第17話 座るもの 第5章 残るもの
七人の患者が目を覚ましたのは。
午前五時十二分だった。
最初に覚醒した柴崎孝之から。
遅れること約四十分。
東湾医療センターの病棟では。
複数の警報音が。
ほぼ同時に鳴り始めた。
心拍数の上昇。
脳波の変化。
呼吸状態の回復。
深い昏睡状態にあった七人が。
示し合わせたように。
一斉に目を開いた。
医師と看護師が慌ただしく病室を行き来する。
名前を呼ぶ。
瞳孔を確認する。
簡単な質問を繰り返す。
「御自分の名前は分かりますか。」
「ここがどこか分かりますか。」
「今日は何月何日ですか。」
返答には。
多少の混乱があった。
長時間眠っていたような倦怠感。
筋力の低下。
軽度の脱水。
それ以外に。
目立った異常は確認されなかった。
七人全員が。
自分の名前を答えられた。
家族の顔も覚えている。
職場。
住所。
眠る直前の行動。
それらも。
おおむね一致していた。
医学的には。
奇跡的な回復。
そう呼ぶしかなかった。
◇
「奇跡ねぇ。」
中森安行は。
病院の駐車場に停めた車の中で。
ノートパソコンの画面を眺めていた。
七人分の脳波。
心拍。
覚醒時刻。
残響反応。
全てが一覧で表示されている。
回復した時刻には。
数秒の差しかない。
偶然で説明できる範囲ではなかった。
「相変わらず。」
助手席へ置いた端末が。
低い電子音を鳴らす。
廃集会所に設置していた観測札から。
最後のデータが送られてきていた。
空間消失。
核反応消滅。
精神接続数。
零。
現場の残響濃度も。
既に通常値近くまで落ちている。
事件は終わった。
少なくとも。
数値の上では。
中森は七人分の記録を開く。
覚醒後に行われた簡易問診。
それぞれの回答を読み比べていく。
柴崎孝之。
『大勢で食事をしていた気がする。』
九人目に選ばれた青年。
『猫の鈴の音を聞いた。』
夫を亡くした老女。
『主人と話していたような気がする。』
他の患者も。
夢を見ていたことだけは覚えている。
だが。
場所について尋ねられると。
全員が答えられなかった。
部屋だった。
広い場所だった。
誰かがいた。
座っていた。
それ以上の記憶は。
霧が掛かったように曖昧になっている。
中森は質問項目を下へ送る。
『夢の中に椅子はありましたか。』
七人全員。
回答は同じだった。
『覚えていない。』
「都合よく消えやがって。」
中森は端末へ指を走らせる。
記憶の欠落。
残響空間から切り離された際に生じたものか。
核が滅したことで。
内部の情報も消えたのか。
あるいは。
思い出せないように。
何かが意図的に隠したのか。
現時点では。
判別できない。
助手席の端末が。
再び音を鳴らした。
病院の監視カメラ映像。
覚醒直後の七人が映っている。
それぞれ別の病室。
別の階。
互いの姿は見えない。
音声も共有されていない。
それでも。
午前五時十三分二十二秒。
七人は。
同時に。
同じ動きをしていた。
上半身を起こす。
ベッド脇を見る。
右手を伸ばす。
何もない空間へ。
掌を置く。
まるで。
そこに椅子があるように。
そして。
全員が。
小さく首を横へ振った。
「何を断った。」
中森は映像を拡大する。
患者たちの口元。
声は記録されていない。
だが。
唇は動いている。
七人とも。
同じ言葉を発していた。
「……座らない。」
中森は背凭れへ身体を預けた。
残響との接続は消えている。
脳波も個別化している。
患者同士を繋ぐ反応もない。
それでも。
同じ記憶が。
意識の底へ残っている。
中森は携帯端末を取り出す。
梓へ連絡しようとして。
指を止めた。
時刻は午前六時を過ぎている。
梓は通常の医療機関へ搬送されている。
頬と掌の裂傷。
祓詞の過負荷による神経疲労。
検査と安静が必要だが。
命に別状はない。
一方で結衣は。
同じ場所にはいない。
中森の手配で。
表に出ない医療ルートへ移されていた。
全身の火傷。
残響情報の侵食。
通常の病院では扱えない症状。
専属の闇医者が対応している。
所在は記録に残らない。
誰にも追えない。
「今言っても。」
中森は端末を置く。
「休まねぇか。」
代わりに。
映像と解析結果を保存する。
ファイル名を入力する。
『第十七案件・空席事案』
保存を実行する直前。
