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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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第10話「声を喰う獅子」 その1 音のない拍子

 最初に違和感を覚えたのは、拍子の「()」だった。


 稽古場の床板は、乾いた音でよく響く。

 足拍子を踏めば、木霊が返ってくるはずだ。


 だがその日、反響がなかった。


(あれ……?)


 若手舞手の**津村隼人つむらはやと**は、一瞬だけ動きを止めた。

 師範は気づいていない。

 周囲の弟子も、いつも通りの表情で稽古を続けている。


(……俺の耳、どうかしたのか?)


 舞台の中心で静止したまま、隼人は呼吸を整えた。

 拍子を踏む。

 ──音がしない。


 床は確かに叩いている。

 振動は感じる。

 だが、音がどこにも届かない。


 耳鳴りすらしない。

 世界が“音という情報”を忘れたように沈黙している。


 隼人の背筋が冷えた。


「……師範? すみません、耳が少し──」


 声を出した瞬間、胸がざわりと揺れた。


 返事が返ってこない。


 いや、違う。


 自分の声が空気に溶けていく。


 まるで最初から、声帯が音を発していないみたいだった。


(……嘘だろ)


 声は出した。

 喉も震えた。

 息も吐いた。


 なのに、音だけが世界から弾き飛ばされている。


 焦りを隠しながら再び声を出そうとした瞬間──

 舞台の奥から、コン……コン…… と一定の間で何かが歩く音がした。


(誰だ……?)


 稽古場には、自分と師範と弟子が数名。

 奥のふすまは閉じている。

 廊下に続く扉も誰も通っていない。


 それなのに、


 コン……コン……コン……


 拍子のような、

 祈るような、

 けれどどこか“笑っている”足音。


 隼人は師範を振り返る。


 その瞬間、師範の顔が消えた。


 正確には──

 “顔の輪郭だけがぼやけて、認識できなくなった”。


 目のあたりが霞み、口元が揺らぎ、

 誰なのか判別できなくなる。


(見えてるのに、見えない……?)


 師範が何かを言っているように口は動いている。

 けれど、やはり声がない。


 隼人は震える手で耳をふさいだ。

 意味はないと分かっていながら、やめられなかった。


(聞こえないんじゃない……

 音そのものが消えてるんだ……!)


 その瞬間、舞台の照明がふっと揺れ、

 隼人の視界の端に“獣の影”が現れた。


 四つ足。

 長いたてがみ

 そして、こちらをじっと覗き込む大きな眼。


(獅子……?)


 能舞台で使う獅子頭。

 けれど、その影は明らかに“生きている”。


 影が近づくと、隼人の胸に奇妙な感覚が生まれた。

 息を吸うたびに、肺が空洞になっていくような、

 自分の中身が少しずつ抜けていくような感覚。


(やめろ……やめてくれ……!)


 声を出したい。

 助けを呼びたい。

 なのに、音がない。


 獅子の影が、ゆっくりと口を開いた。


 そこは真っ暗だった。

 黒い空洞。

 飲み込むための穴。


 影が囁く。


 音ではなく、意識に直接。


『……おまえの“声”を……あずかる……』


 胸の奥がずるりとえぐられる。

 声帯が、音を発する役割を忘れていく。


(だめだ……だめだ、だめだ──!)


 脚の感覚が崩れ落ち、膝が床についた。

 師範の手が肩に触れたような気がする。

 しかし、やはり声が聞こえない。


 代わりに──


 舞台の奥から、パァン……ッ! と拍子木の音だけが響いた。


 その音は鮮烈で、恐ろしく、

 まるで誰かが舞台の主役の“登場”を告げるようだった。


 同時に、隼人の喉から音が完全に消えた。


(……声が……ない)


 叫んだつもりの口から、何も出ない。


 獅子の影は満足げに揺れ、

 ゆっくりと舞台の奥へ姿を消していく。


 最後に残ったのは、

 隼人自身の“足拍子の音”。


 ──いや、それはもう彼のものではなかった。


 影が刻む拍子。

 そのリズムだけが、虚ろな身体を操っている。


(やめろ……俺の……俺の体だ……!)


 心の叫びも、

 もう世界には届かない。


 稽古場の沈黙が深まり、

 隼人の存在感は、光が消えるように薄れていった。

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