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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い
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第14話 祈りを欲しがる家 第2章 守るための祈り

 白い法衣は動かない。陽向の肩に黒い指を置いたまま、顔も目もないのに、確かに見られている。


 壁も床も天井も、家そのものがこちらを見ていた。


 逃げ場がない。


 見られているだけで、何かを決められていくような圧迫感が、美佐の胸を締め付ける。


 和也が一歩踏み出した。


「陽向。」


 震える声だった。


 それでも、父としての意志がそこにあった。


 守らなければならない。


 その思いだけで、足を前へ出している。


「帰るぞ。」


 手を伸ばす。


 その瞬間、紙が揺れた。


 触れていないのに浮き上がり、白い紙が腕へ絡みつく。


「っ!」


 軽いはずなのに、異様に重い。


 振り払えない。


 まるで腕そのものが、紙に吸い込まれていくようだった。


「離れろ!」


 和也は力任せに引き千切ろうとする。


 だが裂けない。


 逆に、手首から肘、肩へと這い上がってくる。


 紙の文字が変わった。


《父は家を守る者》


 その一文が、増殖する。


 視界の端から端まで、同じ言葉が埋め尽くしていく。


 和也の呼吸が乱れた。


 だが、怒りだけではなかった。


 その言葉は、彼の中にある「当然」をなぞっていた。


 父として、家族を守るべきだという思い。


 それを否定できない自分がいる。


「ふざけるな!」


 それでも拒絶しようと、壁にぶつかる。


 紙が波打つ。


 その奥から声が響いた。


《守ってください》《家族を》《あなたが》


 耳ではない。


 頭の奥へ直接流れ込む。


 和也の視界が揺れる。


 笑顔の食卓。


 休日の昼下がり。


 運動会で走る陽向。


 誕生日のケーキ。


 旅行先での写真。


 守ってきた時間。


 守りたかった時間。


 それらが一瞬で駆け抜ける。


 そして最後だけが歪む。


 泣いている陽向。


 倒れている美佐。


 崩れた家。


 守れなかった未来。


《守れますか》《あなたなら》《守れます》


 問いではない。


 断定だった。


 和也の中で、何かが静かに崩れる。


 抗う理由が、削られていく。


 守れるなら。


 守れる方法があるなら。


 それを選ばない理由が、見つからない。


 力が抜けた。


「和也!」


 美佐の声が遠く聞こえる。


 だが、和也は振り向かない。


 紙を見つめたまま、小さく呟く。


「……守れる。」


 その声は、決意ではなかった。


 諦めに近い、静かな受け入れだった。


 美佐の背筋が凍る。


 違う。


 これは夫ではない。


 目が合わない。


 文字だけを追っている。


「和也!」


 肩を掴む。


 冷たい。


 生きている温度ではない。


 それでも和也はゆっくり振り向いた。


 穏やかな顔だった。


 恐怖も、焦りもない。


 ただ静かに言う。


「祈ればいい。そうすれば守れる。」


 その言葉に、美佐の胸が強く締め付けられる。


 優しい声だった。


 いつもの夫の声だった。


 だからこそ、違和感が際立つ。


「違う!」


 思わず叫ぶ。


 頬を叩く。


 乾いた音が響く。


 だが、和也は怒らない。


 痛みも感じていないように、ただ微笑む。


 その笑顔が、美佐には何よりも恐ろしかった。


「美佐。陽向を守ろう。」


 正しい言葉。


 間違っていない。


 だからこそ、美佐の中で何かが激しく拒絶する。


「違う……」


 声が震える。


「こんなの、守るじゃない。」


 守るために、何かを差し出す。


 祈ることで、従うことで、守る。


 それは守ることではない。


 奪われることだ。


 美佐ははっきりと理解していた。


 このまま従えば、家族は壊れる。


 形だけ残って、中身が消える。


