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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い

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第13話「消えない名簿」 その4 神になれなかった救い

 河島涼の住んでいたマンションは、

 事件後すぐに警察によって封鎖されていた。


 夜。

 規制線の外。


 結衣は、ヘルメットを脱いでバイクの横に立った。

 風が髪を揺らす。


 誰もいないはずの夜の住宅街。

 なのに、耳鳴りのような囁きが絶え間なく続いている。


 ——サラバレヨ

 ——ミゼリコルディア

 ——セーヴド


「……うるさい」


 ぽつりと呟き、

 結衣は八咫刃を取り出した。


 祓詞を声に出す必要はない。

 彼女の体系は、ほとんどが“滅殺のための構文”として脳内で完結する。


 黒い刃を軽く振る。


 刃が空気を裂いた瞬間、世界がきしんだ。


 視界が、反転する。


 床が、天井になり、

 廊下が、海のような粘性を持ち、

 壁のクロスが、祭服の布に変わる。


 精神世界。


 ——侵食領域。


 河島の部屋は、

 教会のような、処刑場のような空間へと変質していた。


 天井には逆さ十字架が吊られている。

 壁一面に、見知らぬ言語の祈りの文が血で書かれている。


 中央には、石の台座。


 そこに、見覚えのある姿。


 ——河島涼だ。


 彼はかつてのスーツ姿のまま寝かされている。

 胸の上には、見えない鎖が幾重にも巻かれている。


 鎖は、空中へと伸びていく。


 たどった先に、それはいた。


 白いフード。

 黒い指。

 縫い合わされた顔。


 だが、先ほど河島が見た“何か”とは違う。


 今、そこに立っているのは、

 明確な輪郭を持った「夜叉」だった。


 修道服の下から覗くのは、

 西洋風の甲冑と、

 日本の具足が混じったような装束。


 片手には歪んだ十字架。

 もう片方には、血を吸ったまま黒く固まった数珠。


 顔は、見えない。

 しかしフードの奥から、幾つもの瞳の光だけが覗いている。


『救いを望む者に、救いを』


 全方向から声が降ってくる。


『罪を自覚せぬ者に、裁きを』


 結衣は、肩で息をした。


「……吐き気がする」


『汝もまた、救済対象也』


「私を?」


 結衣は、鼻で笑った。


「私を救うなんて、

 世の中の誰にも出来やしない」


 夜叉が、僅かに首を傾げた。


『信仰なき者よ。

 汝は名簿に記されし者』


「勝手に書いたのはそっちでしょ」


 結衣は、八咫刃を構えた。


 鎖が、蛇のように床を走る。


 夜叉の周囲に、

 黒い光の輪が広がった。


 祈りの構文。

 天草四郎系統の残響で見たパターンと似ている。


 ——ただし、もっと粗い。


 粗雑な、「信じたいだけの祈り」だ。


『救いを……与える』


 夜叉の足元から、

 黒い手が無数に伸びた。


 その一本一本が、人間の腕の名残を持っている。

 消された信徒たちの残滓だ。


 腕が一気に河島へ殺到する。


 胸の鎖を強く引き、

 心臓を圧迫する。


 苦しそうなうめき声が漏れた。


 結衣は走った。


 八咫刃の鎖を振るう。


「《断祈》」


 祓詞の名を、小さく吐く。


 黒い刃が、祈りの腕をまとめて断ち切った。


 切断された黒い腕は悲鳴を上げることもなく、

 霧のように消えていく。


『邪魔を……するな』


 結衣は、夜叉を睨み上げた。


 その目には怒りもある。

 しかし、それ以上に冷静な殺意があった。


「“救い”って言葉、

 人に向けるもんじゃない」


『我らは殉教者。

 信徒を守らんがために、己を捧げし者』


「守れてないじゃん」


 一瞬、空気が止まった。


 夜叉の中で、

 何かがひび割れる音がした。


『……何……?』


「守れなかった信徒の祈りと、

 守るつもりが空回りしたお前の祈り」


 結衣は、八咫刃を握りしめる。


「全部ひっくるめて、

 今ここで“正しさ”の名で人を殺してる」


 それは、

 誰よりもよく知っていることだった。


 兄が、そうやって飲み込まれたから。


「お前は、神になれなかった」


 静かな断言。


「だから苦しいんでしょ」


 夜叉が、暴れた。


 十字架が黒い光を撒き散らし、

 数珠が蛇のようにうねって襲いかかる。


 結衣はそれを迎え撃つ。


 八咫刃の鎖が踊る。

 切断と滅殺の祓詞が、次々と構文を上書きしていく。


 祈りの文章が、

 バラバラの文字列に分解され、

 虚空へと散っていく。


『救いたかった……』


 夜叉の奥から、小さな声がした。


 それは、残響の核。

 名前を持たない、あるバテレン大名の、最後の祈り。


 信徒を守れなかった悔恨。

 自分の死が無駄になったという絶望。


 それが、

 今も「誰かを救いたい」と暴れ続けている。


「……うるさい」


 結衣は、刃を振りかぶった。


「私は、

 颯を救えなかった」


 一瞬、声が震えた。


 涙は出ない。

 出し切ってしまったから。


「だから、

 全部殺す」


 その宣言は、祈りではなかった。


 ただの暴力でもなかった。


 ——滅殺者としての、

 祓いの形だった。


「……《零域》」


 最後の祓詞が、小さく、しかし深く響いた。


 八咫刃を中心に、

 黒い“空白”が広がり夜叉の胸を貫く。


 白いフードが裂け、

 中から溢れ出した顔たちが静かに霧散していく。


 祈りも、赦しも、救いも。


 全部。


 ——精神世界の教会が、崩れた。

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