番外編2 佐々木結衣 前史――喪失と反転―― 第4章 失ったもの
ピッ。
ピッ。
ピッ。
電子音が刺さる。
息が入る。
押し込まれる。
吐く。
浅い。
苦しい。
胸が軋む。
痛い。
背中が裂ける。
動けない。
空気が冷たい。
喉が焼ける。
声が出ない。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
音が近い。
うるさい。
逃げられない。
結衣は目を開けた。
白。
天井。
知らない。
光が刺さる。
眩しい。
瞬きをする。
遅い。
身体が重い。
動かそうとした瞬間、背中に鋭い痛みが走った。
「……っ。」
声にならない。
喉が裂けるように痛む。
呼吸するたびに胸が軋む。
自分の身体ではない。
そんな感覚だった。
包帯の巻かれた腕。
点滴。
胸に貼り付けられた電極。
生きている。
それだけが、はっきりしていた。
扉が静かに開く。
白衣の男が入ってくる。
「目が覚めたか。」
短い一言。
結衣は声を出そうとする。
だが、掠れた空気しか出ない。
医師はそれを見て、首を振った。
「まだ喋るな。」
「傷が開く。」
脈を測る。
瞳孔を確認する。
それだけで終わる。
「生命力は大したものだ。」
そう言って、部屋を出ていった。
入れ替わるように、一人の男が入ってくる。
黒いジャケット。
無精髭。
煙草の匂い。
昨夜、朧げな意識の中で見た顔。
中森安行。
彼は椅子に座らず、壁に背を預けた。
「起きたか。」
それだけ言う。
優しさはない。
確認だけの声。
結衣は男を見る。
誰か分からない。
なぜここにいるのかも分からない。
だが。
胸の奥に引っかかるものがある。
大切な何か。
思い出してはいけない何か。
中森は煙草を取り出す。
火は点けない。
病室だからではない。
結衣が記憶を辿っていると分かったからだ。
「焦るな。」
低い声。
「どうせ全部思い出す。」
その瞬間。
光景が走る。
玄関。
泥だらけの靴。
震える兄。
『結衣だけは……』
声。
そして。
最後の叫び。
――逃げろ。
結衣の瞳が揺れる。
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
思い出しかけている。
だが、その先がない。
黒い。
何もない。
兄は。
どうなった。
両親は。
どこへ。
結衣は震える手で中森の服を掴む。
掠れた声が漏れる。
「……お……にい……ちゃん……」
中森は目を逸らさない。
嘘も慰めも与えない。
必要ないと分かっているからだ。
静かに言う。
「今は休め。」
「話は、お前が立てるようになってからだ。」
結衣の手から力が抜ける。
涙が頬を伝う。
まだ何を失ったのか分かっていない涙。
だが。
遠くないうちに。
その涙は、戻れない現実を知ることになる。
部屋は静かだった。
電子音だけが、規則正しく鳴り続けている。
結衣は天井を見つめたまま動かなかった。
眠気はない。
身体は重い。
けれど、一番重いのは胸の奥だった。
思い出せない。
いや。
思い出したくない。
そんな感覚だけが残っている。
扉がもう一度開いた。
今度は医師だった。
カルテを閉じ、結衣の顔を見る。
「話せるか。」
結衣は小さく頷く。
喉は痛い。
それでも聞かなければならないことがあった。
医師は一度だけ中森を見る。
中森は何も言わない。
煙草も吸わず、壁へ寄り掛かったままだった。
医師は静かに息を吐く。
「君は三日間眠っていた。」
三日。
その数字だけが頭へ残る。
三日も。
何も知らずに。
「家のことは、警察が調べている。」
結衣は掠れた声で尋ねた。
「……お父さん……お母さんは……」
医師は少しだけ目を伏せる。
「亡くなった。」
世界から音が消えた。
電子音だけが遠くなる。