 だから、拒むしかない。


 その時、陽向が立ち上がった。


 目を閉じたまま、両手を組んでいる。


 祈る姿。


 だが、それは娘の意思ではない。


 操られている。


 美佐の胸が締め付けられる。


 助けなければならない。


 絶対に。


 陽向の足元から紙が広がる。


 床を這い、食卓を回り、和也と美佐の足元へ届く。


《母は家族を導く者》《父は家を支える者》《子は祈りを継ぐ者》


 三人に役割が刻まれる。


 押し付けられる。


 決められる。


 美佐は迷わなかった。


 踏み潰す。


 ぐしゃりと音がする。


 だが紙は潰れない。


 足裏で脈打つ。


 まるで心臓のように。


 それでも、美佐は足をどけない。


 踏み続ける。


 拒絶する。


 この家の決めた役割を、受け入れない。


 その瞬間。


 白い法衣が初めて動いた。


 一歩。


 静かに。


 確実に。


 家族へ近付いた。


 一歩。


 白い法衣が近付く。


 足音はない。


 裾が床を擦る音もない。


 それでも距離だけが、確実に縮まっている。


 家の中を覆う紙が、その動きに合わせて波打った。


 ざり。


 床。


 壁。


 天井。


 同じ音が、同時に鳴る。


 まるで家全体が、白い法衣を迎え入れるために身じろぎしたようだった。


 美佐は陽向の前へ出た。


「来ないで。」


 声が震える。


 足も震えている。


 それでも退かなかった。


 娘を背後へ隠すように両腕を広げる。


「この子に触らないで。」


 白い法衣は止まらない。


 頭巾の奥。


 顔のない暗闇が、美佐へ向く。


 見つめられた瞬間。


 胸の中へ、知らない記憶が流れ込んだ。


 炎。


 焼け落ちる家。


 泣き叫ぶ子ども。


 倒れている男。


 胸の前で手を組み、何かを祈り続ける女。


 言葉は聞き取れない。


 場所も分からない。


 だが。


 守れなかった。


 その感情だけが、痛みとなって美佐の中へ入り込んでくる。


「……っ。」


 膝が揺れる。


 自分の記憶ではない。


 それでも、胸が締め付けられる。


 目の前で陽向を失ったような悲しみが、現実の感覚を伴って押し寄せてくる。


《守れなかった》


 声が響く。


 一人ではない。


 幾つもの声が重なっている。


《祈りが足りなかった》


《捧げるものが足りなかった》


《信じる力が足りなかった》


 美佐は耳を塞いだ。


「違う。」


《守れなかった》


「違う!」


 声を張り上げる。


 だが、家の外へは届かない。


 壁が吸い込む。


 天井が飲み込む。


 声は家の中を巡り、別の言葉へ変わって戻ってきた。


《守れ》


《守れ》


《守れ》


 和也が、美佐の肩を掴んだ。


「祈ろう。」


 穏やかな声。


 手は冷たい。


「それしかない。」


「離して。」


「陽向を守るんだ。」


「離して!」


 美佐は夫の腕を振り払おうとした。


 だが、和也の手は動かない。


 強い。


 筋力ではなかった。


 紙が腕へ巻き付き、夫の身体を内側から支えている。


 何枚もの白い紙が袖口から入り込み、首筋まで這い上がっていた。


 皮膚の下。


 黒い文字のようなものが脈打っている。


「和也、目を覚まして。」


「起きてるよ。」


 夫は微笑んだ。


「やっと分かったんだ。」


「何が。」


「家族を守る方法が。」


 美佐の目から涙が溢れた。


 夫の姿をしている。


 夫の声で話している。


 だが。


 もう、言葉が届かない。


 白い法衣の黒い指が、和也の背中へ伸びる。


 触れる。


 和也の身体が小さく震えた。


 口元の笑みが深くなる。


《父は家を支える者》


 家中へ文字が浮かび上がる。


 床板が盛り上がった。


 白い紙が幾重にも絡まり、和也の両足を包み込む。


 足首。


 膝。


 腰。


 ゆっくりと。


 家へ根を下ろさせるように。


「和也!」


 美佐が腕を引く。


 動かない。


「逃げよう。お願いだから。」


「俺がここにいれば、二人は守られる。」


