第10話:想定外のエラー ―― 深層からのイレギュラー
灰霧前砦の地下、迷宮の中枢室。
薄暗い空間の中央で青白い光を放つ管理核の周囲を、四つのAI精霊たちが忙しなく飛び回っていた。
『管理者様、本日の第一層の生体反応マップを更新しました。現在、一組の初心者パーティが探索中。安全エリア内で長時間の採集作業を行っています』
分析精霊セレスが、空中に半透明の立体地図を投影する。そこには、ゆっくりと動く緑色の光点(冒険者)が映し出されていた。
「よし。魔力残量も微増傾向だな。彼らが中で魔物を警戒しながら活動し、わずかでも迷宮内で魔力を行使することで、システム側に還元されるサイクルが回り始めた」
レイン・ヴァルトは手元の管理端末を操作し、安堵の息を吐いた。
リナたちが迷宮の仕組みを理解し、安全に薬草を採集している。それは、レインの設計した「UI」が正しく機能している何よりの証拠だった。
『ふふん! 当然よ! 私が光石の配置を美しく調整したおかげで、彼らは恐怖を感じずに探索できてるんだから!』
赤い光のミストが胸を張るように明滅する。
『このままいけば、来週には第二層の入り口を解放して、私がデザインした大理石の回廊をお披露目できるわね!』
「いや、まだ早い。入り口の安全が確保されただけで、迷宮全体としては依然として末期症状だ。まずは第一層の環境を完全に安定させ――」
レインがそう言いかけた、その時だった。
『――警告。警告。第一層、未整備区画にて、基準値を大幅に超える大型生体反応を検知』
緑の光を放つ監査精霊ノアの無機質な声が、中枢室の和やかな空気を一変させた。
空中に投影されていた立体地図の一部が、チカチカと真っ赤な警告光に染まる。
「大型生体反応だと? 第一層にはゴブリンやスライムなどの下級魔物しか湧かない設定になっているはずだ」
レインは端末を弾き、警告が出ている座標を拡大した。
そこは、レインたちが手をつけていない第一層の奥地。第二層へと続く、崩落した階段付近だった。
『第二層の封鎖障壁に微小な亀裂を確認。そこから這い上がってきた模様です。……個体識別、完了。黒曜狼です』
セレスの報告に、レインは顔をしかめた。
黒曜狼。
刃のように鋭い毛並みと、大柄な成人男性ほどの巨体を持つ肉食獣。本来は第二層や第三層の深い森エリアを縄張りとする、俊敏で凶悪なモンスターだ。
少なくとも、今第一層に入っているような、革鎧に安い剣を持っただけの初心者たちが束になっても勝てる相手ではない。
「なぜ、そんな深層の魔物がわざわざ第一層に上がってきた? 餌なら下層の方が豊富なはずだ」
レインが問いかけると、ノアが冷徹な事実を突きつけた。
『分析結果。対象は「濃密な獲物の臭い」に引き寄せられたと推測されます。ここ数日、第一層の特定ルートに冒険者が集中したことで、彼らの残した臭跡が一本の「道」のように色濃く残っています』
「……っ!」
レインは息を呑んだ。
立体地図上の真っ赤な光点(黒曜狼)は、迷うことなく一直線に移動している。その向かっている先は――レインが初心者のために引いた、あの緑色の「退避線」だった。
『対象は、壁面の夜光塗料の独特な薬品臭と、そこに長時間滞在した冒険者の痕跡をトレースしています。退避線を逆走する形で、現在探索中の冒険者に向かって急速に接近中!』
――最悪のエラーだ。
逃げ道を分かりやすくし、障害物をなくして「歩きやすい安全な道」を作った。
それは人間にとって有益な改善(UI)だったが、同時に、鼻の利く捕食者にとっても「最高に獲物を追いやすい狩猟路」を作ってしまったことを意味していた。
システムを改善したことで発生した、予期せぬ深刻な副作用。
「俺の、ミスだ……。人間にとっての利便性ばかりを優先し、この場所が『魔物の巣』でもあるという生態系を考慮しきれていなかった」
レインはギリッと奥歯を噛み締め、端末を握る手に力を込めた。
『接触まで、およそ十秒! 対象の進路上には、リナ氏を含む二名パーティが存在します!』
「ルカ! 第一広場周辺の防壁を強制起動できるか!?」
『無理だ! 魔力不足で分厚い隔壁はピクリとも動かねえ! 動かせるのは、俺たちがデチューンした「音の鳴る罠」と、光石のオンオフくらいだ!』
黄色い光のルカが叫ぶ。
第一層にいる彼らを助けるための「物理的な武力」も「魔法の障壁」も、今のレインにはない。自分が現場に駆けつけて剣を振るったところで、黒曜狼の餌が増えるだけだ。
(考えるんだ。盤面にある手札だけで、どうやってあの怪物を足止めし、彼らを逃がす?)
