる。さわり心地の良さそうな丸くて白いそれをじい、と見つめていると、視線を感じたのか、イヅナが顔をこちらに向けた。
何? その声が少しだけくぐもって聞こえるのは、ぐるぐる巻いたマフラーが彼の顔の半分を覆っているからだ。マフラーだけではない。濃紺のダッフルコートの袖口から覗く手にはしっかりともこもこ素材の手袋がしてあるし、帽子とマフラーで半ば埋もれているが、耳にはもこもこのイヤーマフがばっちり装着してある。ちなみにヒート素材のシャツの背中とお腹は貼るカイロでサンドしているらしい。
生身のイヅナは極度の寒がりだった。これは、最近知ったことだ。
「大丈夫? イヅナ」
「寒い」
ええ、ええ。そうでしょうとも。しかしその完全防備をもってなお、寒がりか。本来真っ白であるはずのイヅナの頬がじわりと赤い。ぽつりとホッカイロ持ってくればよかったとか言っているのを聞いて驚く。これ以上どこに貼ると。
「貼らないやつ。手袋の中に仕込んどく。両手」
「火傷しちゃうよ?」
呆れながらそう言えば、イヅナは少し残念そうにそっか……と呟く。え、まさか本気でやるつもりだったのか。
「寒がりだねえ、イヅナ」
「うーん」
精神体で生活していた頃は暑さ寒さをあまり感じなかったらしいイヅナには、冬の冷たく乾いた空気は堪えるようだ。
「あ、また唇かさかさしてるよ」
指摘すると思い出したようにイヅナのもこもこの手袋が口元に向かう。またリップクリーム買うの忘れてた……と漏らす横顔を見てため息を吐く。
「リコの、貸して」
「え」
いや? と目線で訴えられて、い、嫌じゃないけど……と口ごもる。そのまましばらくじい、と見つめられ、根負けしたわたしが鞄の中からリップクリームを取り出すまでそう時間は掛からなかった。
差し出したそれをイヅナが受け取る。そしてそのまま口元へーーと、そこまでしか目で追えなかった。な、なんだこの気恥ずかしさは。だ、大丈夫大丈夫。だって、かっかれしと、かのじょだもの。きっと世の中のカップルさんたちはこんなこと息をするくらい自然にやってのけているはず。そう、だから、わわわたしが動揺する理由なんかな、なっないわけで。
「あ」
「え!?」
必要以上に大きな声が出てしまって内心焦る。それでも必死に取り繕いながらイヅナを見上げると、彼はふかふかのマフラーの中からいたずらっぽく笑った。
「間接ちゅー、しちゃった」
にやり、そんな笑みだった。語尾にね? とつけてリップクリームを差し出すイヅナをぽかんと見つめる。そして、ようやくその意味を理解したわたしが顔を真っ赤にしてばしばしイヅナを叩くまで、あと三秒。
□□□
「わっ、けっこう並んでるね」
店の外まで並ぶ行列を見てイヅナがうわあ……と小さく声を上げた。
今日は二人で最近オープンしたふわっふわのパンケーキを提供するカフェを訪れてみたのだが、人気店らしく店の前には行列が出来ていた。この寒空の下を物好きなことだ。わたしたちも含めて、だが。ううむ、三、四組ってとこか。どうしよう。せっかく来たんだから食べてみたいが、寒がりのイヅナを寒空の下で待たせるっていうのも……。
じ、とうかがうようにイヅナを見上げる。その視線を受けて、白いもこもこ帽子が縦に揺れた。
「並ぶ。パンケーキ、食べる」
イヅナはけっこう甘党だ。
すり、と両手をこすり合わせる。暖を求めて吹きかけた息は、空気に混じって白く溶けた。
寒い。あれから十分くらい待っただろうか。意外と回転率は良いらしく、先に並んでいた三組は既に店内に入り、今並んでいるのはわたしたちだけだ。これならもうすぐ入れるかもしれない。