「誰に言われたの!」


「分かるんだ。」


 和也の目から、涙が流れた。


 表情は穏やかなまま。


 悲しんでいるのか。


 安心しているのか。


 もう判別できない。


「俺が支えれば、家は壊れない。」


 紙が胸元へ達する。


 重なり。


 巻き付き。


 夫の身体を白く覆っていく。


 美佐は紙を引き剥がした。


 一枚。


 また一枚。


 爪が割れる。


 指先から血が滲む。


 それでも止めない。


「返して。」


 剥がしても。


 その下から新しい紙が現れる。


「夫を返して!」


 和也の口が、ゆっくりと動いた。


「守るから。」


 最後まで、優しい声だった。


 次の瞬間。


 紙が顔を覆った。


 鼻。


 口。


 目。


 隙間なく。


 和也の身体が一度だけ大きく震える。


 美佐は紙へ爪を立てた。


「和也!」


 返事はない。


 紙の内側で何かが動く。


 押し出すように。


 一度。


 二度。


 それも、すぐに止まった。


《父の祈りを受領しました》


 壁へ文字が浮かぶ。


 淡々と。


 何の感情もなく。


 夫の命を、物のように数える言葉。


「いや……。」


 美佐の足から力が抜ける。


 床へ膝をつく。


 その隙に。


 陽向が白い法衣へ向かって歩き出した。


「陽向!」


 美佐は振り返る。


 娘の目は開いていた。


 しかし、焦点が合っていない。


 胸の前で手を組み、静かに祈り続けている。


「パパが守ってくれる。」


 陽向が笑う。


「だから、次は私の番。」


「違う。」


 美佐は立ち上がる。


「陽向は何もしなくていい。」


「お祈りを続けるの。」


「しなくていい!」


「しないと、パパが無駄になるよ。」


 その言葉に、美佐の身体が止まった。


 娘が考えた言葉ではない。


 分かっている。


 それでも。


 夫の死を無駄にする。


 その一言が、胸へ刺さった。


《父は捧げました》


《次は子が継いでください》


 紙が陽向の足元へ集まる。


 小さな身体を囲む。


 円を描き。


 逃げ道を塞ぐ。


 美佐は娘へ駆け寄った。


「陽向、ママを見て。」


 両肩を掴む。


「ここから出るの。」


「出たら、家族じゃなくなるよ。」


「そんなことない。」


「パパを置いていくの?」


 美佐は答えられなかった。


 一瞬。


 たった一瞬だった。


 その迷いを、家は見逃さなかった。


 白い紙が美佐の足首へ絡み付く。


 引かれる。


 身体が床へ倒れた。


「ママ。」


 陽向が、悲しそうに美佐を見る。


「どうして祈らないの?」


 美佐は床を這った。


 娘へ手を伸ばす。


「お願い。」


 指先が届かない。


 紙が身体へ巻き付き、後ろへ引き戻していく。


「逃げて。」


 陽向は首を傾げた。


「どこに?」


 美佐の呼吸が止まる。


 外はない。


 窓の向こうは黒い。


 扉は開かない。


 家の中には、祈りの紙しかない。


 陽向の言う通りだった。


 どこにも逃げ場がない。


 それでも。


「ママのところに来て。」


 美佐は手を伸ばし続ける。


「ママが守るから。」


 その言葉を口にした瞬間。


 家全体が、大きく脈打った。


 どくん。


 床が持ち上がる。


 壁が膨らむ。


 天井の紙が一斉に美佐へ向く。


《母は家族を導く者》


 文字が浮かぶ。


《母は家族を守る者》


 別の文章が重なる。


《母は捧げる者》


 美佐は目を見開いた。


 自分の言葉が。


 娘を守るという願いが。


 家に拾われた。


「違う。」


 紙が手首へ巻き付く。


「そういう意味じゃない。」


 腕。


 肩。


 胸。


 白い紙が覆っていく。


《守るために》


「やめて。」


《捧げてください》


「私は――」


《あなたなら守れます》


 陽向が、美佐の目の前へ立った。


 小さな手を伸ばす。


「ママ。」


 娘の指が、美佐の頬へ触れる。


 温かい。


 その温度だけは、いつもの陽向だった。


