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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている
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第10話 音を喰うもの 第1章 音の消えた舞台

 最初に違和感を覚えたのは、拍子の「間」だった。


 静寂ではない。


 音が止んだわけでもない。


 もっと根本的な何かが、舞台から抜け落ちていた。


 若手能楽師・津村隼人は、いつものように稽古場の中央へ立った。


 築五十年を超える能楽堂。


 磨き込まれた檜の舞台。


 鏡板には松が描かれ、朝日を受けて柔らかな光を返している。


 柱の配置。


 橋掛かり。


 揚幕。


 どれも幼い頃から見続けてきた景色だった。


 この場所では、目を閉じていても歩ける。


 足裏だけで舞台の位置が分かるほど、身体に染みついていた。


「それでは始めます。」


 師範の声が響く。


 弟子たちが一斉に頭を下げる。


 隼人も静かに礼を返した。


 今日の演目は《石橋》。


 獅子が舞うことで知られる演目だった。


 隼人は橋掛かりへ歩み、ゆっくりと最初の足拍子を踏む。


 タン──。


 そう聞こえるはずだった。


(……あれ?)


 何も聞こえない。


 床は確かに踏んだ。


 足裏には木の硬さが伝わっている。


 わずかな振動もある。


 それなのに。


 音だけが存在しなかった。


 隼人はもう一度、足を踏み下ろした。


 今度は少し強く。


 それでも何も聞こえない。


 師範は気付かない。


 他の弟子たちも変わらず稽古を続けている。


(俺だけ……?)


 耳の奥を押さえてみる。


 耳鳴りはない。


 痛みもない。


 遠くを走る車の音も聞こえている。


 窓の外で鳴く鳥の声も聞こえる。


 なのに。


 自分が踏む足拍子だけが消えていた。


(疲れてるのか……)


 大学を卒業して一年。


 昼は会社員。


 夜は稽古。


 休日は舞台。


 眠る時間を削る生活が続いている。


 疲労で感覚がおかしくなっても不思議ではない。


 そう自分に言い聞かせ、舞を続けようとした。


「津村。」


 師範が声を掛ける。


「今日は踏み込みが浅い。」


「もっと床を感じろ。」


「はい。」


 返事をした。


 その瞬間だった。


 隼人の胸がざわりと震えた。


(……今。)


(俺、返事したよな?)


 口は動いた。


 喉も震えた。


 息も吐いた。


 だが。


 自分の返事だけが聞こえなかった。


 慌てて口を押さえる。


「す……」


 もう一度声を出す。


「すみません。」


 何も聞こえない。


 師範は普通に頷いている。


 返事は届いているらしい。


 いや。


 本当に届いているのか。


 隼人には、それすら分からなかった。


 嫌な汗が背中を流れる。


 心臓だけが妙に大きく脈打っている。


(何だ……これ。)


(耳じゃない。)


(音だけが……。)


 その時だった。


 舞台の奥。


 閉じられた揚幕の向こうから。


 コン。


 誰かが足拍子を踏んだ。


 その音だけは、はっきりと聞こえた。


 コン。


 コン。


 一定の間隔。


 正確すぎる拍子。


 師範も弟子も誰も反応しない。


 まるで。


 隼人にしか聞こえていない。


(誰かいる。)


 舞台袖へ目を向ける。


 誰もいない。


 もう一度。


 コン。


 胸の鼓動と重なるように響く。


 コン。


 コン。


 その拍子に合わせるように。


 舞台の空気が、ゆっくりと冷えていった。


 隼人は無意識に橋掛かりへ目を向ける。


 誰もいないはずの場所。


 そこへ。


 黒い影が立っていた。


 人ではない。


 獣でもない。


 長く波打つ鬣。


 大きく裂けた口。


 黄金色に鈍く光る双眸。


 それは能面の獅子を思わせながらも、生き物のように静かに呼吸していた。


 影は動かない。


 ただ。


 じっと隼人だけを見つめている。


(……何だ。)


(あれは。)