「寒い?」
イヅナが声を掛けてくる。相変わらず完全防備の彼を見上げて「ちょっとね」と肯定すると、イヅナはそっか、と少し考えるような仕草を見せた。
わたしも寒いのは寒いが、きっとおそらく、イヅナほどではない。さすがにお腹と背中にカイロは貼らないし。けれど、やはりそれでも動きもせずに寒空の下にいるのは、少しだけ堪えるかもしれない。
「ん」
は? 声を出して、そのままぽかんと固まってしまった。え、ちょっと。何をしているのこの人は。
イヅナがいつの間にやらコートの前合わせをくつろげていた。中に着ているのはこれまたあたたかそうなセーター……って、違う違う。そうじゃなくて、何をしているんだいったい。どうしたの? 当然の疑問だ。しかしそう言ったわたしにイヅナは事もなさそうにこう返してきた。
「入んな」
「は、い……は?」
瞬く。どうしよう、意味が解らない。イヅナはコートの合わせを両手で持って広げながら首を傾げる。
「寒いでしょ?」
「さ、寒いけど」
「ん、ほら」
いやいやいやいや。
頭の中で盛大に突っ込んだ。ほらって。ほらって! まさかこれはあれか。わたしにその、そのコートに入れと、そういうアレか。なななにそのバカップル!
「い、いやそんなっ。だっ大丈夫大丈夫」
「え、だって寒いんでしょ?」
寒いけどさ! それとこれとは話が別でしょう! 彼氏のコートに一緒にくるまるって何その羞恥プレイ。
「こっ、ここ外だよ?」
「うん、寒いよね」
うん確かにって違う。そうじゃなくて。
「ひ、人がいるし」
「俺たち以外並んでないよ」
ソウデスネ。って待て違う。そうでもなくて。
「ほ、ほら。だってほら。どっ、道徳的? な、問題とか、いろいろ、ほら……」
「リコ」
しどろもどろになるわたしに、イヅナがにっこりと笑った。
「俺、寒いんだけど」
「……」
わたしの負けでした。
「あったかいねー」
「…………」
そうでしょうとも。
ばっくばっくとうるさい心臓を誤魔化すように空を見上げる。雲一つ無い青空が、今は少しだけ恨めしい。雨でも降っていたら手は傘でふさがってこんなことにはならなかったかもしれないのに。
ふう、と後頭部のあたりでイヅナが息を吐く。う、くすぐったい。しかし逃げようにもわたしの身体は既に紺色のダッフルコートの中だし、そもそもイヅナの両手でがっしりとホールドされていて、ちょっとやそっとじゃ逃げられそうにない。
「い、イヅナ。くすぐったい」
「あ、ごめん。でも、あったかいでしょ」
いやあったかいんだけども。というか少し暑すぎるくらいだ。背中が特に熱いのはイヅナのお腹に貼られているというホッカイロのせいか。
「い、イヅナ。わ、わたしもう、大丈夫だから。もう、あ、あったまったし」
「えー、だめ」
だめって。
泣きたい気持ちで首をひねってイヅナを見上げる。そして後悔した。イヅナが見たこともないようなとろけそうな笑みを浮かべていたからだ。いきなりの衝撃に頬が熱い。
「リコ、あったかい」
耳元をくすぐる声までが甘くて、ざわりと背中が騒いだ。
「あったかくて、やわらかくて、いい匂い。……あー、幸せ」
本当に、本当に幸せそうに笑うから何も言えなくなってしまった。ああ、もう、何だかイヅナに触れられるようになってからこんな風に振り回されることばっかりだ。けれどそれが全然嫌ではないのだから、困る。
「ね、リコ。やっぱりパンケーキやめて、家に帰ろうか」
「えっ」
「家で、もっといちゃいちゃしよ」
ーーああ、どうか。店員さん、一刻も早く呼びに来てください。でないとわたし、この誘惑に勝てる気がしません。