第25話:人が増えると、混乱も増える
翌朝。灰霧前砦の周囲に広がる真新しい漆黒の防壁の内側は、日の出と共に、耳をうんざりさせるような喧騒と怒号の渦に包まれていた。
「おいコラ! ここは俺たち『鉄の牙』パーティが昨日から目を付けてた場所だぞ! 勝手にテント張ってんじゃねえ!」
「あぁ!? 地面に名前でも書いてあんのか! 俺たちはバロス商会から場所代払ってんだよ、すっこんでろ泥棒猫ども!」
「なんだとテメェ、表へ出ろ!」
「ここはもう表だ馬鹿野郎!!」
完成したばかりの広大で真っ平らな石畳の荷捌き場。
そこは今や、無秩序の極みへと陥っていた。
迷宮の第一層が安全な稼ぎ場となった噂を聞きつけ、近隣の街や村から一攫千金を夢見る冒険者たちが夜通し歩いて押し寄せてきたのだ。
さらに、バロス会頭の号令によって周辺地域から集められた大工や商人、荷運びの労働者たちも加わり、砦の内側の人口密度は昨日の数倍にまで膨れ上がっていた。
誰もが少しでも迷宮の入り口に近い場所、あるいは安全な壁際の場所を確保しようと、我先にとテントを張り、荷馬車を停め、木箱を積み上げる。
その結果、何が起きたか。
巨大な荷馬車が互いの進路を塞ぎ合って身動きが取れなくなり、その隙間を縫って歩こうとする冒険者たちが商人の荷物を蹴飛ばし、あちこちで小競り合いや乱闘騒ぎが勃発していたのである。
「どけ! どけって言ってんだろ! 砦に納品するポーションの馬車が通れねえじゃねえか!」
「知るか! こっちだって木材を降ろしてんだよ、お前らがバックしろ!」
荷捌き場の中央では、完全に車輪が絡み合った二台の馬車が立ち往生し、物流の動線を完全にへし折っていた。
砦の二階、迷宮管理室の窓からその地獄絵図を見下ろしていたレイン・ヴァルトは、静かに、そして深くため息をついた。
『ご報告いたします、管理者様。……現在、防壁内における暴力事案の発生件数は一時間に十二件を突破。物流の停滞率は九十パーセントを超え、砦の機能は事実上、完全に麻痺しています』
レインの傍らに浮かぶ緑色の光の玉――監査精霊ノアが、一切の感情を交えない冷徹な声で事実だけを告げる。
「ああ、見ればわかる。見事なまでの交通渋滞だ。……せっかく作った完璧な石畳が、ただの無法地帯になり下がっている」
『キーッ! 信じられないわ! 私がミリ単位で計算して出力した美しい広場に、あんな泥だらけのテントを無秩序に乱立させるなんて! ちょっと管理者、今すぐあの馬鹿ども全員を雷の魔法で黒焦げにしてやりなさいよ!』
赤い光の玉、設計精霊ミストがレインの周囲を猛スピードで飛び回りながらヒステリックに叫ぶ。
『俺も賛成だぜ! あいつら、せっかくの安全圏で何やってんだよ! 俺が直接行って全員の尻を蹴っ飛ばしてこようか!?』
黄色い光の玉のルカまでが、好戦的な声を上げて上下に弾んだ。
「お前たちは少し落ち着け。……魔法で焼き払ってどうする。彼らはこの迷宮を回すための大切な利用者であり、システムを駆動させるための血流だ。血を焼き払えば、迷宮は死ぬ」
レインは窓枠に手をつき、銀縁眼鏡の奥の瞳を細めた。
「問題の根本は、彼らのモラルではない。人間の行動を制御するための『運用規則』が存在していないことだ」
どんなに高性能な物理基盤――頑丈な防壁や、完璧に平らな広場を作ろうとも、それを動かすための基本経路がなければ、人間という名の予測不能な生き物は、各自が勝手な方向に走り出し、必ず衝突事故を起こす。
