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AI精霊と始める迷宮再建 〜落第管理者ですが、運用改善で最強ダンジョンを作ります〜  作者: 結城ログ
第1章:廃迷宮のトリアージ ―― まずは「初心者が死なない入口」を再建せよ
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第18話:帳簿に差す一筋の光

 灰霧前砦が深い夜の闇に包まれる頃、一階の奥にある大食堂から、ようやく最後の喧騒が消えた。


 つい先ほどまで、今日を生き延び、かつてない大金(正確にはその引換券である預かり証)を手にした冒険者たちの熱気で満ちていた空間は、今はただ、暖炉の残り火がパチパチと爆ぜる音だけを響かせている。


「……あいたたた。冗談じゃないよ、本当に腰が砕けるかと思ったね」


 誰もいなくなった食堂で、受付嬢のベルダは一人、エールのこぼれたベタベタの木テーブルを布巾で拭き上げながら、深い溜息と共に独り言をこぼした。


 三十代後半になる彼女の身体は、疲労で悲鳴を上げている。昼間は受付カウンターで数十人分の入場手続きと、山のような素材の計量、そして巨大な麻袋を倉庫へ運ぶ指示出しに追われた。夜になれば、興奮冷めやらぬ冒険者たちに大鍋のスープとエールを休む間もなく配り続けたのだ。


 本来なら三人、いや五人は必要な業務量を、彼女は今日一日、ほぼ一人で回し切ったことになる。


(……でも、不思議と嫌な疲れじゃないね。いつ以来だろう。あいつらが、あんなに馬鹿みたいに笑い合って酒を飲んでたのを見るのは)


 布巾を洗い桶に放り込み、ベルダは硬く凝り固まった肩をトントンと叩いた。


 長年、この辺境の砦で受付嬢を務めてきた彼女にとって、夜の食堂とは「死者のための通夜」を行う場所だった。運良く生還した者が、死んだ仲間の席を空けたまま、暗い顔で安い酒をあおる。明日への希望などなく、ただ恐怖を麻痺させるためだけに喉を焼く。そんな光景を、彼女は五年以上も見せられ続けてきた。


 だが、今日は違った。


 誰一人欠けることなく、全員が泥だらけの、しかし誇りに満ちた笑顔で帰ってきたのだ。


 あの王都から来たという、生意気で理屈っぽい、黒髪の若い管理者が作り上げた「絶対に死なない道」のおかげで。


「さてと。感傷に浸ってる暇はないよ。こっからはアタシの戦い(ダンジョン)だ」


 ベルダはエプロンを外し、重い足取りで食堂に隣接する薄暗い事務室へと向かった。


 埃っぽい部屋の机に腰を下ろし、小さな魔導ランプの灯りを点ける。オレンジ色の頼りない光に照らし出されたのは、分厚く、使い込まれた革張りの「ギルドの帳簿」と、年季の入った真鍮製の計算盤アバカスだった。


 彼女は羽ペンをインク瓶に浸し、帳簿の新しいページを開いた。


 その直前のページまで、ズラリと並んでいるのは「赤色」のインクで書かれた数字ばかりだ。


 迷宮の維持費、光石の魔力充填費、防具の修繕補助費。そして何より重く圧しかかっていたのが、ギルド本部から支給される「冒険者の死亡見舞金」と「重傷者のための高位ポーション代」という莫大な出費である。


 これまでの迷宮は、少しの素材リターンを得るために、あまりにも多くの命と回復物資コストを浪費しすぎていた。砦の経済は完全に破綻しており、本部からの赤字補填の送金がストップすれば、明日にもこの砦は放棄される寸前だったのだ。


「ええと、まずは今日の『収入の部』からだね。……入場料の銅貨が、三十六人分で……」


 カチ、カチカチッ。


 静かな事務室に、計算盤の珠を弾く小気味良い音が響き始める。


「食堂の売り上げ。エールの樽が三つ空っぽになって、オーク肉のローストが四十食分。……信じられないね。いつもの一ヶ月分の酒が、たった一晩で消えちまった。まあ、支払いは全部あの『預かり証』のツケ払いだけどさ」


 ベルダは羽ペンを走らせ、黒いインクで数字を書き込んでいく。


 次に彼女が手に取ったのは、レインが昼間に並列処理で書き上げた、膨大な「素材の買い取り査定リスト」の束だった。


「さて、問題はこっちだ。買い取り額(出費)と、それを王都に卸した時の粗利(儲け)の計算。……ゴブリンの魔石が四十二個。微光草の良質な束が百五十。シダ草の特級品が八十束……」


 カチ、カチ、カチカチカチカチッ。


 計算盤を弾くベルダの指の動きが、次第に早くなっていく。


(……おかしい。何回計算しても、桁が合わないよ……!?)