レインの脳内で、第一層の構造図、光石の配置、そして「警報装置」に作り変えた罠の位置が高速で組み合わされていく。
『三、二、一……接触します!!』
「……やるしかない。ルカ、対象の頭上の光石の魔力供給を、今すぐ『ゼロ』にしろ!!」
レインは管理卓のパネルを、弾かれるように強く叩きつけた。
◆
暗い通路の奥から、黒い巨体が矢のように飛び出してきた。
黒曜狼の鋭い牙が、恐怖で凍りついたリナの喉元に迫る。
(死ぬ!)
リナが絶望に目を閉じた、まさにその瞬間だった。
――パツンッ!!
突如として、二人の頭上から通路の奥まで、すべての光石の明かりが『一斉に消灯』した。
完全な暗闇。
視界を奪われたのは、人間だけではない。明かりがある前提で標的に飛びかかろうとしていた黒曜狼もまた、急な暗転に体勢を崩し、爪を滑らせて床の石畳に激突した。
ギャンッ、と獣の短い悲鳴が上がる。
『今だ! 走れ! 退避線から絶対に手を離すな!!』
暗闇の中、リナの腰のポーチに入っていた古い魔石の欠片から、青年――レインの切迫した怒声が響き渡った。簡易的な通話魔法だ。
「えっ……管理者様!?」
『質問は後だ! 後ろを振り返るな、走れ! 奴はすぐに立ち直る!』
リナは弾かれたようにカエルの腕を掴み、壁の「緑色の光る線」に手を当てた。
周囲の光石がすべて消え去った絶対の暗闇の中で、夜光塗料で描かれた退避線だけが、ぼんやりとした緑色の道標として浮かび上がっている。
「走ってカエル!!」
「う、おおおおおおっ!!」
二人は壁の線にすがるようにして、全力で入り口へ向かって駆け出した。
数秒後、背後の暗闇から、獲物を逃がした黒曜狼の怒り狂う咆哮が響く。ダァンッ、ダァンッ、と重い爪音が、凄まじい速度で二人を追いかけ始めた。
暗闇の中でも、獣は臭いで正確に後を追ってくる。
(追いつかれる……っ!)
背後に迫る獣の熱い息遣いを感じた時。
――ガコンッ!!
――キィィィィィィィン!!!!
二人のすぐ真後ろの壁で、鼓膜を劈くような甲高い金属音が鳴り響いた。
レインがデチューンし、「警報装置」に変えていたかつての即死罠だ。それを、レインが中枢室からの遠隔操作で、黒曜狼が通過するジャストのタイミングで強制起動させたのだ。
「ギャンッ!?」
狭い通路に反響する爆音の直撃を受け、聴覚の鋭い黒曜狼はもんどり打って倒れ込んだ。
『止まるな! 次の角を曲がれ!』
通信用の魔石からレインの指示が飛ぶ。
リナは震える足に鞭を打ち、緑色の線に沿って通路を曲がった。
「はぁっ、はぁっ……っ、カエル、怪我は……!?」
「だ、大丈夫だ! でも、あいつ……絶対にもう一回立ってくるぞ……!」
カエルの悲鳴のような声が響く中、リナは必死に頭を働かせていた。
(罠が暴発したんじゃない。管理者様が、外から迷宮を操作して私たちを助けようとしてくれてるんだ……!)
これまでの迷宮は、ただ人間を無差別に殺すだけの機械だった。
だが今は違う。迷宮のギミックそのものが、自分たちを守るための「盾」として動いている。その事実だけが、恐怖で張り裂けそうなリナの心を辛うじて繋ぎ止めていた。
◆
「ノア! 対象の再起動までのタイムラグは!?」
『対象、すでに再起動しています。音響トラップによるダメージは軽微。怒りにより、移動速度が先ほどより十五パーセント上昇。このままの速度では、第3ポイント通過前に冒険者と接触します』
中枢室で、レインはギリッと奥歯を噛み締めた。
デチューンした罠程度じゃ、深層の獣への足止め効果は薄い。
光を消し、音を鳴らして数秒の時間を稼ぐのが精一杯だ。
「ルカ、第3ポイントから第5ポイントまでの全光石の出力を、限界突破状態で待機させろ。ミスト、奴の歩幅と跳躍のタイミングを計算して、俺の端末のトリガーに同期してくれ」
『おう! 回路が焼き切れる寸前まで魔力をブチ込むぜ! でもこれやったら、あの区画の照明は二度と使い物にならなくなるぞ!』
『美しくない獣ね! タイミングは私が完璧に合わせてあげるわ!』
黄色いルカと赤いミストが、それぞれ迷宮の魔力回路に干渉を開始する。
レインの端末画面に、黒曜狼の移動速度と予想到達位置が、ミリ単位の精度でカウントダウンされていく。
(俺の設計ミスで招き入れたエラーだ。俺の責任で、絶対に帰還させる……!)
ただの施設管理ではない。
迷宮のギミック、光、音、そのすべてをハッキングし、盤面を支配する「管理者」としての防衛戦。
王都のエリートから左遷された青年と、深層の殺戮獣との、姿なき頭脳戦の火蓋が切って落とされた。