中森は入力した文字を見つめた。
空席。
事件の核が求めていたもの。
全ての患者を救出し。
残響を滅した今。
十二席は。
全て空になったはずだった。
中森は。
廃集会所に設置していた観測札の最終記録を開く。
核が消滅する直前。
十二脚の座標が表示されている。
九席が使用状態。
三席が空席。
次の瞬間。
九席全てが解放。
接続数は零。
そこまでは。
想定どおりだった。
だが。
消滅する〇・三秒前。
一席だけ。
表示が変わっている。
『使用者不明』
「何だ、これは……。」
中森は記録を拡大する。
座標は。
結衣が座った席ではない。
柴崎の席でもない。
円の外側。
本来。
椅子が存在しなかった場所。
そこに。
十三番目の座標が記録されている。
使用時間。
〇・一秒未満。
精神情報。
取得不能。
接続先。
不明。
そして。
状態。
『退席済』
中森は無言で画面を見つめた。
誰かが座った。
残響が消える。
その直前に。
ほんの一瞬だけ。
十二席の外へ。
もう一つの席が現れた。
だがそれは。
「座った」というよりも。
そこに「いた」としか言いようのない痕跡だった。
記録は存在するのに。
情報が抜け落ちている。
まるで。
観測されること自体を拒むように。
「見てた奴がいる。」
中森が呟く。
この事件を。
梓と結衣を。
十二席の残響を。
外側から観測していた何か。
そいつは。
残響が滅する直前まで席に座り。
結果を見届けた後。
自分から立ち去った。
あるいは。
最初から。
「席に座る側」ではなかったのかもしれない。
助手席の端末が。
突然、暗転した。
「おい。」
中森が操作する。
反応はない。
ノートパソコンも。
同時に画面が消える。
車内の照明。
時計。
無線機。
全ての電源が落ちた。
静寂。
駐車場の外から聞こえていた車の音さえ。
一瞬だけ遠ざかる。
真っ暗になった画面へ。
白い文字が浮かんだ。
《観測を終了しました》
中森の表情が変わる。
端末へ手を伸ばす。
文字が。
もう一行追加される。
《次の席を用意します》
その文字は。
誰かに向けた報告のようでもあり。
独り言のようでもあった。
感情がない。
ただ。
結果だけを記録する視線。
「誰だ。」
問い掛けても。
返事はない。
数秒後。
全ての機器が同時に再起動した。
画面には。
通常の解析結果が表示されている。
十三番目の座標。
使用者不明の記録。
二行の文章。
その全てが。
消えていた。
中森は端末を操作する。
復元。
履歴。
一時保存領域。
どこにも残っていない。
観測札の原本にも。
十三席目の記録は存在しなかった。
まるで。
最初から。
存在しなかったかのように。
中森は。
しばらく動かなかった。
やがて。
携帯端末を取り上げる。
今度は梓ではなく。
別の番号を呼び出す。
登録名はない。
数字だけが並んでいる。
呼び出し音が。
一度。
二度。
三度。
相手が出る。
『……めずらしいですね。』
低い男の声。
「廃集会所の件だ。」
『何のことですか。』
中森は。
病院の建物を見上げる。
「観測してた奴がいる。」
電話の向こうで。
沈黙が落ちた。
「お前か?」
『さあ』
「……まあいい。」
中森は車の扉を開ける。
朝の冷たい空気が。
車内へ流れ込む。
「一つだけ確かなのは。」
病院の窓。
七人の患者が眠る階。
その一室で。
カーテンが揺れた。
窓は閉じている。
空調も動いていない。
「十二席で終わる話じゃなかった。」
中森は通話を切る。
そして。
病院へ向かって歩き出した。
◇
病室。
柴崎孝之は。
ベッドの上で目を覚ましていた。
枕元には。
母親が座っている。
泣き腫らした目。
強く握られた手。
「心配したのよ。」
「ごめん。」
「何があったの。」
「分からない。」
孝之は正直に答えた。
「夢を見てた。」
「どんな夢。」
「大勢の人がいて。」
孝之は天井を見る。
「僕の席があった。」
母親の手が。
僅かに強くなる。
「でも。」
孝之は。
ゆっくりと握り返した。
「帰ってきた。」
「そう。」
母親は。
涙を拭う。
「おかえり。」
「うん。」
孝之は小さく笑った。
「ただいま。」
その時。
病室の外から。
何かを引きずる音が聞こえた。
ぎ。
ぎい。
椅子の脚が。
床を擦るような音。
