第9話 眠れないもの 第2章 蝕まれるもの
眠れない夜が、一日で終わることはなかった。
二日目。
三日目。
四日目。
村田悠希は、まともな睡眠を一度も取れないまま大学へ通っていた。
瞼は重い。
頭は霞む。
それなのに、眠ろうとすると、あの回廊が現れる。
焼け焦げた柱。
煤に覆われた天井。
ぎり、ぎり、と近づいてくる足音。
そして、胸を焼く赤い炎。
眠気はある。
だが、眠りへ落ちる寸前で、熱が意識を引き戻す。
まるで誰かが、眠ることを許していないようだった。
鏡を見るたび、顔色は悪くなっていく。
目の下の隈は日に日に濃くなり、頬はこけ、肌は血の気を失っていた。
研究室でも同じような顔をした学生が増えていた。
誰もが疲れ切っている。
誰もが眠そうなのに、眠れていない。
そんな異様な空気が、大学全体へ静かに広がっていた。
昼休み。
研究室のテレビから、臨時ニュースが流れる。
『全国で確認されている原因不明の不眠症について、新たな発表です。』
画面には記者会見場が映し出される。
『厚生労働省は、本日午前九時現在、同様の症状を訴える患者が百二十七名に達したと発表しました。』
研究室が静まり返る。
『患者は共通して、強い不眠、幻覚、幻聴、胸部の灼熱感を訴えており、一部には精神錯乱を伴う重篤な症例も確認されています。』
画面が切り替わる。
病院へ搬送される患者。
救急車。
規制線。
疲れ切った医療関係者。
どれも見慣れたニュース映像だった。
しかし、次の一言で空気が凍った。
『また、本症状との関連は不明とされていますが、現在までに十六名が自殺していることも明らかになりました。』
誰も声を出さない。
記者が質問する。
『自殺との因果関係は認められるのでしょうか。』
壇上の医師が苦しそうな表情で答えた。
『断定はできません。ただ、多くの患者が共通して「眠りたい」「少しでいいから眠らせてほしい」と繰り返していたことは確認されています。』
別の映像へ切り替わる。
病院の看護師が匿名で証言していた。
『患者さんの中には、「死ねば眠れる」と泣きながら繰り返す方もいました。』
『眠ることができない苦しみは、私たちの想像を超えています。』
テレビが消される。
誰もリモコンを操作したとは気付かなかった。
教授代理の講師が、小さく呟く。
「……今日は研究を中止しよう。」
その声にも、疲労が滲んでいた。
悠希は黙って席へ戻る。
スマートフォンを取り出した。
無意識だった。
SNSを開く。
検索欄へ入力する。
『勝者ノ間』
やはり検索結果は表示されない。
だが、関連動画だけは増え続けている。
『司法試験合格』
『第一志望内定』
『営業成績全国一位』
『オーディション合格』
『選挙当選』
成功報告だけが流れてくる。
その動画の投稿者は、数日後には更新が止まっていた。
悠希は気になって、一人の投稿者を調べた。
更新は四日前で止まっている。
コメント欄には、新しい書き込みだけが増えていた。
『ニュースで亡くなったって見た……』
『本当に自殺だったの?』
『眠れなかったって家族が言ってる』
悠希の喉が小さく鳴る。
(……まさか。)
別の投稿者を開く。
更新停止。
さらに別の投稿者。
更新停止。
コメント欄には、同じような言葉が並んでいた。
『急に配信しなくなった』
『入院したらしい』
『亡くなったって本当?』
悠希の指先が震える。
胸の奥の熱が、ゆっくりと強くなっていく。
どくん。
どくん。
心臓の鼓動に合わせるように。
耳元で、あの軋む音が聞こえた気がした。
ぎり……
ぎり……
ぎり……
研究室の床ではない。
あの焼けた回廊の床板が、誰かを乗せて軋む音だった。
悠希はゆっくりと顔を上げる。
研究室の廊下。
誰もいないはずの先。
一瞬だけ。
黒く焦げた木の柱が見えた。
瞬きをすると、それは消えていた。
「……始まってる。」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
胸の熱だけが、その言葉へ静かに応えていた。
◇
東湾県警本部。
サイバー対策室の空気は、昼を過ぎても張り詰めたままだった。
大型モニターには、SNSの投稿が次々と流れている。
『勝者ノ間で第一志望合格』
『営業一位になれた』
『ライバルが突然辞退』
『本当に勝てた』
成功談ばかりだった。
だが、その投稿者の多くは、数日後には更新が止まっている。
高峰修一は腕を組んだまま、無言で画面を見つめていた。
「投稿者の現在は。」
低い声で尋ねる。
若い捜査員がキーボードを叩きながら答えた。
「百二十七件確認しています。」
「そのうち継続して投稿しているのは三十八件。」
「残りは更新停止です。」
「更新停止の理由は。」
「入院、失踪、死亡が大半です。」
室内が静まり返る。
「死亡者は。」
「現在確認できているだけで十六名です。」
「全員、自殺になります。」
「理由は。」
捜査員は言葉を選ぶように資料をめくる。
「遺書はありません。」
「ですが、家族や同僚への聞き取りでは、全員が同じ言葉を口にしていました。」
「何と言っていた。」
「……『眠りたい』です。」
高峰は目を閉じた。
事故でもない。
通り魔でもない。
誰かに追われた形跡もない。
それなのに、眠るためだけに命を絶っている。
(普通じゃない。)
別の捜査員が口を開く。
「被害者全員に共通点があります。」
「言え。」
「全員、『勝者ノ間』へアクセスしています。」
高峰はモニターへ目を向けた。
黒い画面。
赤い文字。
