第158話 器を渡す
十二晩目の紙が出たのは明け方だった。
セレスの列が当番小屋の卓へ二本立った。
『取り直しが済みました。一人目は三晩で出ています。八です。前に取ったときは七でした』
「耳のほうが動いたのですね」
『動いています。上がったのか癖が変わったのかは分けられません。数だけが出ます』
『二人目は十二晩そろいましたので初めて出せます。十一です』
「二人とも上の段へ書ける形ですか」
『なります。座った半年はどちらも越えています。測った日と測った者の名も入っています』
ルカの罫が紙の面を横へ走った。
『同じ朝に二つ上げます。上の段が五になります』
「一人目が今日まで上がらなかった理由を残してください」
『残します。半年を座り終えた月に取った目盛りが、上へ書く前に半年を越えました。取り直しの三晩が要りました』
『申し上げます』
ノアの灯が罫の頭へ寄った。
『こちらで決めた条件で、こちらの頭数が半年ぶん遅れております。緩めますかと伺うのが筋ですが、伺いません。遅れた月の数だけを書いて残します』
「そうしてください」
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当番の晩でもないのに、ドルクは日の出前から上がってきていた。框の端に腰を下ろしたまま顔も上げない。
「五か」
「五です」
「いっぺんも見たことのねえ数だな」
老人は框から立って卓の脇まで来た。紙を自分のほうへ回して、上の段の三つ目に指を置く。
「筆を貸せ」
レインは筆を渡した。
ドルクは自分の名の上へ横に一本引いた。薄く引かなかったので墨は濃いが、字は線の下に残っている。
『線でございます。消しではございません』
ノアの灯が引かれたばかりの行へ下りた。
『下の字が読めます。読める形で残すのであれば、そのように綴じます』
「そのように。引いた者の名も要ります」
『要ります。外された者と自分で引いた者は、あとから紙の上で見分けがつきません』
ドルクは筆を置いた。
「外されたんじゃねえぞ。俺が引いた」
「そう書きます」
「書け」
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紙の上の数は四になった。
「四人目が入りゃ細いところが埋まる。そう言ったのは俺だ」
老人は框へ戻らずに卓の端へ腰を預けた。
「埋まって、その上に一つ余ってる。……俺の名前が要る日は、もう来ねえよ」
「来ません」
「そこは慰めるとこじゃねえのか」
「慰めると、次に引く人が引きにくくなります」
返ってきたのは笑いに似た息だけだった。
「それが、やりたかったことだ」
老人は懐から札を出して卓へ滑らせた。今度は指を離したまま引き戻さない。
「これも束へ入れとけ。先月のと合わせて四枚ある」
「読み違えの札ですね」
「俺の欄はそれで終いだ。あとは読む奴のもんだ」
『朝の束のいちばん上へ置きます』
ルカの罫が束の位置で止まった。
『読むのはその日の卓です。当番のなかでは回しません』
「一枚目の紙はどうしますか」
『聞き方の九つと、目盛りの取り方を並べて一枚目にします。十行目の下は空のままです』
「空のままで結構です」
ドルクは束を指の先で押した。
「そのうち誰かの字が入る。俺の字じゃなくていい」
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『下の段が空になりました』
ミストの光が紙の下半分へ落ちた。
『空の欄は、無い欄と同じに読まれます。線を引いて、空だと分かる形にします』
「引いてください。いつから空かも書いてください」
ベルダは自分の台帳を抱えて戸口に立っていた。
「探すのはあたしの受付でしょう」
「お願いします」
「声はかけるわよ。でもね、半年毎晩なんて、うちの登録で言えるのは一言目じゃないの。三言目くらいでやっと出す話よ」
「一言目に言ってください」
「断られるわよ」
「半年の途中で断られるより、初めに断られるほうがいいです」
「……その言い方なら書けるわ」
ベルダは唇だけでその言い方を繰り返してから台帳の頁をめくった。
「一つ足しておくわね。断った人の名も書くわ」
「理由は」
「訊かないわよ。訊かれると次の年に来なくなるもの」
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坂を下りたのは日が傾いてからだった。
屋根の高さは相変わらず揃っていない。二階を継ぎ足した宿の隣に平屋の工房があり、その先で新しい梁が上がっている。同じ形の屋根は一つもない。
門柱の下には古い板がそのまま掛かっている。灰霧前砦。字は薄いが削っていない。
リナの窓口には列ができていた。並んでいるのは荷を背負った家族連れと、荷のない若い二人組だ。
「井戸の使い方から先に話しています」
リナは列のほうを見たまま続けた。
「その次が便所です。剣の話は誰も訊きに来ないので、こちらからはしません」
