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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い
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第14話 祈りを欲しがる家 第3章 祈りの残る家

 午前九時十八分。


 東湾市郊外の住宅街に、二台の警察車両が停まっていた。


 加藤家。


 どこにでもある一軒家だ。


 生活の気配は、そのまま残っている。


 濡れた植木鉢。


 干しっぱなしの洗濯物。


 差し込まれたままの新聞。


 昨夜まで、ここには家族がいた。


 それなのに。


 家の中には、もう誰も生きていなかった。


「施錠は?」


 玄関前で、主任刑事が尋ねた。


「玄関、勝手口、窓。全て内側から掛かっていました。」


 若い刑事が答える。


「侵入の痕跡もありません。」


「防犯カメラは。」


「昨夜から今朝まで、出入りは確認されていません。」


「家族も?」


「午後六時四十二分までに全員帰宅。それ以降、外へ出ていません。」


 主任は短く息を吐いた。


「三人が同じ夜に死んだ。」


「はい。」


「外から誰も入っていない。」


「はい。」


「それで事件性なし、か。」


 若い刑事は黙ったままだった。


 主任は靴にカバーを掛け、家へ入る。


 踏み込んだ瞬間、違和感があった。


 冷たい。


 外よりも明らかに温度が低い。


「エアコンは?」


「昨夜から停止しています。」


「室温は。」


「十七度です。」


 八月の朝としては異常だった。


 閉め切られた室内なのに、奥から冷気が流れてくる。


 主任は廊下を見渡す。


 壁には家族写真。


 笑顔ばかりが並んでいる。


 その明るさが、かえって不自然だった。


「遺体は?」


「夫は二階の寝室。妻と娘は子ども部屋です。」


 階段を上る。


 軋む音がやけに大きく響く。


 途中で主任は足を止めた。


「どうしました?」


「……今、何か聞こえなかったか。」


 耳を澄ます。


 何もない。


 静まり返っている。


「いえ。」


「そうか。」


 再び歩き出す。


 紙を擦るような音が、一瞬だけ耳に残っていた。


 二階の寝室。


 加藤和也は、整った姿でベッドに横たわっていた。


 まるで眠っているようだった。


「誰かが整えたのか。」


「その形跡はありません。」


 枕元にはスマートフォン。


 鑑識員がそれを示す。


「午前二時三分に、大量のメッセージを受信しています。」


「内容は。」


 画面が表示される。


『この家を守って』


 同じ文面が、延々と続いていた。


「送信者は妻の美佐ですが、送信記録がありません。」


「受信だけしている?」


「はい。」


 主任は眉を寄せた。


 同時刻に、数百件。


 説明がつかない。


「前の事件と似ているな。」


「河島涼ですか。」


「ああ。」


 主任は遺体へ視線を戻す。


「死因は。」


「脳の損傷です。前件と酷似しています。」


 三人同時。


 偶然では済まない。


 子ども部屋へ移る。


 美佐は娘を抱き締めたまま、動かなくなっていた。


 強く掴んだ指先だけが、異様だった。


「最後まで守ろうとしたんでしょうか。」


 若い刑事の言葉に、主任は答えない。


 美佐の表情は穏やかだった。


 恐怖の痕跡がない。


「妙ですね。」


 監察医が言う。


「苦痛の反応がほとんどありません。」


 そして、指先を示した。


「爪が割れています。何かを引き剥がそうとしたような傷です。」


 採取されたのは、白い繊維。


 紙のようで、違う。


 主任は袋越しにそれを見る。


 一瞬、黒い線が浮かんだ気がした。


 だが、すぐに消えた。


「主任。」


 若い刑事が壁を指す。


 子ども部屋の壁紙に、文字があった。


《おうちをまもってください》


《いのりをください》


 そして、その下に。


《次の家を探しています》


 黒い文字だけが異質だった。


 表面ではなく、内側から滲み出たように見える。


 主任は手を伸ばしかけて止めた。