「怖いよ。」


 娘の目から涙が零れた。


 初めて。


 陽向自身の声だった。


「ママ、助けて。」


 美佐の胸の奥で、何かが壊れた。


 紙を引き千切る。


 腕の皮膚が裂ける。


 血が流れる。


 痛みは感じない。


 娘を抱き寄せる。


「大丈夫。」


 震える身体を、強く抱き締める。


「ママがいるから。」


「おうち、怖い。」


「分かってる。」


「パパは?」


 答えられない。


 美佐は娘の顔を胸へ押し付けた。


 見せないように。


 白い紙に包まれた夫を。


 もう動かなくなった父親を。


「目を閉じて。」


 陽向が美佐へしがみ付く。


「絶対に離さないで。」


「離さない。」


 美佐は白い法衣を見た。


 恐怖は消えていない。


 足も震えている。


 だが。


 娘を渡すつもりはなかった。


「この子は、捧げない。」


 白い法衣の頭が傾く。


《家族を守りたくないのですか》


「守りたい。」


 美佐は答える。


 迷わず。


「だから、あんたには渡さない。」


 紙が止まった。


 一瞬だけ。


 家全体が、沈黙する。


 次の瞬間。


 白い法衣の下から、黒い腕が伸びた。


 一本。


 二本。


 幾十本。


 人のものに似ている。


 だが細すぎる。


 関節が多すぎる。


 腕は美佐と陽向を囲み、巨大な籠のように閉じていく。


《ならば》


 声が重なる。


《永遠に、この家で守ってください》


 黒い指が閉じる。


 美佐は娘を抱き締めた。


 背を丸める。


 自分の身体で包み込む。


 押し潰される。


 胸が軋む。


 骨が悲鳴を上げる。


 呼吸ができない。


 それでも。


 腕だけは緩めなかった。


「ママ……。」


「大丈夫。」


 声が出ない。


 息だけで答える。


「ずっと……一緒?」


 美佐は目を閉じた。


「うん。」


 嘘だった。


 もう何も大丈夫ではない。


 それでも、最後まで娘を怖がらせたくなかった。


「ずっと、一緒。」


 陽向の小さな腕が、美佐の背中へ回る。


 黒い指が完全に閉じた。


 家の中から。


 全ての音が消えた。


 午前二時三分。


 時計の針だけが、その時刻で止まっていた。


 翌朝。


 加藤家の前へ、近所の女性が立っていた。


 陽向が登校班の集合場所へ来なかった。


 美佐へ電話を掛けても出ない。


 玄関の呼び鈴を押す。


 反応はない。


 カーテンは閉じている。


 車もある。


 家族が外出した様子はなかった。


 警察が到着したのは、午前九時を過ぎた頃だった。


 玄関には鍵が掛かっていた。


 窓も全て施錠されている。


 外部から侵入した形跡はない。


 室内へ入った警察官は、最初に異様な静けさへ気付いた。


 生活していた家のはずなのに。


 人の匂いがしない。


 空気が動いていない。


 家具も。


 食器も。


 家族写真も。


 全てが整然と残っている。


 荒らされた形跡はなかった。


 夫の加藤和也は、寝室のベッドで発見された。


 仰向け。


 両手を胸の上で重ねている。


 眠っているような姿だった。


 妻の美佐と娘の陽向は、子ども部屋にいた。


 ベッドの上。


 美佐が陽向を抱き締めるように横たわっている。


 娘の顔は、母親の胸へ隠されていた。


 二人の指は固く絡み合い、死後硬直が始まっても離れなかった。


 外傷はない。


 出血もない。


 争った痕跡もなかった。


 三人とも。


 脳の一部だけが、内側から押し潰されたように損傷していた。


 家の中から、白い紙は一枚も見つからなかった。


 ただ。


 子ども部屋の壁。


 陽向の学習机の横に。


 鉛筆で書かれたような文字が残されていた。


《おうちをまもってください》


 その下。


 別の筆跡で。


《いのりをください》


 最後の一行だけは。


 三人の誰が書いたものでもなかった。


《次の家を探しています》

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