第109話 二枚目の壁が息をする
レインが階段を下りきったとき、深層の当番小屋にはすでに三人が集まっていた。
ガルムが観測盤の前で腕を組み、ドルクが壁の一点をじっと睨んでいる。そのあいだでセレスの光がいつもより細く途切れがちに灯っていた。
「呼び立ててすまん」
ガルムが振り返らずに言った。
「だが、これは俺の勘だけで判じちゃならん類だ。あんたに耳で聞いてもらいたかった」
レインは観測盤の前に立った。深層第一区画まで届いた中継結晶が地下の脈動を細い光の波として盤の上に写している。その波をしばらく黙って眺めた。
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いつもの脈は知っていた。
劣化した古代の機構が拍子を刻んで管を開け閉めするあの重たい鼓動。緩衝を一枚挟んでから、その拍子は角が取れ、上層に響かない程度まで鈍っていた。日課で下りる当番が毎日その鈍い拍子を数えて帰る。それがこの半年の地下の顔だった。
だが、いま盤に写る波にはその鈍い拍子のうしろにもう一つ別の拍子が混じっていた。
「これですね」
レインは盤の端の細かく震える線を指した。手前の重たい波とは明らかに間隔が違う。速く、浅く、そして——不規則だった。
「いつもの機構の音じゃない。周期が揃っていません」
「揃ってねえのが気味が悪ぃんだ」
ガルムが低く言った。
「機構の音は劣化しててもよ、拍子だけは律儀に刻む。壊れかけの時計みてえに狂っても、狂ったなりに一定だ。だが、こいつはそうじゃねえ。数える端から拍子が変わる」
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「方角は」
レインが問うと、ガルムは壁の一点を顎で示した。
「緩衝のその奥だ。前に俺が槌で叩いて手応えだけ拾った——二枚目の壁。あのあたりから来てる」
二枚目の壁。ガルムが施工の合間に緩衝の奥にもう一枚仕切りの気配があると報告した、あの未踏の隔てだった。観測網も、退避線もそこまでは届いていない。届かせようとすれば、中継結晶をもう一段奥へ運ぶ必要がある。
「セレス」
レインは細く灯る光に呼びかけた。
「その二枚目の壁の向こうは読めますか」
しばしの間があった。セレスの光が読もうとするようにわずかに強まり、そしてすぐに元の細さへ戻った。
『読めません』
声には常の断定の切れがなかった。
『中継結晶が届いているのは深層第一区画までです。その奥は観測網の外――霧の向こうです。無理に読もうとすれば、届かない範囲を推し量るために中枢の力を余分に払い続けます。払ったところで、返るのは確度の低い推測だけです』
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『わたしに言えるのはここまでです』
セレスは続けた。理詰めの精霊が読めない、と認めるのは珍しいことだった。
『この不規則な拍子が上層異常のときの波形と違うということ。あのときは機構の脈が強まって上へ漏れました。周期は速くとも、拍子は揃っていた。今回は拍子そのものが揃わない。前例のある異常とは種類が違います。ですが、それが何を意味するかはデータがありません。読めない場所から来る音をわたしは分析できません』
「読めないものは読めない、と言う」
レインは頷いた。
「それでいいんです。無理に読ませて、当てずっぽうを掴まされるほうが危ない」
半年前なら、この沈黙に苛立ったかもしれない。分析の精霊が答えを出せない、それだけで足元が崩れる気がしたかもしれない。だが、深層と付き合ってきたこの数か月で、レインは学んでいた。読めない領域を読めない、と知っておくこと。それ自体が一つの守りなのだと。
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「ドルクさんはどう見ますか」
レインが問うと、壁を睨んでいた老坑夫がようやく口を開いた。
「どう見るもこうもねえ」
ドルクはしわがれた声で言った。
「わしが言えるのは一つだけだ。今の川の付き合い方をそのまま奥へ当てはめるなってことよ」
「今の川の付き合い方」
「手前の機構はもうわしらの手に馴染んだ川だ。流れの癖も、増えるときの前触れもだいたい読める。だから、止めずに逃がして付き合ってこれた」
ドルクは壁の奥を顎でしゃくった。
「だがな。その奥は別の川だ。もっと深ぇ。手前の川の勘で深ぇ川の底を踏んだら、足を取られて、そのまま持ってかれる。手前を分かったからって奥まで分かった気になるのがいちばん危ねえ」
レインはその言葉を胸に留めた。かつて深層の機構と付き合う流儀をこのドルクの水番哲学から学んだ。川は止めず、毎日逃がす。直さず付き合う。だが、その同じ老坑夫がいま、その流儀を奥へ持ち込むな、と釘を刺している。覚えた付き合い方が一枚壁を越えれば、もう通用しないかもしれない。その戒めのほうが重たかった。
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その晩、管理棟に精霊たちを集めて、レインは盤の記録を広げた。
案の定、意見は割れた。
『またとない機会です』
ミストの光が真っ先に華やかに揺れた。
『二枚目の壁が初めてはっきりと声を上げた。今こそ中継結晶を奥へ運び、観測網をもう一段延ばすべきです。全体を見なければ、何が起きているかは永遠に分かりません。霧の向こうを明るくしましょう』
『反対します』
ノアの光が即座に硬く応じた。
『正体の分からない変調にこちらから近づく。減点方式で申せば、これ以上に危険な一手はありません。観測網を延ばすとは退避線もそこまで延ばすということ。退避線が届かない場所へ人を送るなど論外です。今すべきは奥への接近ではなく、手前の緩衝が破れていないかの点検、それだけです』
『警報の拍子を当番の手順に組み込みます』