 彼女は目をこすり、ランプの灯りを帳簿に近づけて、もう一度最初から計算をやり直した。


 だが、結果は同じだった。いや、何度見直しても、その数字の持つ意味が、これまでの彼女の常識を完全に破壊していた。


 素材の「質」が、根本的に違っていたのだ。


 これまでの冒険者は、魔物に追われながらパニック状態で薬草を千切っていたため、根が途切れたり、葉が潰れたりした「下級品」しか持ち帰れなかった。魔石も、激しい戦闘の末に傷がついたものばかりだった。


 だが今日、安全な明るい通路で、時間をかけて丁寧に両手で採取された薬草は、すべてが高値で取引される「特級品」の基準を満たしていたのだ。傷一つない魔石は、魔導具の核として王都の貴族がこぞって欲しがる最高品質である。


「これを……この品質のまま王都のギルド本部に納品したとすると……」


 ベルダの手が震えた。


 買い取り額として冒険者に支払う(預かり証で約束した)金額も莫大だが、それを上回る『拠点としての利益マージン』が、信じられないほどの額に膨れ上がっているのだ。


 さらに、彼女の目を釘付けにしたのは「支出の部」だった。


「死亡見舞金……ゼロ。回復ポーションの消費……ゼロ。武具の破損による救済措置……ゼロ……」


 ベルダは、その事実を言葉に出して呟き、ハッとした。


 人が死なない。怪我をしない。


 たったそれだけのことが、砦の運営コストを極限まで押し下げていた。死亡者が出ないから見舞金がいらない。安全地帯で戦うから、高価な回復薬も必要ない。


 収入が十倍になり、支出が十分の一になる。


 その極めてシンプルで、しかし奇跡のような経済効果が、今、一枚の羊皮紙の上で明確な数字となって結実しようとしていた。


「……信じられない。こんな数字、私がここに着任してから五年間、一度も見たことがないよ」


 ベルダは羽ペンを震える手で握り直し、帳簿の最後の一行――『本日の純利益』の欄に、ゆっくりと数字を書き込んだ。


 赤インクではない。


 黒く、力強いインクの輝きを放つ、圧倒的な「黒字」の数字を。


「……出た。出たよ。プラスだ。……私たち、稼げたんだ」


 その瞬間、長年張り詰めていた糸がふっと切れたように、ベルダの目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。


 それは悲しみの涙ではない。赤字のプレッシャーと、次々と死んでいく若者たちを見送る絶望の日々から、ようやく解放されたという安堵の涙だった。


 ずっと暗闇だった帳簿のページに、ついに一条の光が差し込んだのだ。


「……随分と遅くまで起きていますね、ベルダさん」


 不意に、事務室の入り口から静かな声がかけられた。


 ベルダがハッとして顔を上げると、そこには銀縁眼鏡をかけ、夜着の上に外套を羽織ったレインが立っていた。手には、湯気の立つマグカップが二つ握られている。


「レ、レイン……あんたこそ、まだ起きてたのかい。地下の調整で徹夜したんだから、早く寝なきゃ倒れるよ」


 ベルダは慌てて目元を袖で拭い、いつもの姉御肌の口調を取り繕った。


「俺はこれでも、王都で数日間の徹夜デバッグには慣れていますから。……それより、お疲れでしょう。カモミールの茶を淹れました。脳の疲労回復に効きます」


 レインはカップの一つを机の上にコトリと置き、自分も向かいの丸椅子に腰を下ろした。


「……ありがとう。でも、疲労なんてもう吹き飛んじまったよ。レイン、これを見な」


 ベルダは誇らしげに、書き上げたばかりの帳簿をレインの方へと押しやった。


「信じられるかい。今日の利益だ。……あの巨大な麻袋の山を王都に送れば、この砦の半年分の維持費が、たった一日で稼ぎ出せる計算になる。しかも、怪我人も死人もゼロだ。赤字の補填なんて、もう本部に頭を下げて頼む必要はないんだよ」