呼吸の仕方を忘れる。
胸が締め付けられる。
何か言わなければ。
そう思うのに、喉が動かない。
涙だけが静かに零れ落ちた。
「……お兄ちゃんは。」
やっと出た声だった。
医師は答えなかった。
代わりに中森が口を開く。
「消えた。」
短い一言だった。
「警察は探してる。」
「まだ見つかってねぇ。」
結衣は目を閉じる。
兄は生きている。
その事実だけが胸に残る。
安心ではない。
恐怖でもない。
言葉にできない何かだった。
「……兄は。」
掠れた声が震える。
「人を……」
最後まで言えなかった。
中森は否定もしない。
肯定もしない。
ただ静かに言う。
「今のお前が考えることじゃねぇ。」
結衣は涙を流したまま俯いた。
兄の最後の顔だけが浮かぶ。
苦しそうに頭を抱え。
震えながら。
それでも。
『結衣だけは。』
あの言葉だけは偽物ではなかった。
結衣はそう信じたかった。
中森は壁から身体を離す。
ゆっくり病室の出口へ向かう。
扉へ手を掛けたところで足を止めた。
「一つだけ覚えとけ。」
振り返らない。
「これは事故でも病気でもねぇ。」
短い沈黙。
「敵がいる。」
その言葉だけを残して、部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
結衣はベッドの上で小さく身体を丸めた。
泣き声は出ない。
涙だけが止まらない。
病室へ午後の日差しが差し込む。
世界は何も変わらない。
人は歩き。
車は走り。
時間だけが過ぎていく。
だが。
佐々木結衣の時間だけは。
あの夜で、止まったままだった。
◇
朝が来ても、何も変わらなかった。
窓の外では蝉が鳴いている。
遠くで誰かが笑っていた。
世界は昨日と同じように動いている。
そのことが、結衣にはひどく残酷だった。
病室の白い天井を見つめたまま、結衣は何度も目を閉じる。
眠れば忘れられるかもしれない。
そう思っても、眠りは訪れなかった。
目を閉じるたびに浮かぶ。
泥で汚れた兄の靴。
震える声。
そして。
――逃げろ。
最後の叫び。
あの声だけは、何度思い返しても兄の声だった。
「……どうして。」
掠れた声が漏れる。
問い掛ける相手はいない。
兄はどこへ消えたのか。
なぜ両親は命を落としたのか。
なぜ自分だけが生き残ったのか。
答えは何一つ見つからない。
病室の時計だけが、静かに時を刻んでいた。
昼過ぎ。
控えめなノックが響く。
返事を待たず、扉が開いた。
中森安行だった。
紙袋を一つ持っている。
中にはペットボトルの水とゼリー飲料、それに簡単な着替えが入っていた。
「食え。」
短く言って、ベッド脇の棚へ置く。
結衣は礼も言わなかった。
言えなかった。
中森も気にしない。
椅子へ腰掛けることもなく、壁へ寄り掛かる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて結衣が口を開く。
「……兄は。」
中森は視線を窓へ向けたまま答える。
「まだ見つからねぇ。」
「……生きてる?」
「ああ。」
「じゃあ……。」
言葉が止まる。
会いたい。
そう言おうとして、飲み込んだ。
今の兄は、本当に兄なのだろうか。
中森は結衣の迷いを見透かしたように言う。
「会っても、お前一人じゃ何もできねぇ。」
その言葉は冷たかった。
だが、否定できなかった。
結衣は拳を握る。
指先が震える。
「……あれは。」
喉が痛む。
それでも聞かなければならなかった。
「病気じゃ……ないんですよね。」
中森は小さく頷く。
「病気じゃねぇ。」
「事故でもねぇ。」
「人間が理解できる類のもんでもねぇ。」
病室へ静寂が落ちる。
中森は煙草を取り出し、指で回す。
火は点けない。
「残響。」
その二文字だけが、静かに響いた。