『勝者ノ間』
それだけのサイト。
「サイトの運営元は。」
「不明です。」
「サーバー。」
「ありません。」
「ドメイン。」
「存在しません。」
「アクセスログ。」
「取得できません。」
「履歴。」
「閲覧後すべて消えます。」
「ブラウザキャッシュ。」
「残りません。」
「通信記録。」
「途中で切断されています。」
一人の刑事が呆れたように笑った。
「幽霊サイトですね。」
誰も笑わなかった。
高峰だけが画面を見続ける。
(こんなものが存在するはずがない。)
サイトは必ずどこかのサーバーへ存在する。
通信は必ず経路を残す。
それがネットワークだ。
それなのに、このサイトだけは何一つ残っていない。
残るのは。
アクセスした事実だけ。
そして。
勝利。
不眠。
発狂。
自殺。
高峰はホワイトボードへ四つの単語を書いた。
勝利。
不眠。
錯乱。
死亡。
しばらく眺めたあと、小さく呟く。
「順番だ。」
若い刑事が振り返る。
「警部補?」
「この事件には順番がある。」
ホワイトボードへ一本の線を書く。
「サイトを見る。」
「勝つ。」
「眠れなくなる。」
「精神が壊れる。」
「そして死ぬ。」
「全部、この順番だ。」
誰も反論できない。
「つまり。」
「勝者ノ間が入口ですか。」
「断定はしない。」
高峰は静かに首を振る。
「だが、関連性は濃厚だ。」
その時だった。
大型モニターの一台が、一瞬だけ赤く点滅した。
全員が顔を上げる。
すぐに元へ戻る。
「今の見たか。」
「はい。」
「ログ。」
「異常ありません。」
「映像記録。」
「残ってません。」
「またか……。」
室内へ重い沈黙が落ちる。
高峰はしばらくモニターを見つめたまま動かなかった。
そして静かにホワイトボードの「死亡」という文字を見つめる。
「……くそ。」
小さく吐き捨てる。
その呟きを聞いた者はいなかった。
高峰は静かに椅子から立ち上がった。
サイバー犯罪。
電子工作。
ランサムウェア。
国家レベルのサイバー攻撃。
これまで数え切れない事件を見てきた。
だが、今回だけは違う。
パソコンを解析しても痕跡は残らない。
通信経路も存在しない。
アクセス履歴も消える。
サイトそのものが、この世に存在していない。
それなのに、被害者だけが増え続けている。
(……これは俺たちの領分じゃない。)
高峰はホワイトボードへ書かれた文字を見つめた。
勝利。
不眠。
錯乱。
自殺。
その四つを一本の線で結び、最後に小さく書き加える。
原因 不明
その文字を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……認めるしかないか。」
近くにいた若い刑事が振り向く。
「何をですか。」
「普通の事件じゃない。」
高峰は静かに答えた。
「俺たち警察が扱える事件なら、必ず証拠が残る。」
「通信も。」
「データも。」
「人間も。」
「必ず何かを残す。」
一拍置く。
「だが今回だけは、何も残らない。」
若い刑事は黙った。
高峰は苦笑する。
「昔の俺なら笑ってたよ。」
「オカルトだってな。」
「だが……。」
視線が自然と窓の外へ向く。
「団地消失事件。」
「名前を焼く事件。」
「声を奪われた事件。」
「祈りを書き換えられた事件。」
「あれを見た今なら分かる。」
「世の中には、理屈だけじゃ説明できないものがある。」
室内は静まり返っていた。
「警部補……。」
「この件、どう処理するんですか。」
高峰は頷く。
「ああ。」
「あいつの案件だ。」
「俺が相手をする事件じゃない。」
「俺は入り口までしか追えない。」
「その先は……。」
誰も続きを言わなかった。
高峰はスマートフォンを取り出す。
連絡先の一番上。
真名井梓。
少しだけ指が止まる。
(また、お前を危険な場所へ連れて行くのか。)
その思いが胸を過ぎる。
だが、十六人が死んでいる。
今も百人以上が眠れないまま苦しんでいる。
迷っている時間はない。
通話ボタンを押した。
呼び出し音は一回だけだった。
『高峰さん。』
落ち着いた声。
それだけで少し肩の力が抜ける。
「悪い、仕事だ。」
『事件ですね。』
「ああ、かなりまずい。」
一瞬だけ沈黙が流れる。
高峰は資料へ目を落とした。
「原因不明の集団不眠。」
「被害者百二十七名。」
「死者十六名。」
「全員、自殺。」
『……。』
「共通点は一つだけ。」
「全員、『勝者ノ間』というサイトへアクセスしている。」
『勝者ノ間……。』
梓の声色が少しだけ変わる。
考え始めた時の声だった。
「サイトは存在しない。」
「サーバーもない。」
「通信経路もない。」
「アクセス履歴も残らない。」
「だが、願いだけは叶う。」
「その後。」
「眠れなくなる。」
電話の向こうで、小さく息を呑む音が聞こえた。
『……そういう類いのものですね。』
迷いのない一言だった。
高峰は目を閉じる。
「俺もそう思う。」
「だから。」
「来てくれ。」
「これ以上、死人を増やしたくない。」
数秒の沈黙。
そして。
『分かりました。』
『すぐ向かいます。』
その返事だけで十分だった。
通話が切れる。
高峰は静かにスマートフォンをしまう。
「ここから先は。」
「俺たちは、あいつを支える。」
「それしかできない。」
そう言った高峰の視線は、再びモニターへ向いた。
画面には、新しい投稿が表示されていた。
『勝者ノ間のおかげで第一志望合格!』
投稿時刻。
五分前。
高峰は拳を強く握り締める。
「……急げ。」
「次の被害者が出る。」