孝之は扉を見る。
「どうしたの。」
「今。」
音は止まっている。
廊下には。
看護師の足音しか聞こえない。
「何でもない。」
孝之は母親へ向き直る。
だが。
ベッドの脇。
母親が座る椅子とは反対側に。
床へ細い跡が残っていた。
四本の脚で。
何かを引きずったような。
新しい傷。
その跡は。
病室の中央まで続き。
そこで。
途切れていた。
◇
退院したのは一週間後だった。
柴崎孝之は。
病院の正面玄関を出る。
真夏の陽射し。
蝉の鳴き声。
車の走る音。
人々の笑い声。
世界は。
何も変わっていなかった。
「本当に大丈夫?」
母親が隣を歩く。
「うん。」
孝之は笑う。
「少し休んだら仕事にも戻る。」
「無理しないのよ。」
「分かってる。」
その言葉は。
以前なら言えなかった。
必要とされなければ。
働かなければ。
自分には価値がない。
そう思っていた。
だが。
今は違う。
理由は説明できない。
何が変わったのかも。
思い出せない。
それでも。
胸の奥には。
一つだけ。
確かな感覚が残っていた。
――帰ってきた。
それだけだった。
◇
県警本部。
高峰修一は。
事件資料へ最後の印を押す。
原因。
不明。
患者七名。
一斉覚醒。
医学的要因。
確認できず。
事件性。
現時点では認められない。
それが。
公式記録となる。
「納得できませんか。」
背後から。
梓の声がした。
頬の傷は。
まだ薄い絆創膏で覆われている。
高峰は苦笑した。
「できる訳がない。」
「そうですね。」
「だが……。」
資料を閉じる。
「七人助かった。」
「はい。」
「それだけは事実だ。」
梓は静かに頷く。
それ以上。
何も言わなかった。
◇
夕暮れ。
中森の店。
鈴の音が鳴る。
「珍しいな。」
梓が入る。
「今日は依頼じゃありません。」
「ほう。」
中森は煙草へ火をつける。
「お礼だけ言いに来ました。」
「礼?」
「助かりました。」
「俺は何もしてねぇ。」
「結衣さんを。」
梓は少しだけ笑う。
「助けていただいて。」
「……。」
「ありがとうございました。」
中森は煙を吐く。
「勘違いすんな。」
「?」
「俺は。」
短く言う。
「金になるからやっただけだ。」
梓は笑う。
「そうだとしてもです。」
中森が思わず顔を上げる。
梓は店を見回す。
「結衣さんとは同じ方向を向くことは。」
「あるかもしれません。」
その言葉に。
中森は小さく鼻で笑った。
「ねぇな。」
「そうかもしれません。」
二人は。
それ以上。
この話をしなかった。
◇
同じ頃。
山間の古い診療所。
結衣は。
一人で包帯を巻き直していた。
火傷は残っている。
腕にも。
肩にも。
胸にも。
紫色の痕が薄く残っていた。
扉が開く。
「生きてるか。」
中森だった。
「うるさい。」
結衣が答える。
「元気そうだな。」
「うざい……。」
「何が。」
「全部。」
中森は椅子へ腰掛ける。
「梓が礼を言ってたぞ。」
「興味ない。」
「お前にも。」
「要らない。」
「そうか。」
短い沈黙。
「なあ。」
中森が煙草を取り出す。
「今回。」
「何。」
「助けたな。」
結衣は包帯を巻く手を止めない。
「違う。」
「じゃあ何だ。」
「邪魔だった。」
「誰が。」
「残響。」
「患者じゃなく?」
「そう。」
「……そうか。」
中森は。
それ以上聞かなかった。
結衣も。
何も話さなかった。
◇
夜。
廃集会所。
立入禁止の黄色いテープが揺れている。
建物は解体予定。
事件は終わった。
誰も近づかない。
誰も知らない。
月明かりだけが。
静かに差し込む。
崩れた講堂の中央。
本来。
何も残っていないはずの場所。
そこへ。
一脚の木椅子が置かれていた。
古い。
どこにでもある椅子。
誰も座っていない。
風もないのに。
ゆっくりと向きを変える。
ぎ。
ぎい。
木が軋む。
そして。
椅子は。
誰もいない入口の方を向いた。
まるで。
次に来る誰かを。
待っているように。
◇
《観測終了》
声がする。
男でもない。
女でもない。
年齢も。
感情も。
分からない。
《第十七案件》
《空席事案》
《終了》
静寂。
数秒後。
別の文字が浮かぶ。
《第十八案件》
《準備開始》
誰もいない廃集会所で。
一脚だけ残された椅子が。
静かに。
軋んだ。