道を歩くときは右側を通るのか、左側を通るのか。
商人の馬車を停める場所はどこで、冒険者が野営していい場所はどこなのか。
それを明確に線引きし、違反者に罰則を与える「法と執行者」がいなければ、都市は決して機能しないのだ。
「……下に行くぞ。この混沌は、魔法では解決できない」
レインは身を翻し、急ぎ足で一階へと向かった。
◆
一階の受付ホールを抜け、石畳の広場へと出た瞬間、むせ返るような土埃と男たちの汗の臭いがレインの鼻を突いた。
「いい加減にしろ、この阿呆ども!!」
広場の中央で、ひときわよく響く鋭い女の怒声が上がっていた。
受付嬢のベルダだ。彼女は木箱の上に立ち、いがみ合う傭兵と商人の間に割って入って、両手を広げて怒鳴り散らしていた。
「アタシが順番に案内するって言ってるだろうが! テメェら、少しでも前に出ようとするから馬車が絡まるんだよ! 馬鹿なの!? 脳みそまで筋肉でできてんのかい!」
「うるせえ、受付の女はすっこんでろ! 俺たちは場所代を払って――」
「その場所代を受け取ってんのはアタシだよ! ギルドの受付に逆らうってことは、今後この迷宮で稼いだ魔石を一切換金できなくなるってことだ! それでもいいなら、その剣を抜いてみな!!」
ベルダの気迫と「換金停止」という実利を突いた脅しに、さしもの荒くれ者たちも怯み、舌打ちをして武器を下ろした。
だが、ベルダが一つ喧嘩を収めたところで、また十メートル先で別の怒鳴り声が上がる。彼女一人で数百人の無秩序な人間を捌き切るなど、物理的に不可能だった。
「……ハァ、ハァ……駄目だ、キリがない……! どいつもこいつ、自分のことしか考えてないじゃないか……!」
木箱から降りたベルダが、汗だくになりながら膝に手をつき、荒い息を吐き出す。
その彼女の背中に、静かな足音が近づいた。
「お疲れ様です、ベルダさん。見事な障害対応でした」
「……管理者。あんたねえ、悠長なこと言ってる場合じゃないよ! あんたが変に立派な広場なんか作るから、人間が際限なく集まってきて、こんな有様さ! どうすんだい、これ!」
ベルダが恨めしそうにレインを睨みつける。
レインは周囲の喧騒を見渡し、それからベルダに向かって深く頭を下げた。
「ええ、私の落ち度です。物理領域の拡張ばかりに気を取られ、人の流れを制御する論理領域の構築を後回しにしていました。……ベルダさん、あなたの力が必要です」
「アタシの力? 見ての通り、怒鳴り散らして喉を枯らすのが限界だよ」
「いいえ。彼らは王都のエリート役人が何を言っても聞きませんが、この辺境の砦で長年彼らの命と金銭を管理してきた『受付嬢ベルダ』の言葉には、一定の敬意と恐れを抱いています。先ほどの喧嘩の仲裁がその証拠です」
レインは真っ直ぐに彼女の目を見た。
「ベルダさん。今日からあなたに、この灰霧前砦の『運用管理長』に就任していただきます」
「……はぁ!? う、運用管理長!? アタシはただのギルドの窓口の――」
「俺は迷宮のシステムと魔法の構築はできますが、血の通った人間の心を掌握することはできません。あなたにしかできないんです。……俺が今から、この広場に『ルール(線)』を引きます。あなたはそれに従って、彼らを力で従わせてください」
レインはそう言うと、右手の人差し指を地面の石畳に向けた。
そして、わずかに残った迷宮のマナを指先に集め、広場の端から端へ向かって、歩きながら線を引くように魔力を放った。
チィィィィン……!
