番外編 佐々木結衣 前史 —喪失と反転— その3 生死の境から立ち上がる反転の夜
夜が来た。
病室に“余計な光”が消え、
暗い天井が静かに広がる。
昼間は人の気配で何とか保っていた精神は、
夜になると剥き出しになる。
結衣は目を開けていた。
眠れないというより、
眠ればあの光景が出てくるから眠れなかった。
兄の瞳。
両親の無音の倒れ方。
背中を裂いた冷たい痛み。
そして、
兄の声で紡がれた「逃げろ」。
その全部が、
繰り返し脳内で再生される。
耳の奥で、
兄の声が重なる。
――逃げろ。
それがどれほど優しい声だったか。
結衣は唇を噛む。
兄は、
自分を攻撃しながらも抵抗していた。
結衣を殺さないように、
わざと浅く、わざと外側に傷をつけていた。
それが分かるからこそ、
胸が焼ける。
兄を奪った残響。
その“乗っ取られた兄”は、
まだどこかで生きているのかもしれない。
けれど、兄の中にいた兄自身は——
もう、いない。
現実は残酷だ。
けれど結衣はそれを直視しなければいけなかった。
涙がまた、頬を伝う。
手を伸ばす。
誰もいない暗闇に。
兄の影を掴むように。
もう二度と届かないと知りながら。
その手は震え、
結衣は声が出ない喉で小さく呟いた。
「……おに……ちゃん……」
その瞬間、
部屋の空気が揺れた。
呼吸が止まる。
結衣は身を強張らせた。
空気が変わる。
冷えるのではない。
熱くなるのでもない。
“重たくなる”。
言葉では表現しづらい質量が、
部屋にじっとり広がっていく。
まるで——
誰かがそこに“立った”ような気配。
人間の気配ではない。
兄の時に感じた“影の濃度”に似ている。
結衣は震える声で息を吸う。
喉は声を拒むが、肺は逃げることを許さない。
『……また来たのか?』
耳元に、幻聴のように兄の声が響いた。
本物ではない。
でも、確かに“兄の残り香”だけが混ざっている。
結衣は布団を握った。
違う。
違う違う違う。
兄はもういない。
残っているのは、
兄を壊した“残響の影”だけ。
結衣は身体を起こそうとした。
背中がずきりと痛む。
傷口が裂けそうになる。
だが、彼女は止まらなかった。
立ち上がれないなら、
座ればいい。
座れないなら、
這えばいい。
兄を奪った何かに——
逃げるつもりはなかった。
喉から、金属を擦ったような音が漏れる。
「……っ……」
声にならない。
でも、それでいい。
声は必要ない。
必要なのは、
“決意”だけ。
結衣は震える指でシーツを掴み、
床に足を下ろす。
冷たい床。
この冷たさを感じられるだけで、
自分がまだ死んでいない証だ。
呼吸をゆっくり整える。
肺が痛い。
心臓を掴まれているような感覚。
それでも、
結衣は身体を前に倒し、両手を床についた。
痛みは尋常じゃない。
だが、それさえも“生の証明”に思えた。
立ち上がる。
歩く。
影に向かう。
結衣はゆらりと顔を上げた。
薄暗い病室の隅に、
“黒い揺らめき”がいた。
形はない。
姿もない。
ただ、濃度だけがある。
兄を飲み込んだ残響と同じ“質感”。
結衣の身体が反射で震える。
本能が逆流し、逃げようとする。
だが、
結衣は止まらなかった。
兄が最後に言った「逃げろ」を、
結衣は“逆命令”として受け取った。
――私は逃げない。
ただの影。
ただの残滓。
しかし結衣にとっては、
世界で一番憎い“形なき存在”。
結衣は震える唇で、
生まれて初めての“祓詞”を紡いだ。
声にはならない。
祈りにならない。
詠唱でもない。
ただ、
喉が潰れても叫ぼうとする“意志”だけが、
空気を震わせた。
「……っ……っ……!」
影が揺れた。
応えるように、
挑発するように。
兄を奪った残響の“残り香”が、
結衣の弱り切った精神を食べようと近づく。
結衣は後ずさりしなかった。
真正面から影を睨む。
「こ……ろ、す……」
声が出た。
裂けた声だった。
それでよかった。
その言葉を紡げたことが重要だった。
“復讐”という意志。
それだけが、
影に対抗できる唯一の武器。
病室の扉が突然開いた。
結衣はハッと振り返った。
中森だった。
手にはコンビニの袋。
その雑さに不似合いな鋭い視線。
中森は病室の空気を一瞬で察し、
影の揺らぎに目を細めた。
「……やれやれ」
中森はごく自然な動作で、
影に向かって一歩踏み込む。
影は中森を見ると、
かすれた音もなく、
すっと消えた。
まるで“獲物の順番を変えた”だけのように。
中森が言う。
「立てるのか」
結衣は震えながら頷いた。
それを見て、
中森は鼻で笑った。
「いい目だ」
「憎しみは、あいつらと戦うのに一番の燃料だ」
結衣は唇を噛み締め、
涙をにじませながら立ち続けた。
中森は袋を机に置く。
「生きたいなら、生き残れ」
「殺したいなら、力をつけろ」
扉に背を預け、
中森は最後にひと言だけ残した。
「お前のその目は、
死んだ目じゃねぇ」
「なら、戦える」
その言葉が、
結衣の胸に静かに刺さる。
空っぽだった胸に
たったひとつの熱が灯る。
それは希望ではない。
未来でもない。
ただの“復讐の炎”。
だが、
その炎は結衣を死から引き戻した。
目の前の世界がゆっくりと輪郭を取り戻す。
白い壁。
消毒液の匂い。
点滴の滴る音。
その全部が、
結衣の戦場になるのだと自覚した。
結衣はベッドの端に腰を下ろし、
かすれた声で
誰にも届かない言葉を吐いた。
「……見てて……お兄ちゃん」
「私……絶対に……」
「取り返すから……全部……」
兄のいない世界で、
結衣は初めて一人で立つ。
そして決めた。
救いではなく、
修正でもなく、
ただ“滅殺する側”に立つと。
これが——
祓屋・佐々木結衣が生まれる瞬間だった。