 興奮気味に語るベルダに対し、レインは帳簿の数字をスッと一瞥しただけで、さして驚いた様子も見せずに紅茶を一口飲んだ。


「ええ、想定通りの推移スループットです。……俺が昨日、ベルダさんに言った言葉を覚えていますか?」


「昨日……? ああ、『安全網の構築は、人道的な配慮ではなく、最も効率的なコスト削減だ』って、理屈っぽい顔で言ってたっけね」


「その通りです。冒険者を使い捨てにする”焼畑農業”は、一時的な利益しか生まない不良システムだ。人が死ねば、見舞金という莫大なコストがかかり、迷宮の悪評が立ち、新規の労働力リソースが枯渇する。……経営的に見ても、論外の愚策です」


 レインは銀縁眼鏡の位置を中指でクイッと直し、静かに語り続ける。


「だが、人間が死なない環境プラットフォームさえ構築すれば、彼らは自ら装備を整え、学習し、より奥深くへと潜って、さらに質の高い成果を持ち帰ってくるようになる。初期投資(防壁の構築)こそ手間がかかりますが、長期的に見れば、これほど安定して右肩上がりの利益を生み出すシステムはない。……この黒字は、奇跡でもなんでもない。彼らが生きているという『システムが正常に稼働している証拠』に過ぎません」


 どこまでも感情を排した、システム管理者としての冷徹なロジック。


 だが、その理屈っぽい言葉の裏にある「人間を絶対に死なせない」という強固な意志を、ベルダは痛いほど理解していた。


 彼は、王都の貴族たちのように「人の命は安い」とは言わない。「人の命こそが、最も価値のあるシステム資源だ」と言い切っているのだ。


「……ふふっ。相変わらず、可愛げのない男だね。でも、あんたのその小難しい理屈が、この絶望だらけだった砦を救ったのは事実だ」


 ベルダはマグカップを両手で包み込み、温かいカモミール茶を喉に流し込んだ。


 胸の奥まで温まるような、優しい味がした。


「ありがとう、レイン。……あんたがこの辺境に来てくれて、本当に良かった」


 ベルダが心からの笑みを向けると、レインは少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、咳払いを一つした。


「……感謝されるには及びません。俺はただ、与えられた環境のバグを取り除き、システムを最適化しているだけですから」


 そう言って紅茶をすする青年の横顔は、やはりどこか、不器用な職人のようだった。


「ただ、ベルダさん」


 レインがカップを置き、ふと真剣な顔でベルダを見つめ返した。


「今日の狂乱ぶりは、まだ『序章』に過ぎません。……明日以降、この安全で稼げる迷宮の噂は、風に乗ってさらに遠くの村々へ、いや、近隣の都市へと広がっていくはずです。となれば、今日とは比較にならない人数の冒険者と商人が、この砦に押し寄せることになる」


「……っ」


 ベルダの顔から、すっと血の気が引いた。


 今日の十数人分の対応だけで、彼女の体力は限界に達し、受付カウンターは麻袋で埋め尽くされ、金庫の小銭は消し飛んだのだ。


 もし明日、これが五十人、百人規模になったとしたら……?


「今日の黒字は、いわば『プレオープンのテスト結果』です。……我々の地上の拠点サーバーは、すでに容量の限界キャパシティ・オーバーを迎えている。受付の人員、待機列の整備、素材の保管庫、そして彼らが休むための宿と食堂。すべてが決定的に足りない」


 レインは無慈悲な事実を突きつけた。


「地下の迷宮は直した。ですが……今のままでは、明日にはこの砦そのものが、物理的に機能不全を起こして崩壊します」


「う、嘘だろう……? せっかく迷宮が上手くいき始めたってのに、今度は砦がぶっ壊れるっていうのかい!?」


 ベルダは頭を抱え、先ほどまでの黒字の喜びは一瞬にして彼方へと吹き飛んでしまった。


「一つのボトルネックを解消すれば、次のボトルネックが浮き彫りになる。それがシステム管理の常です」


 レインは立ち上がり、事務室の壁に掛けられた、埃を被った『灰霧前砦の全体図(見取り図)』を見上げた。


「……次は、迷宮の奥ではなく、この『地上拠点』そのものを再設計リファクタリングする番です。ベルダさん、親方にも伝えてください。明日は、さらに忙しくなりますよ」


 深夜の事務室で、黒字の帳簿を見つめる二人の戦いは、まだ終わっていなかった。


 死の迷宮を制覇した彼らに立ち塞がる次なる試練は、圧倒的な「大繁盛」という名の、物理的な業務パンクだった。

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