第16話「死者の正しさ」 その5 正しさのあとに残るもの
音が、戻ってきた。
最初は、風の音。
次に、遠くを走る車のエンジン。
そして、人の咳払い。
結衣は、広場のベンチの脇に立っていた。
街灯が点いている。
雨は、もう降っていない。
地面には、水たまり。
その表面に、揺れた自分の顔が映る。
——現実だ。
八咫刀の鎖を確認する。
波形は、沈静化している。
裁く声は、消えた。
周囲を見回す。
ベンチに座っていた男は、いない。
代わりに、数人の通行人が、呆然と立ち尽くしている。
誰も、喋らない。
だが、それは先ほどまでの“静けさ”とは違う。
困惑。
混乱。
そして、微かな恐怖。
自分が、
何かを“信じ切っていた”ことだけが、
曖昧な痕跡として残っている。
結衣は、歩き出した。
すれ違った若い男が、
震える声で呟く。
「……さっきまで、
俺……何が正しいか、
分かってた気がする……」
結衣は、足を止めなかった。
答えは、ない。
正しさは、
外から与えられるものじゃない。
与えられた瞬間、
それはもう、
誰かの道具だ。
スマホが震えた。
『終わったか』
中森の声。
「……うん」
『死者は』
「残ってない」
『街は』
「……戻った」
少しだけ、間が空く。
『歪みは』
結衣は、広場を見渡した。
人々は、
少しずつ、動き出している。
誰かが、
「大丈夫ですか」と声をかけ、
それに、別の誰かが頷く。
小さな、現実的なやり取り。
「……完全じゃない」
『いつも通りだ』
中森は、淡々としている。
『正しさが消えた後は、
責任だけが残る』
「……重いね」
『生きてる証拠だ』
通話が切れた。
結衣は、深く息を吐いた。
胸の奥に、
鈍い疲労が溜まっている。
滅殺した。
確かに、斬った。
だが、
裁かれたはずのものは、
最初から、
“誰のものでもなかった”。
死者の声を名乗ることで、
責任から逃げた亡霊。
それを消しても、
人間の中にある
「考えなくて済ませたい欲求」は、残る。
(……次も、来る)
形を変えて。
名前を変えて。
結衣は、バイクに跨がった。
エンジンをかける。
振動が、身体に戻ってくる。
生きている感覚。
それだけが、
今は確かだった。
走り出す直前、
ふと、胸の奥に浮かぶ。
兄の声。
——正しいと思ったんだ。
結衣は、唇を噛みしめた。
「……分かってる」
誰に向けた言葉かは、分からない。
ただ、
次に出会う“正しさ”も、
迷わず切る。
それだけは、決めている。
バイクは、
夜の街へ溶けていった。