 触れてはいけない。


 理由は分からないが、そう感じた。


「写真を撮れ。」


 シャッターが切られる。


 一枚、二枚、三枚。


 四枚目。


 画面が一瞬暗転した。


「……故障?」


 確認する。


 四枚目だけ、違っていた。


《この家を守ってください》


 現実にはない文字。


 さらに。


《祈りが足りません》


 画面の隅に、白い人影が写っていた。


 頭巾を被り、顔のない影が、母子を見下ろしている。


 主任は反射的に振り向く。


 誰もいない。


 再び画面を見ると、影は消えていた。


 文字も元に戻っている。


「今の……見ましたよね。」


 若い刑事の声が震える。


 主任は答えない。


 部屋の空気が、さらに冷えていた。


 壁の奥から、かすかな音がする。


 ざり。


 紙を引きずるような音。


 一度だけ。


 この家は、まだ終わっていなかった。


◇


 東湾県警本部。


 サイバー対策室。


 高峰修一はモニターへ映し出された現場写真を無言で見つめていた。


 子ども部屋。


 壁へ残された三行の文字。


 《おうちをまもってください》


 《いのりをください》


 《次の家を探しています》


 その下には、鑑識から送られてきた撮影データが並んでいる。


 同じ場所。


 同じ構図。


 同じ時間。


 それなのに、一枚だけ内容が違っていた。


 問題の写真を拡大する。


 壁の白い塗装の上に、確かに文字がある。


 だが――


 それは「書かれている」というよりも、壁の奥から滲み出ているように見えた。


 塗料の上ではなく、その下。


 さらに奥。


 壁材の内部から、何かが押し出されるように浮かび上がっている。


 しかも、文字の輪郭は一定ではない。


 見ている間にも、わずかに歪む。


 線が細くなり、太くなり、かすかに揺れる。


 まるで、固定されていない。


 そこに「留まっていない」。


 高峰は無意識に瞬きをした。


 次の瞬間、文字の一部がほんのわずかに位置を変えたように見えた。


 錯覚か。


 そう思ったが、確信が持てない。


「画像処理の痕跡は。」


 高峰が尋ねる。


 隣の技術員が首を横へ振った。


「ありません。」


「改ざんも。」


「検証しましたが、データは正常です。」


「正常な写真に、存在しない文字が写った。」


「……はい。」


 技術員自身も納得していない顔だった。


「撮影機材の故障では。」


「同型機で再現しましたが発生しません。」


「メモリーカード。」


「異常なし。」


 高峰は椅子へ深く腰を掛けた。


 偶然。


 機械的な誤作動。


 ノイズ。


 そう説明しようとしても、材料が足りない。


 それ以上に気になったのは、死亡時刻だった。


 河島涼。


 午前二時過ぎ。


 加藤家。


 三人とも午前二時台に死亡した可能性が高い。


「また二時か。」


 小さく呟く。


 同じ時間。


 同じ脳損傷。


 密室。


 説明不能。


 資料を閉じる。


 高峰は一枚の付箋を貼った。


 そこへ短く書く。


『継続』


 事件は終わっていない。


 そう判断した。


  ◇


 その頃。


 繁華街外れ。


 古びた雑居ビル三階。


 中森安行はノートパソコンの画面を見ながら煙草を灰皿へ押し付けた。


 画面には、警察内部で作成された現場資料。


 もちろん正式な経路ではない。


 いつもの情報屋が、いつものように流してきたものだった。


「相変わらず仕事が早ぇな。」


 苦笑しながら写真を拡大する。


 壁の文字。


 死亡状況。


 監察医の所見。


 全てを一枚ずつ確認していく。


 そして、河島事件の資料を横へ並べた。


「……やっぱりか。」


 共通するのは脳の損傷だけではない。


 残された言葉。


 祈り。


 救済。


 そして。


 “次”を示す痕跡。


 河島の部屋には番号が残った。


 加藤家には次の家を示す言葉が残った。


「呪いが、育ってやがる。」


 中森は低く呟いた。


 同じ呪いではない。


 同じ思想でもない。


 残響は事件のたびに形を変えている。


 一つ目は個人。


