第9話「眠りを奪う回廊」 その1 燃える廊下に囚われる夜
眠れない夜なんて、珍しくもないはずだった。
大学院生の村田悠希は、いつも通り、研究室から終電で戻ってきて、簡単なインスタントを胃に流し込んでからシャワーを浴び、いつも通りベッドに潜り込んだ。
そこまでは、何もおかしくなかった。
異変は、目を閉じた瞬間に来た。
胸の奥が、焼けるように熱くなったのだ。
(……え?)
心臓あたりがじりじりと焼けていく。
胸焼けとも違う。運動した後の火照りとも違う。
もっと重く、古い熱が、内側から押し広げてくるような感覚だった。
思わず瞼を開けると、部屋が薄く赤く染まっていた。
照明は消している。
カーテンも閉めてある。
なのに、空気の層が、うっすらと火の粉を含んだように赤く揺れている。
(気のせいだ。寝不足なだけだ)
そう言い聞かせて、もう一度目を閉じる。
暗闇の向こうに、何かが立ち上がった。
黒い梁。
煤に焼けた天井。
細長い廊下が、遠くまで伸びている。
古い木造の回廊だった。
(……どこだよ、ここ)
見覚えはない。
観光地の寺でも神社でもない。
けれど、見ているうちに、なぜか“懐かしい”という感覚だけが滲み出してくる。
ぎ……り……ぎ……り……
板が軋む音が、回廊の奥から近づいてくる。
この音だけで、心臓の鼓動が乱れた。
(来るな……)
自分でも驚くほどはっきりとした拒絶の感情が浮かぶ。
理由は分からない。
ただ本能が、「見てはいけない」と全力で警告していた。
回廊の奥に、影が立っていた。
人型。
しかし輪郭は炎に炙られたように揺らぎ、その顔の部分は真っ黒な穴のようだった。
ただひとつ、胸の中央だけが、赤く燃えている。
その赤が、どくん、どくんと、脈を打つたびに、
悠希の心臓が同じリズムで跳ねる。
(……まずい)
飛び起きて、上体を起こした。
部屋は静まり返っている。
赤い光も消え、いつものワンルームだ。
しかし胸の熱だけは残っていた。
それが、“ただの夢じゃない”ことを告げていた。
翌日から、眠りは急速に遠のいていった。
目を閉じると、すぐにあの回廊が現れる。
影の姿は、少しずつ輪郭を増していく。
古い衣。
長い裾。
重そうな冠のようなもの。
平安時代の貴族を雑に塗りつぶしたような姿だ、と思った。
しかしそんなことを考えた瞬間、
影の胸の赤がじわりと強く光り、胸の痛みが増した。
(……考えるなってか)
鼻で笑おうとしたが、笑えなかった。
三日眠れないと、人は思考のほとんどを疑いはじめる。
何が現実で、何が幻覚か。
ふと目に映ったものが、本当にそこにあるのか。
信じられるのは、痛みと、熱だけになっていく。
スマホでニュースを開くと、似た症状の記事が出ていた。
「連続する『不眠発狂』事案 原因不明の精神症状か」
記事には、ぼかされた統計だけが載っている。
短期間に、九十名近く。
直接の死因は心不全、自殺、事故死とバラバラだが、その前に全員、「眠れない」「燃える回廊が見える」と訴えていたという。
医師はストレスや過労と説明している。
精神科医は統合失調症の集団的誘発を疑っている。
ネットでは、チープなホラーまとめが乱立していた。
(全部、外してる)
悠希には分かる。
あれは、ただの心の病ではない。
だって、自分が今まさに、**“外側から踏み込んでくる何かに焼かれている”**のだから。
四日目。
鏡に映る自分の顔が、ほんの一瞬、別人に見えた。
頬が痩け、目の下が真っ黒に落ち窪み、瞳孔が異様に開いている。
その状態で、鏡の中の自分の口元だけが、緩く笑った。
鏡から目を逸らした瞬間、確信した。
(もう、普通じゃない)
大学では同じ話をするやつが増えはじめていた。
「眠れないんだ。寝ようとすると、廊下みたいなのが見えるんだよ」
「熱くてさ、身体中が焼けそうで……」
「昨日、隣のゼミの先輩が、ベッドの上で発狂してそのまま倒れたって……」
彼らの声は、どれも他人事でありながら、どこか諦めが混じっていた。
もう自分も順番を待っているだけだ、と言わんばかりだった。
実際、ニュースは日に日に数字を増やしていった。
不眠による錯乱。
発狂。
飛び降り。
焼けた痕のような謎の皮膚変化。
(俺も、その九十人の中の一人、ってことか)
皮肉に笑おうとしたが、喉が乾いて声が出ない。
夜が来る。
時計の針が二十四時を超えるたび、胸の鼓動が速くなる。
(今日で終わるかもしれない)
そんな考えが何度もよぎる。