ルカの光が早口で割り込んだ。
『不規則とはいえ、記録を溜めれば、閾値は引けます。ある拍子を超えたら鳴らす。手順化すれば——』
『閾値が引けないから不規則なのです』
ノアが遮った。ルカの光が不服そうにちらついた。
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三方向へ引かれた光をレインはひとつずつ見た。
延ばして全体を見たいミスト。近づくな、と閉じるノア。手順に落としたいルカ。どれも半分は正しい。だが、どれもそのまま採れば、どこかで破綻する。奥へ延ばせば、退避線の届かぬ場所に人を置く。全部閉じれば、変調が育っても、気づけない。手順化しようにも、揃わない拍子は閾値にならない。
「延ばしません」
レインはまずミストへ答えた。
「今、観測網を奥へ運べば、退避線の届かない場所に当番を立たせることになります。何が起きているか分からないうちに人を霧の中へは入れません」
ミストの光が惜しむようにわずかに沈んだ。
「かといって閉じもしません」
レインは続けてノアへ向いた。
「近づかないのはその通りです。でも、聞くのをやめてはいけない。手前の機構だけを見て、奥を見ないでいたら、変調が育っても、気づけません。近づかずに、聞き続ける。その線を引きます」
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「境界を決めます」
レインは盤の上に指で一本線を引いた。緩衝を挟んだ深層第一区画のいちばん奥。中継結晶が辛うじて届いているその縁だった。
「観測はここまで。この線から先へは人も、結晶も延ばさない。でも、この線の上で奥から来る拍子をこれまでより注意して聞く。二枚目の壁の音をいつもの機構の音とは別に、新しい見張りの対象として当番表に一列足します」
ガルムが腕を組んだまま、その線を見た。
「延ばさねえってのは賢明だ」
低い声だった。
「俺も退避線を奥へ引くのは待て、と言うつもりだった。今引いても、守れねえ。守れねえ線を引くのは線を引かねえよりたちが悪ぃ。だが——聞くのをやめねえってのはいい」
「聞いていれば」
レインは頷いた。
「この拍子がこれから強まるのか、収まるのか、それだけは分かります。何が鳴っているかはまだ読めなくても、鳴り方が変わったことには気づける。それが境界で見張るということです」
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当番表に新しい一列が加わった。
いつもの機構の拍子を数える列の、その隣。二枚目の壁の音を別に聞き分けて記す列だった。ベルダが翌朝、その列の見出しを台帳に書き足し、下りる者が迷わず記せるよう記号を決めた。手前の音と奥の音。二つを混ぜずに綴じていく。
直さない。踏み込まない。だが、目は離さない。あの水番の流儀を覚えて以来の深層との付き合い方のもう一段奥の応用だった。
その手はずが板についてきた数日後のことだった。
外周の見回りから戻ったガルムが管理棟のレインをいつもより硬い顔で訪ねてきた。
「気になる話を拾った」
ガルムは卓に一枚の走り書きを置いた。バロスの商人筋から回ってきた噂の紙片だった。
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「例の下見に来た連中のうしろにいる筋だ」
ガルムは走り書きを指で叩いた。
「あいつら、砦の門や退避線を見て回っただけじゃなかった。近ごろ別のことを方々で言い触らしてるらしい。灰霧の地下にはまだ誰も手を付けてねえ、もっと奥の区画がある。そっちにこそ本物の値打ちがあるとな」
レインはその紙片をじっと見た。
まだ誰も手を付けていない奥の区画。それは二枚目の壁のことだった。灰霧側でさえまだ観測網を延ばしていない霧の向こう。その存在を外の手がどこからか掴んでいる。
「奥のことを外が知っています」
レインは低く言った。
「私たちがまだ触れてもいない場所を、向こうは値打ちとして話に乗せているんです」
「気味が悪ぃだろう」
ガルムが腕を組んだ。
「奥がいつもと違う声で鳴き始めた。その同じ頃に、外の連中が奥の値打ちを言い触らしてる。たまたまなのか。それとも——」
ガルムは言葉を切った。その先を口に出すのをためらったようだった。
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レインは盤に引いたばかりのあの境界線を思った。
外を固めていたつもりだった。門を絞り、退避を段取り、頼る手と握る手を代の卓へ着かせた。守りの向きはずっと外へ向いていた。だが、その外を捌いているまさにその最中に、内側がこれまでと違う声で息を始めた。そして今、外の手がその内側の奥を嗅ぎつけている気配がある。
外と奥。別々に構えていた二つがどこかで細い糸で繋がっているのかもしれない。
「まだ決めつけません」
レインは自分に言い聞かせるように言った。
「たまたま重なっただけかもしれない。奥の音と外の噂が無関係ということも十分にあり得ます。ですが——」
レインは走り書きを境界線の記録の隣に並べて置いた。
「無関係だと決めつけることもしません。奥の拍子を聞く列と、外の噂を追う筋を両方、切らずに置いておきます。どちらか片方だけ見ていたら、二つが繋がっていたとき、いちばん手ひどくやられる」
ガルムはその二枚の紙が並ぶのを黙って見ていた。
「奥に目をやりながら、外も見張るのか」
「そうです。守る範囲は絞ったつもりでした。でも、絞った範囲のいちばん奥の縁で、外と内が同じ一点を覗き込み始めている」
レインは境界線の引かれた盤をもう一度見た。二枚目の壁はまだ何ひとつその正体を見せない。ただ揃わない拍子で息をし続けている。その息を誰かが外から聞き取ろうとしている。
守りの向きを外だけに定めていられる時はもう終わっていた。