「人の思念が歪み、形を持ったものだ。」
「人に取り憑き、人を壊し、人を喰う。」
「そして。」
中森は結衣を見る。
「お前の兄は、その被害者だ。」
結衣の瞳が揺れた。
「被害者……。」
「そうだ。」
「最後まで、お前を逃がそうとしてた。」
その一言で、張り詰めていたものが切れた。
結衣は顔を覆う。
嗚咽だけが漏れる。
兄は自分を捨てたわけではなかった。
最後まで守ろうとしていた。
その事実だけが、胸を締め付ける。
中森は慰めない。
泣き止ませもしない。
ただ、静かに言った。
「泣け。」
「今は、それでいい。」
病室には、少女の押し殺した泣き声だけが、長く響いていた。
泣き声だけが、病室へ残っていた。
中森は何も言わない。
慰めることもしない。
ただ壁へ寄り掛かったまま、静かに少女を見ている。
どれほど時間が経ったのか。
結衣はゆっくり涙を拭った。
震える呼吸を整えながら、中森を見る。
兄を助けられなかった。
両親も失った。
自分だけが生き残った。
その現実は変わらない。
ならば。
知らなければならない。
「……教えて。」
掠れた声だった。
それでも確かな意思があった。
「兄に……何が起きたの。」
中森は少しだけ眉を動かす。
その質問を待っていたようにも見えた。
「全部話せ。」
結衣は小さく頷く。
「私が知ってることは全部話す。」
「だから……教えて。」
中森は煙草を一本取り出す。
指先で回しながら、ゆっくり口を開いた。
「お前の兄は病気じゃねぇ。」
「精神異常でもない。」
「誰かに洗脳された訳でもねぇ。」
一つずつ区切る。
「残響だ。」
その言葉だけが病室へ落ちた。
「残響……。」
結衣は繰り返す。
初めて聞く言葉だった。
「人の思念が形を持った存在。」
「強い執着。」
「怨み。」
「未練。」
「そういうもんが積み重なって、人を喰う。」
結衣は黙って聞いている。
「取り憑かれた人間は、少しずつ自分を失う。」
「最初は違和感だけだ。」
「記憶が飛ぶ。」
「夜の出来事を覚えてねぇ。」
「誰かと話した気がする。」
「そんな程度だ。」
結衣は兄の姿を思い出す。
牛乳を二度買ったこと。
呼んでも返事をしなかったこと。
病院へ入れなかったこと。
全部。
全部繋がっていく。
「やがて。」
中森の声が低くなる。
「人格ごと喰われる。」
結衣は目を閉じた。
兄は最後まで抵抗していた。
それだけは分かる。
「……助けられたの?」
その問いだけは、少女ではなく妹の声だった。
長い沈黙。
中森は窓の外を見る。
「……分からん。」
嘘はつかない。
「俺が見つけた時には遅かった。」
それだけだった。
結衣は唇を噛む。
血の味がした。
それでも、もう一つだけ聞かなければならなかった。
「兄は。」
涙を堪えながら。
「悪かったの。」
中森は即座に答えた。
「違う。」
一切迷わなかった。
「お前の兄は被害者だ。」
その一言で、結衣の肩が大きく震えた。
兄を責めなくていい。
その事実だけが、今の結衣を支えていた。
中森は静かに立ち上がる。
「今日はそれだけだ。」
「残りは、生き延びてから聞け。」
扉へ向かう。
その背中へ、結衣がもう一度声を掛けた。
「……残響は。」
「まだ、……いるの?」
中森は立ち止まる。
「いる。」
短い返事だった。
「今も、人を喰ってる。」
その言葉だけを残し、病室を後にした。
静かな病室へ、再び電子音だけが響く。
結衣は天井を見上げる。
涙はもう流れていなかった。
代わりに胸の奥へ、小さな疑問が残っていた。
兄を奪ったものは何なのか。
そして。
まだどこかで、人を奪い続けているのか。
その問いだけが、静かに心へ根を下ろし始めていた。
病室は静かだった。
時計の針だけが、ゆっくりと時を刻んでいる。