「訊かれたら」
「ガルムさんのところへ回します」
市はもう店じまいにかかっていた。バロスは場所代の板の前で人足と話している。板には使い道が月ごとに書いてある。
「峠の荷は出たぞ」
商人は板を指の腹で叩いた。
「日当と口銭だ。今月も雑には入れてねえ。ちゃんと列のほうへ書いてある」
「伺いました」
「見えねえ場所代は誰も払わねえ。見える銭は文句を言いながら払うんだよ」
門の脇の詰所では夜の見回りが集まっていた。ガルムが人数を数えて、二人足りないところで舌を鳴らしている。
「掃除に取られてる」
「夏の十二人ですね」
「十二人だ。あっちを削らせる気はねえよ」
エルメアは井戸の列の脇で子どもの手を見ていた。顔は上げずに一言だけよこす。
「今年の夏は、まだ誰も倒れていません」
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水路の縁にドルクがいた。桶を運ぶ子どもらを眺めている。杖は持っていない。
「谷は今夜だな」
「今夜です」
「行かねえよ」
老人は水路の面を顎で指した。
「ここの流れを見てりゃ、下の具合はだいたい分かる」
「分かりますか」
「分かるさ」
ドルクは水面から目を離さなかった。
「……当たってるかどうかは、もう誰も俺には訊かねえけどな」
子どもの一人が桶を傾けて水をこぼした。老人は手を伸ばさずに縁の石を指で叩き、そこへ置けと顎で示した。
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夜になって、レインは帳面の綴じ紐を解いた。
『どちらを開きますか』
「終いの頁です。一枚足します」
『名を伺います』
「管理者が欠けた日の手順、です」
『申し上げます』
ノアの灯が結び目の上で止まった。
『お辞めになりますか』
「辞めません」
『では要らぬ頁でございます』
「要ります。辞めない者ほど、いなくなり方を書いていません」
レインは灯が言葉を継ぐまで待った。
『中身を伺います』
「割らない三項は灰霧が持ちます。持つ者の名を順に三つ書きます。一つ目が欠けた日から二つ目が持ちます」
『名は変わります』
「変わりますので、年に一度書き直します」
『欠けた日から書き直しまでの間が空きます』
間の長さはセレスが出した。
『年に一度ですと、いちばん長くて十一月あきます』
「では欠けた日にも書き直します。書ける者がいない年だけ、年の分が当たります」
『順を数で書かないでください』
ミストの光が空いた頁へ落ちた。
『一、二、三と並べますと、二番目の者は自分が二番目だと知ります』
「知ってもらいます」
『……では番号を伏せて、条件のほうを並べてください。読む者が自分の順を数えられる形にします。数えた者は、数えたことを人に言いません』
「そうします」
『写しは三通ですか』
「一通です。灰霧の紙にします」
『三項の内側でございます。外へは出しません』
ルカの罫が頁の下で止まった。
『綴じました。読める者の範囲を書きます』
「当番と、ベルダ。ガルム。この卓の者です」
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谷の刻は夜半を回ってからだった。
下りたのは上の段へ入ったばかりの若者と、道を見る手の者が一人だ。管の脇へ座るのは一人になる。
「一人で座るのは初めてですね」
「初めてです」
若者は灯を左手へ持ち替えた。
「灯は左です。右へ置くと手元が明るくなります」
「そう教わりましたか」
「教わりました。書いてもあります」
若者は階段のほうを向いてから、一度だけ戻した。
「……ドルクさんは」
「水路にいました」
「そうですか」
若者は少しだけ笑って、それから灯を下げて下りていった。
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札が先に上がってきて、人はそのあとに上がってきた。順はいつもと同じだ。
幅の欄には三と入っている。刻限は昨日より半刻早い。読み違えの欄は空だった。
『昨日と同じです』
セレスの列が札の脇へ並んだ。
『街の井戸まで届く数ではありません。上の水は動きません』
『束へ入れます』
ルカの罫が札の縁をそろえた。
『年の終わりに数えるのは、座る者の数と、読み違えの欄に入った数と、突き合わせに出た紙の数です。今夜は三つとも欠けていません』
レインは札を棚へ戻して、当番小屋の窓を閉めた。
下では弁が今夜も指の幅ほど開いている。開き幅は三月前と同じで、上の人数が四百から五百に増えても、垂らす水の量は変わらない。それだけのことが、明日も明後日も要る。
当番の紙の下の段は、まだ空いている。
明日の朝、ベルダは受付の一言目にそれを言う。半年のあいだ毎晩座れますか、と。
作った者たちは終わらせ方を書かなかった。灰霧も書けなかった。
書けたのは、続け方だけだ。




