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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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番外編 佐々木結衣 前史 —喪失と反転— その2 薄明で目覚める

世界は、音のない灰色だった。


目が覚めても、

それが“生きている”という感覚には結びつかなかった。

結衣はまず、呼吸という行為を忘れていた。


肺がぎこちなく動く。

喉が砂を噛んだみたいに乾いている。


天井が見える。


白い。

何の模様もない。

ただの四角形。


しかし、その四角形が

“どこにあるのか”が分からない。


家なのか。

病院なのか。


それより——

自分がまだ「存在している」ことが

理解の外側にあった。


胸をえぐられたような痛みが、

数秒後に遅れて押し寄せる。


背中の感覚がまだ戻らない。

手足の感触も曖昧だ。

指は震え、力が入らない。


結衣は静かに目を閉じる。


夢ならいい。


あれが全部——

両親の倒れた姿も、

兄のあの“偽りの笑顔”も、

背中に走った冷たい痛みも、


全部夢であればいい。


そう願った。


けれど、

次の瞬間、涙が流れた。


涙が流れたことで、

「夢ではない」と理解してしまった。


夢なら泣かない。

泣けない。


現実だから、泣いた。


胸の奥が潰れるような痛みだった。

喉の奥がひしゃげる。

呼吸がうまくいかない。


声は、出なかった。

両親の名前を呼ぼうとしても、

「……ぁ、」

という乾いた音しか出ない。


声帯が震えない。

息が漏れるだけ。


涙が頬を伝い落ち、

シーツに染みていく。


その染みが広がるのを見て、

結衣はやっと「ここが病院だ」と気づいた。


部屋の隅に、医療機器が薄い光を放っている。

時計の針が動いている。

機械が静かに鳴っている。


そこに、

生まれて初めての——“孤独”があった。


家族という世界が、

一夜にして消えてしまったことを。


自分だけが、

生き残ってしまったことを。


なぜ、という言葉が

胸の中を渦巻く。


なぜ兄は——。

なぜ両親は——。

なぜ私は——。


問いは形にならず、

涙に変わっていく。


結衣は泣きながら、

胸を押さえた。


そこに穴が空いているようだった。

大きく、暗い、底のない穴。


兄が埋めていた場所だ。


兄の笑顔が浮かぶ。

最後の「逃げろ」が耳の奥で響く。


あれは兄の声だった。

兄の意思だった。


飲み込まれながら、

それでも最後に“妹を逃がそうとした”兄。


その顔だけが鮮明に残っている。


残りは全部悪夢。


結衣はシーツを握りしめる。

指先に力が入らず震える。


その震えが止まらなかった。



扉が開いた。


その音で、結衣は現実に引き戻される。


医者でも看護師でもない気配が入ってくる。


足音は重く、

堂々とした足取り。

だが病院という静寂に似つかわしくない。


黒いジャケットの袖が見えた。


無精髭。

鋭い目。

タバコと油の匂い。


中森安行だった。


最初に抱いた感想は——

「恐い」でも「怪しい」でもなかった。


“場違いな大人”という印象だった。


中森はベッド脇に立つと、

結衣の状態を一瞥した。


死にかけの子どもを見るような目ではない。

同情の入り混じった視線でもない。


生き残りを観察する研究者のような目だ。


「……よく生き残ったな」


中森の最初の言葉は、それだった。


声は低い。

しかし妙に響く。


結衣は返事ができなかった。

喉が動かないのだ。


中森は続ける。


「普通は死ぬ。

 お前みたいなケースはまず助からん」


それは慰めでも励ましでもない。

ただの事実を述べているだけ。


だが、

事実だからこそ、その言葉は刺さった。


結衣は泣きたくなった。


助かったことを喜べる状況ではない。

生き残った理由を知りたかった。


“なぜ自分だけ?”


中森はベッド脇の椅子に腰を下ろした。


「喋れねぇな。

 まあ当然か」


顎で点滴を示す。


「背中を深くやられてる。

 声帯も衝撃で一時的に麻痺してる」


淡々と説明する口調に、

悪意も善意も感じられない。


仕事で死体を見慣れたような、

そんな話し方だった。


だが次の一言だけは違った。


「——お前、残響に触れたな」


結衣の身体が震えた。


その震えに、中森は目を細める。


「図星か」


中森はポケットから折り畳んだ一枚の紙を取り出した。


それは古い資料のコピーだった。


結衣の目がそれに吸い寄せられる。


『受胎型:

 宿主に入り込み、人格を上書きし、

 周囲の人間を襲わせる。

 宿主本人の感情を模倣し、

 “家族”を最初に標的とする傾向。』


紙の一行一行が、

結衣の胸を刺す。


兄を奪った存在。

両親を奪った存在。


それが言語化された瞬間だった。


涙がまた溢れた。


中森はそれを見て、ひと言。


「泣けるなら、生きる気はあるな」


残酷なほど淡々とした口調で。


結衣はシーツを握りしめた。

喉からかすれた声が漏れる。


「……お……に……ちゃん……」


中森は少しだけ眉を動かした。


兄の名を出されたときだけ、

わずかに目の奥が揺れた。


だが慰めの言葉はなかった。


「兄貴は死んだ」


冷たい。

しかし嘘はない。


「だが“死んだだけ”じゃない」


中森は紙を折り直す。


「お前の兄貴——

 “乗っ取られたまま”消えた」


結衣の呼吸が止まる。


胸が締め付けられ、

意識がまた白い光に染まりそうになる。


中森は続ける。


「ちゃんと理解しろ」


「これは事故じゃない。

 病気でもない。

 不幸でもない」


「——敵がいる」


敵。


その概念だけが、

結衣に色を戻した。


涙が止まった。


震えが止まった。


中森はその変化を見逃さない。


低い声で、とどめの一言を放つ。


「お前が生き残った理由はひとつだ」


「“復讐する余地があるから”だ」


結衣の瞳がゆっくりと、

しかし確実に焦点を取り戻す。


中森が立ち上がる。


「生きたければ、使え。

 俺をでも、世界をでも。

 なんでも使え」


「ただし——」


振り返り、

結衣の瞳を真っ直ぐ見て言う。


「復讐は生半可じゃできねぇ」


「やるなら徹底的にだ」


中森は歩き去っていく。


扉が閉まる。


病室にひとり残された結衣は、

声を失った喉で、

誰にも届かない呟きを漏らす。


「……にい……ちゃん……」


胸の奥が焼ける。


兄を失った痛みは消えない。


だがその痛みの奥に、

別の何かが芽生え始めていた。


それは優しさでも、希望でもない。


純粋な——

濁りのない——

“憎しみ”だった。


兄を奪った存在への憎悪。


その憎悪だけが、

結衣の空っぽになった心を支えていた。


ここで結衣の人生は、

元に戻れなくなる。


兄のいない世界を、

ただ生きるのではない。


兄を奪った世界そのものと

戦うために生きるのだ。


この瞬間、

結衣の運命は決まった。


彼女はまだ知らない。

この先、

何百の残響と戦うことになり、

普通の祓屋では止まれない場所へ落ちていくことを。


ただひとつだけはっきりしている。


——あの夜、兄が見せた

 わずかな“抵抗の表情”だけが、


結衣を生かし続ける唯一の理由になった。

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