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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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第9話「眠りを奪う回廊」 その3 焦げ跡の廊と眠りを奪う意志

 病院に近づくにつれ、空気が重くなるのを感じた。

 春の夜気は本来もっと軽いはずなのに、何かが混ざっている。

 “熱”だ。

 ただの温度ではない。

 意識に貼りつくような、古い時代の息づかいを孕んだ熱。


(……もうここまで広がっているんですね)


 マスクを直しながら、正面玄関を抜ける。

 白い照明の光が妙に鈍く、廊下の距離感が曖昧だ。

 明るいのに暗い。

 光っているのに影が濃い。


(この感じ……あの時と同じ。

 違うのは、規模。あのときは一人の部屋だった。

 今回は……病院全体が飲まれている)


 呼吸を整えながら、足を進めた。


 すれ違う看護師の視線が落ち着きなく揺れている。

 おそらく、彼らも“何か”を感じている。

 だが目で見えるものではない。

 残響が空間に干渉すると、まず空気が濁る。


 その気配が、すでに廊下全体に満ちていた。


(高峰さん、どこまで見えているんでしょう……)


 胸の奥に、言いようのない不安が滲む。


 祓屋として動くようになってから、異常現象の現場には何度も立ち会った。

 けれど──今回の“熱”は異様だった。


(……強すぎる。

 普通の残響じゃ、こんな規模の干渉は起きません)


 スマホが震えた。

 画面には“高峰”の文字。


「真名井か。どこだ」


「今、病院に入りました。三階の隔離棟ですね?」


「ああ。……気をつけろ。さっきまで“いた”」


 声がわずかに低く震えていた。


 普段、どれだけ異常現象に直面しても声色を崩さない男だ。

 その彼が震えるということは──


「分かりました。すぐ向かいます」


 通話を切り、早足で廊下を進んだ。


 エレベーターの扉が開く瞬間、胸のあたりがひゅっと冷える。


 何かが、エレベーターの奥に立っている気がした。

 だが、影はない。

 いるのは自分だけ。


(……幻視?

 いいえ、これは“予兆”です)


 ボタンを押し、扉が閉まる。


 息を整えながら、ポケットに入れた中森の“新しい武器”を手で触れた。

 冷たく、重い。

 呪符というより、兵器に近い。

 量子暗号札に、熱耐性の祓詞層が重ねてある。


(これだけの準備……中森さん、どこまで知っているんですか)


 問いを胸に押し込んだまま、扉が開いた。


 三階。


 その瞬間、空気が変わった。

 まるでサウナを逆に通り抜けたように、熱の気配が皮膚にまとわりつく。


(……ここに“いる”)


 すぐに分かった。


 気配は濃い。

 重く、古く、意志が強すぎる。


 廊下を進むと、壁紙の一角だけが黒く焦げていた。

 触れれば危険だと本能が告げるほどの異常な黒。


 ベッドのある部屋の前に、高峰が立っていた。


「真名井」


 その声に、ほんの少しだけ疲れが混じっていた。


「お疲れさまです、高峰さん。……だいぶ、来てますね」


「ああ。さっきまで“回廊”の影が出ていた。

 お前にも見えるはずだ」


 彼の視線が壁の黒痕を指す。


「すぐ調べます。中に入っても?」


「構わん。患者は眠ってる。医者は異常なしと言っているが……

 俺には、あいつがまだ“ここにいる”ように思える」


「分かります。気配が残ってますから」


 高峰が短く息を呑んだ。


 梓はそっとドアを開ける。


 村田悠希がベッドに横たわっていた。

 酸素マスク。

 血色が悪い。

 肩には、黒く指の形をした痕。


(……ひどい。

 残響に肩まで触れられて、この程度で済んだのは奇跡ですよ)


 すぐに八鍵を取り出し、空間の“乱れ”を探る。

 八鍵の表面に刻まれた祓詞層が淡く反応する。


 空気が震え、微細な温度変化が発生する。

 波形が乱れている。

 患者の精神領域と、この部屋の空間に、“焼けた回廊”が重なった痕跡がある。


(……深い。

 これは、完全な侵食型……しかも、熱属性……?

 本来の残響は、こんな広範囲を一度に侵食しません)


 ベッド脇で、患者の指が微かに動いた。


 梓は小声で祓詞を唱え、精神負荷を軽減させる。


「……安心してください。もう触れさせませんから」


 その瞬間。


 空気がひりついた。


 病室の壁紙が、静かに揺れた。


 黒い影が、ゆっくりと浮かび上がる。


 焦げた木の模様──

 天井の梁──

 長い板張りの床──

 その奥に、揺らぐ影の気配。


(……来た)


 八鍵を握る手に力が入る。


 高峰が短く問う。


「見えるか?」


「はい。まだ完全には現れてませんけど、すぐに出ます」


「……出る、か」


「この残響は、現実に姿を出す寸前です。

 九十人の被害者、全員に触れてるはずです。

 ここまで規模の大きい残響は……初めて見ます」


 高峰は無言で頷いた。


 壁の焦げ跡が広がる。

 回廊の影が形を成していく。

 焼けた梁の匂いが、現実の空気に混ざる。


(この圧……信じられないほど強い)


 そこへ──


 スマホが震えた。


 画面に『中森さん』。


 通話に出る。


『着いたか。状況は?』


「回廊が出ています。

 患者の精神領域にも深く侵入してます。

 これ……相当なものですよ」


『だろうな。

 “熱属性”って時点で嫌な予感はしてた。

 歴史の深いところから引っ張られてる。

 相当にしつこいぞ、そいつは』


「分かってます。やります」


『言っとくが、今回のはマジで危険だぞ。

 八鍵も札も強化したが……お前の祓詞が届くかどうかは半々だ』


「半々でもやるしかありません」


『……まぁ、その言い方が梓らしいわ』


 通話が切れた。


 壁の影が、ついに“人型”を成しはじめる。


 高峰が息を呑む。


「真名井……これ、いけるのか」


「高峰さん」


 梓は振り返った。


「……怖いですけど、やるしかありません。

 このままだと、もっと人が死にます」


 高峰は黙って頷いた。

 その瞳には、言葉以上の信頼があった。


 八鍵の祓詞層が、赤く脈打つ残響に反応し始める。


(……強い。

 でも、負けません。

 “焼ける回廊の主”──あなたの正体、必ず暴きます)


 影が動いた。


 壁が、ゆっくりと割れるように開き、

 焦げた回廊が姿を現しはじめた。


 焼け落ちた天井。

 赤い光の脈動。

 人型の影。


 その胸で、真紅の炎がゆっくりと脈打つ。


 梓は息を整え、八鍵を構えた。


「高峰さん。……ここから先は、私がやります。

 守っててください」


「分かった。後ろは任せろ」


(……あなたの正体。見せてもらいます)


 回廊の奥から、“何か”が一歩、踏み出した。


 焼けた木が軋み、病室の空気が悲鳴を上げた。

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