そして、七日目の夜が来た。
部屋の空気が、急に重たくなった。
クーラーを入れても温度が落ちない。
じわじわと温度が上がり、呼吸をするたび喉が焼ける。
壁紙の一部が黒く染まりはじめた。
最初はシミかと思った。
だが、目を凝らせば凝らすほど、
それは“煤”にしか見えなかった。
指で触ると、粉が付く。
鼻に近づけると、確かな焦げ臭さがある。
ただ、壁紙そのものは冷たい。
(……どうなってんだ)
理解が追いつかない。
現実がじわじわ壊れていく。
そのうちに、頭がぼうっとしてきた。
眠気ではない。
熱で意識が溶けていく感覚。
ふらふらとベッドに腰を下ろした。
瞼が自然に落ちる。
回廊が、すでに目の前にあった。
以前よりも、ずっと近い。
天井の梁の一本一本が見える。
そこにこびりついた煤の模様さえ分かる。
回廊の奥から、影が歩いてくる。
その姿は、もうぼやけていなかった。
高い冠。
重そうな衣。
まっすぐ伸ばされた背筋。
胸の中心で燃えるような炎。
眼は見えない。
顔全体が黒い影の塊で覆われているのに、
“じっと見下ろされている”ことだけは分かった。
影が一歩、前へ出るたび、
ぎり、と板が軋み、
回廊全体が揺れる。
熱波が、真正面から押し寄せた。
『……ねむりを……ゆるさぬ……ものらよ……』
声なのか、熱の振動なのか分からない。
言葉というより“意味の塊”がそのまま胸に突き刺さるような感覚だった。
「やめろ……やめてくれ……」
足は動かない。
回廊の中に立ち尽くしたまま、逃げることもできず、ただ影が近づいてくるのを見ているしかなかった。
影の手が、悠希の肩に伸びた。
一瞬だけ、現実の部屋の天井がちらりと見えた。
部屋の空気までが、赤く揺らいでいる。
「来るな!!」
叫んだ瞬間、影の手が肩に触れた。
皮膚の下で、何かが焼けた。
外側の皮膚には、まだ痕は出ていない。
なのに、肉の内側がじゅうじゅうと音を立てて焦げていくような感覚。
吐き気がこみ上げる。
視界がぐにゃりと歪む。
「……っぐ……あああッ……!」
声が出たのかどうか、自分でも分からない。
そのまま世界がひっくり返った。
目を開けると、病院の天井があった。
顔の上にライトが並んでいる。
酸素マスクが口元に当てられている。
「意識戻った!」
誰かの声がする。
白衣の影がいくつも揺れる。
「またか……」
「同じパターンだ……」
「肩を見てくれ。黒い痕が……」
肩に触れるゴム手袋の感触。
そこから、ビリ、と電気のような刺激が走った。
医者の声が、かすかに耳に入る。
「この一週間で、同じ症状がもう九十件近い……
眠れない、熱い回廊が見える、と訴えた直後に発狂……
死亡がすでに三十を超えている。
原因も治療法も分からん……」
看護師が、ためらいながら言った。
「祈祷とか……そういう話じゃ、ないんでしょうか」
「非科学的なことを言うな」
医者はそう言ったが、その声には自信がなかった。
悠希は、ぼんやりと天井を見つめた。
(俺は……まだ死んでないのか)
そう思った途端、
視界の隅に、黒い影がちらりと動いた。
病室の壁。
そこに、ありえないものが張り付いている。
燃える回廊の、入口。
さっきまでは部屋いっぱいに広がっていたはずの異様な空間が、
今は壁の一部に、切り取られたように貼りついていた。
回廊の奥から、あの影がこちらを覗いていた。
胸の炎が、静かに明滅している。
(まだ……終わってない)
喉が鳴った。
酸素マスク越しに、空気がひゅっと細く入ってきた。
影の輪郭が、ゆっくりと近づいてくる。
病室の壁が、熱で波打った。
誰も気づいていない。
医者も、看護師も、モニターも、
異常を示さない。
しかし悠希だけが知っていた。
これは、個人の問題ではない。
眠りを奪われた九十人のうち、
すでにほとんどが発狂して死んでいる。
生き残っている者も、時間の問題だ。
(次は……俺か)
影の胸の炎が、ひときわ強く光った。
鼓動と同じリズムで、どくん、と。
『……ねむらせぬ……
ねむるもの、みな……もやしつくす……』
熱の声が、胸の奥に直接流れ込んできた。
意識が遠のく。
ベッドの縁が揺れ、点滴スタンドが二重に見える。
その向こうで、壁の焦げた回廊が、すこしずつ、現実の部屋を侵食していった。
(誰か……)
心の中で、もう一度だけ叫ぶ。
(誰か、あれを止めてくれ……)
その願いだけを残して、
悠希の視界は、ふっと闇に沈んだ。