結衣は窓の外を見つめていた。
何日眠っていたのか。
もう考えなくなっていた。
ここへ運ばれてから、一度も警察は来ていない。
誰も事件について尋ねない。
誰も兄のことを口にしない。
まるで、この病室だけが外の世界から切り離されているようだった。
夕方。
扉が開く。
中森安行だった。
今日も煙草を咥えている。
火は点いていない。
「身体はどうだ。」
結衣は小さく頷く。
「少し……動けます。」
「そうか。」
それだけだった。
中森は窓際へ歩き、外を眺める。
しばらく沈黙が続く。
やがて結衣が静かに口を開いた。
「……どうして。」
掠れた声だった。
「どうして、警察は来ないんですか。」
中森は振り返らない。
「来させてねぇ。」
短い返事。
「お前はまだ喋れる状態じゃない。」
「それに。」
一拍置く。
「今は、お前を表へ出したくねぇ。」
結衣は意味を考えた。
兄は行方不明。
両親は亡くなった。
事件はまだ終わっていない。
だから。
中森は自分を隠している。
「……守ってくれてるんですか。」
中森は小さく鼻で笑う。
「勘違いするな。」
「助けられる命だったから助けた。」
「それだけだ。」
情ではない。
打算でもない。
ただ事実だけを口にする。
それが中森という男だった。
再び静けさが訪れる。
結衣はゆっくりと息を吸った。
もう迷わなかった。
「……聞いてください。」
中森は黙って続きを待つ。
「私は。」
喉の痛みに顔をしかめながら、それでも言葉を紡ぐ。
「兄を変えたものを知りたい。」
拳を握る。
「兄は最後まで……私を守ろうとしていました。」
「だから。」
涙を堪えながら顔を上げる。
「兄をあんなふうにしたものを……許せません。」
病室に沈黙が落ちる。
中森は少女の目を見る。
怒りだけではない。
悲しみだけでもない。
その奥にある意思を見極めるように。
やがて、小さく頷いた。
「その目なら。」
低い声が響く。
「祓屋になれるかもしれねぇ。」
結衣は聞き返す。
「……祓屋。」
「残響を追う連中だ。」
「人知れず現れて、人知れず消す。」
「警察でも医者でも手が出せねぇもんを相手にする。」
結衣は黙って聞いている。
中森は続けた。
「だが、甘い世界じゃねぇ。」
「一歩踏み込めば、普通の人生は終わる。」
窓の外へ視線を向ける。
「友達。」
「学校。」
「将来。」
「名前。」
「全部捨てる覚悟がいる。」
一つひとつの言葉が重かった。
「残響は、一度関われば向こうからも寄ってくる。」
「昨日までの生活には戻れねぇ。」
結衣は静かに俯く。
兄との思い出。
両親との食卓。
学校。
友達。
もう、そのどれも戻らない。
失われたのではない。
あの夜に終わったのだ。
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、迷いがなかった。
「……もう。」
小さく息を吸う。
「戻る場所はありません。」
中森は何も言わない。
ただ少女を見つめる。
「だったら。」
結衣は静かに続けた。
「私は知ります。」
「兄を変えたものを。」
「そして。」
一瞬だけ言葉が止まる。
兄の笑顔が浮かぶ。
最後の「逃げろ」が胸をよぎる。
それでも結衣は、静かにはっきりと言った。
「兄から全部を奪ったものだけは……絶対に許しません。」
病室へ、長い沈黙が落ちた。
中森はゆっくりと踵を返す。
扉へ手を掛けながら、小さく言う。
「なら。」
「退院したら来い。」
「そこから先は、お前自身が決める道だ。」
扉が静かに閉まる。
結衣は一人、窓の外を見つめ続けていた。
夕焼けがゆっくりと街を赤く染めていく。
その赤は、あの夜の色とは違っていた。
それは終わりの色ではない。
これから始まる、新しい人生の入り口だった。