 助けを求めようと師範を見る。


 師範は変わらず型を見せている。


 誰一人。


 あの影に気付いていない。


 影がゆっくりと首を傾けた。


 そして。


 静かに口を開く。


 そこには牙も舌もなかった。


 ただ。


 底の見えない暗闇だけが広がっていた。


 音はない。


 それなのに。


 意味だけが、隼人の胸へ直接流れ込んでくる。


《……よい声だ。》


《その声……預かろう。》


 喉の奥が、ひどく冷えた。


 声を出そうとする。


 息はある。


 喉も動く。


 だが。


 何かが。


 自分の中から、ゆっくりと抜き取られていく感覚だけが残っていた。


 獅子が、一歩踏み出した。


 姿は変わらない。


 歩幅も大きくない。


 それなのに、舞台全体がわずかに沈んだ。


 目には見えない圧力が、隼人の全身へ覆い被さる。


 肺が潰れる。


 膝が笑う。


 身体が、本能的に跪こうとした。


(駄目だ。)


(見ちゃいけない。)


 そう思うほど、視線は獅子から離れない。


 黄金色の双眸だけが、ゆっくりと近づいてくる。


 その瞳には怒りも殺意もない。


 あるのは。


 舞台へ立つ役者を見る、演出家のような冷たい視線だった。


 《響け。》


 《もっと響け。》


 《その声を聞かせよ。》


 意味だけが流れ込む。


 隼人は叫ぼうとした。


 助けを呼びたかった。


 師範。


 誰でもいい。


 この異常を止めてほしかった。


 だが。


 喉は震えるだけだった。


 音にならない。


 一文字も。


 一音も。


 世界へ届かない。


 その時だった。


 師範が突然、喉を押さえた。


 何かを叫んでいる。


 目を見開き。


 口を大きく開け。


 苦しそうに息を吐いている。


 しかし。


 何も聞こえない。


 隣にいた弟子も同じだった。


 女性の弟子が涙を流しながら口を動かしている。


 年配の門下生も何かを訴えている。


 誰もが声を失っていた。


(俺だけじゃ……ない。)


 獅子は静かに舞った。


 能の舞のように。


 ゆっくり。


 美しく。


 一歩。


 また一歩。


 踏み込むたびに。


 部屋から音が消えていく。


 照明の微かな唸り。


 空調。


 時計。


 衣擦れ。


 全部。


 何も聞こえない。


 静かではない。


 “無”だった。


 世界から音という概念だけが削り取られていく。


 やがて。


 師範の姿が揺れ始めた。


 輪郭がぼやける。


 顔が霞む。


 弟子たちも同じだった。


 存在している。


 見えている。


 それなのに。


 誰なのか思い出せない。


(違う。)


(声だけじゃない。)


(存在まで……。)


 獅子の口が、ゆっくりと開く。


 その暗闇の奥から。


 誰かの声が漏れた。


 いや。


 声ではない。


 “奪われた声の記憶”だった。


 『……助けて。』


 『聞こえて。』


 『私はここにいる。』


 『忘れないで。』


 無数の願いが重なり。


 次の瞬間。


 全てが飲み込まれた。


 獅子は満足そうに首を持ち上げる。


 《よい。》


 《まだ喰える。》


 《もっと集めよう。》


 《芸を極める者ほど、美しい。》


 その言葉と同時に。


 隼人の視界が大きく揺れた。


 能舞台が遠ざかる。


 師範が倒れる。


 弟子たちも次々に崩れ落ちる。


 誰も悲鳴を上げない。


 上げられない。


 静まり返った能楽堂には。


 ただ一つ。


 獅子だけが舞い続けていた。


 その舞は美しかった。


 だからこそ。


 恐ろしかった。


 やがて。


 誰かが非常ベルを押した。


 赤色灯が回り始める。


 警報装置も作動している。


 そのはずだった。


 しかし。


 建物の中には。


 ただ一つの音すら存在しなかった。


 駆けつけた職員は。


 口を開けたまま倒れる門下生たちを見て凍りつく。


 救急隊員は何かを叫ぶ。


 消防隊員は無線へ向かって報告している。


 だが。


 誰一人として。


 自分の声を聞くことができなかった。


 その日。


 市内の能楽堂で発生した原因不明の集団失声事件は。


 消防から県警へ。


 そして県警本部の高峰修一のもとへ届けられることになる。


 まだ誰も知らない。


 これは。


 声を奪う事件ではない。


 世界から。


 “音”という概念そのものを喰らう残響が、目を覚ましたことを。

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