 二つ目は家族。


 獲物の単位そのものが変化している。


「面倒な進化しやがる。」


 資料を閉じる。


 今度は別の画面を開く。


 そこには裏市場から入手した《LIST of the Saved》が表示されていた。


 河島の番号。


 加藤家三人の番号。


 全て《EXECUTED》。


 その下には、新しい番号が並んでいる。


 名前は伏せられたまま。


 《No.37》


 《No.38》


 《No.39》


 数字だけが増えていく。


 だが――


 その数字は、ただ表示されているだけではなかった。


 画面の奥で、わずかに「遅れている」。


 スクロールもしていないのに、数字の輪郭が一瞬だけ残像を引く。


 まるで、表示が追いついていない。


 あるいは、別の何かが先に存在していて、それを後から画面がなぞっているような違和感。


 中森は眉をひそめた。


「まだ始まったばかりか。」


 腕を組む。


 今回の残響は、名前を与えられる前から人を選別している。


 番号が先。


 名前は後。


 名簿そのものが生き物のように、対象を探している。


「こりゃ処理屋だけじゃ追い付かねぇ。」


 机の端に置かれた黒い端末を手に取る。


 短く番号を押す。


 呼び出し音は一度だけ鳴った。


『……何。』


 結衣だった。


「仕事だ。」


『場所は。』


「東湾市郊外。」


『種類。』


 中森は一度だけ写真へ目を落とす。


「家だ。」


 少し間を置く。


「家そのものが残響になってる。」


 受話器の向こうで沈黙が流れた。


『……家族は。』


「全滅。」


 短く答える。


 余計な慰めは入れない。


『分かった。』


「今回は厄介だ。」


『いつもでしょ。』


「違う。」


 中森の声が少しだけ低くなる。


「中へ入った瞬間、お前自身が”家族”として取り込まれる。」


 結衣は黙って聞いている。


「守りたいものがあるほど喰われる。」


『私はない。』


「……そうだったな。」


 一瞬だけ空気が止まる。


 中森は話題を戻した。


「現場へ着いたら、すぐ中へ入るな。」


『どうして?』


「残響の癖を見る。」


「侵入口。」


「侵食経路。」


「核。」


「全部確認してから滅せ。」


『了解。』


 返事は短い。


 迷いもない。


「あと一つ。」


『何。』


「後始末はこっちでやる。」


『いつも通り。』


「ああ。」


「お前は滅すことだけ考えろ。」


『分かった。』


 通話が切れる。


 中森はスマートフォンを机へ置いた。


 窓の外は、もう夕暮れだった。


 紫色の空が街を包み始めている。


 静かな部屋で、ノートパソコンだけが淡く光る。


 その画面の隅。


 《LIST of the Saved》が、誰にも触れられていないのにゆっくりと更新された。


 《No.37》


 数字の下へ、黒い文字が滲み始める。


 それは入力されている様子がない。


 カーソルもない。


 キー操作もない。


 それでも、文字は現れる。


 いや――


 現れるというより、「浮かび上がる」。


 画面の奥から、押し出されるように。


 文字列は一度、はっきりと形を取った。


 人名。


 確かに読めるはずの並び。


 だが、その瞬間。


 中森の視界がわずかに歪んだ。


 焦点が合わない。


 読もうとした瞬間だけ、意味が滑り落ちる。


 そして次の瞬間。


 文字は崩れた。


 消えたのではない。


 「なかったことにされた」ように、痕跡ごと消失した。


 画面には再び、ただの番号だけが残る。


 《No.37》


 何も起きていないかのように。


 中森はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。


 やがて、ゆっくりとノートパソコンを閉じる。


「結衣ちゃん。」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


「今度は、お前があの家を終わらせろ。」


 夜が、ゆっくりと街へ降りていった。

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