甲高い音と共に、黒い石畳の上に、魔法の光を帯びた「太い黄色の線」が焼き付けられた。
レインはそのまま歩き続け、広場を三つの巨大な区画に分割するように、黄色、青色、緑色の光る線を地面に描き出していった。
「な、なんだ? 地面が光り出したぞ!」
「魔法か!? 管理者が何かやってるぞ!」
騒ぎ立てていた冒険者や商人たちが、足元に引かれた眩い光の線に驚き、次々と手を止めてレインとベルダに注目し始めた。
騒音が止み、広場に一瞬の静寂が訪れる。
レインはベルダの背中を、ポンと軽く押した。
それが、システム管理者から現場の責任者への、権限委譲(アクセス許可)の合図だった。
ベルダは息を呑み、そして腹を括ったように、再び木箱の上にスッと立ち上がった。
大きく息を吸い込み、広場全体に響き渡るような、底知れぬ凄みを帯びた大声を張り上げる。
「全員、よく聞きな!! アタシがこの砦の運用を仕切るベルダだ!!」
その声は、魔法の拡声器など使わなくとも、荒野を生き抜いてきた女の強烈な覇気だけで、数百人の男たちの鼓膜を震わせた。
「今、お前たちの足元に引かれた三色の線が見えるね! 今日から、これがこの街の『絶対の掟』だ! 従えない奴は、今すぐ荷物をまとめて王都へ帰りな!」
ベルダは足元の線を力強く指差す。
「いいか! 『黄色の線』に囲まれた場所は、馬車と人が通るための『共有導線』だ! ここに荷物を置いたり、立ち止まって立ち話をしたりした馬鹿は、その場で荷物をすべて没収する! 何があっても道は開けとけ!」
商人たちが息を呑み、慌てて黄色の線の上に置いていた木箱をどかし始める。
「次に『青色の線』! ここはバロス商会をはじめとする、正式な許可を取った『商人たちの販売・倉庫区画』だ! 冒険者はここで勝手に野営するな! そして商人ども、自分の区画から一歩でもはみ出して店を広げた奴は、即刻営業停止にして叩き出すからね!」
「そして最後に『緑色の線』! ここがお前ら冒険者のための『野営・居住区画』だ! テントを張るのも、酒を飲んで騒ぐのもこの中だけでやれ! 区画の中で場所を取りたきゃ、ギルドの窓口を通せ! 勝手に場所取りで喧嘩した奴は、迷宮への入場資格を永久に剥奪する!!」
ベルダの容赦のない、そして極めて合理的で明確なルールの宣言に、広場は水を打ったように静まり返った。
誰もが、その線引きの正しさと、破った際のペナルティの重さを理解したのだ。
黄色い光の玉――ルカが、感嘆したようにベルダの周囲を飛び回る。
『す、すっげえ……! あの女の人、たったこれだけで、あんなに暴れてた人間どもを黙らせちまったぞ!』
『……人間の社会的階層と心理的優位性を利用した、見事な権限行使です。これで広場の流動性は劇的に改善されます』
ノアもまた、感心したような声でシステム上のエラーが解消されていくのを報告する。
「ああ。彼女こそが、この拠点の最強の防壁だ」
レインは木箱の上に立つベルダを見上げ、誇らしげに微笑んだ。
「……さあ、ルールが分かったなら、さっさと動け! 黄色の線の上にいる馬車、少しバックして隣に道を譲りな! 冒険者どもはテントの杭を引っこ抜いて、緑の区画へ移動するんだよ!!」
ベルダの号令が再び飛ぶと、魔法が解けたように人々が一斉に動き出した。
だが、その動きは先ほどまでの無秩序な混沌ではない。
誰もが「引かれた線」という明確なガイドラインに従い、共有の道を空け、指定された区画へとパズルのピースのように収まっていく。
絡み合っていた二台の馬車が道を開け、奥へと物資が流れ始める。
怒声は消え、代わりに「そっちの荷車通るぞ!」「ここは俺のテントの隣だ、詰めてやるよ!」という、建設的で活気に満ちた声が交わされるようになった。
ほんの数分前まで地獄のような交通渋滞を起こしていた荷捌き場が、まるで緻密に設計された歯車のように、美しく、力強く回転し始めたのだ。
「……ふぅ。これで少しは、街らしくなったかね」
額の汗を手の甲で拭いながら木箱から降りてきたベルダに、レインは静かに拍手を送った。
「見事な采配でした、運用管理長。あなたの言葉が、この拠点に『秩序』という名の命を吹き込みました」
「馬鹿お言い。あんたが分かりやすい線を引いてくれたからさ。……でも、悪くない気分だね。王都の連中が来る前に、アタシたちの手で、アタシたちの街のルールを作ってやるってのはさ」
ベルダは誇らしげに笑い、広場で汗を流す人々を見渡した。
物理的な防壁と地盤。そして、そこに引かれた運用ルール。
灰霧前砦は、王都の古い法律が届かない、独自の経済圏と秩序を持つ「要塞都市」としての形を、確実なものとしつつあった。
だが、査察官ヴィクターが乗る魔導飛行船の到着まで、残り三十時間。
彼らを迎え撃つための「最後にして最大のシステム改修」が、レインたちを待ち受けていた。




