番外編 佐々木結衣 前史 —喪失と反転— その1 影が差す家
結衣は子供のころから、兄の背中を追っていた。
颯の背中は大きく、温かくて、どこに立っていても迷わない灯台のようだった。
両親は共働きで、家には夜ふたりだけになることが多かった。
玄関の鍵を閉めるのはいつだって兄の役目で、冷蔵庫に入っている夕飯を温めるのも兄だった。
結衣はその横顔が好きだった。
学校で何があっても、兄の「腹減ったな」の声で一日の嫌なことが薄れていった。
兄はやさしい。
頭がよくて、運動もできて、友達にも先生にも信頼される。
周囲から向けられる敬意や期待を、兄はひとつも嫌がらなかった。
だけど、それ以上に結衣は知っている。
兄は、家族の前ではもっと素朴だ。
冗談を言って笑い、コンビニのチョコを半分くれる。
結衣が泣いたら、無言で頭に手を置いてくれる。
その大きな掌の温度を、結衣は世界の正しさそのものだと思っていた。
颯は、結衣にとって最初にできた「拠り所」であり、
彼女の人生に最初に生まれた「光」だった。
——あの夏までは。
⸻
八月の終わり。
蝉の声があいまいになりはじめ、夜が湿り気を帯びる季節。
兄は大学の自由研究に取り組んでいた。
内容は「戦後日本の未解決事件」。
最初はただの歴史的興味だと思っていた。
しかし兄は次第に、ある一件に没頭していく。
十数年前、地方で起きた一家惨殺事件。
犯人は不明。
家族全員の遺体は奇妙な状態で見つかったが、詳細は非公開。
ただ裁判資料の一部に、“精神構造に異常が見られた可能性”という曖昧な一文だけが残っていた。
兄は警察書庫から写しを取り寄せた。
その資料を読んでから、兄の表情が少しずつ変わった。
といっても、表面上は何も変わらないのだ。
食欲もあるし、学校にも行く。
会話も普通にする。
でも——瞳の奥に、小さな揺らぎが生まれた。
たとえば結衣が呼びかけても、一度だけ遅れて返事をする。
視線の焦点が遠くに合っているような瞬間がある。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
問いかけたある日の夜、兄は一瞬だけ黙って、いつもの笑顔をつくった。
「寝不足なだけだよ」
その声を、結衣はしばらく忘れられなかった。
兄の声色には、ほんのわずか、“自分ではないもの”の影が混じっていた。
⸻
兄はベッドの上で、資料を広げていた。
結衣は兄の部屋に入ることは滅多になかったが、あのときは誘われるように覗いてしまった。
兄は気づいて、小さく手を振った。
「結衣、これ見てみる?」
机の上には、年代物の白黒写真と、古い記録のコピー。
その中に、奇妙な数式のような記号の羅列があった。
「これ、事件記録……?」
「……みたいだな。
でも、普通の事件じゃない」
兄は資料に触れながら言う。
「この家族、事件の前に同じ夢を見ていたらしい」
「夢?」
「ああ。誰かに“呼ばれる”夢。
しかも全員同じ人物を見ていたらしい」
結衣は背筋が強張るのを感じた。
「お兄ちゃんも……その夢、見てるの?」
兄は笑って首を振る。
「まさか。
そんな都合よく……」
と言いかけて、言葉が消えた。
その沈黙が今でも耳に残っている。
ほんの五秒ほどの沈黙。
その短さが、兄の変化をより深く刻み込んだ。
兄の指先は、資料に触れたままピタリと止まっていた。
まるで、
“自分以外の何か”の動きを待っているように。
⸻
九月に入ると、兄はさらにおかしくなった。
夜中に部屋の前を通ると、兄がひとりで話している声がする。
誰かと電話でもしているのかと思ったが、声があまりに低い。
耳を近づけると、兄の声じゃないトーンが混ざっていた。
「……聞こえる。
見てる……だろ……」
結衣が怖くなって部屋の前から離れると、
床の木目が冷たく感じられた。
翌朝、
兄は何事もなかったように笑った。
「パン焼けてるよ」
「ほら、急がないと」
その笑顔はいつも通りなのに、
目の奥にだけ“湿った黒いもの”が揺れていた。
結衣は思わず兄の腕をつかんだ。
「ねぇ、お兄ちゃん……病院行こうよ」
兄は優しく笑った。
「大丈夫。本当に、大丈夫」
その声に、結衣は何も言えなかった。
兄が嘘をつくときは、いつもこういう優しい声になる。
結衣はそれを知っていた。
だから余計に、胸がざわついた。
⸻
その週末。
家にいたのは兄と結衣だけだった。
両親は泊まりがけの仕事で家を空けていた。
兄は遅くまで研究資料を広げ、結衣は宿題をしていた。
午後十時を回るころ、兄がふと呟いた。
「結衣」
「ん?」
「変なこと……もし起きても」
兄は言った。
「俺のせいじゃないから」
それは妙に澄んだ声だった。
今思えば、それは“兄の最後の声”だった。
結衣はその意味が分からなかったし、
分かりたくもなかった。
ただ胸の奥に、
小さな針みたいな痛みが刺さった。
兄は自分が壊れかけていることを知っていた。
それでも結衣にだけは、
“悪いもの”を向けまいとした。
あの瞬間まで——
兄はまだ兄だった。
⸻
惨劇は、音もなくやってきた。
結衣は夜中、
水を飲もうと部屋を出た。
廊下の電気はつけっぱなしだった。
白い光が家中を照らし、どこにも影がない。
そう思った矢先、
居間のドアが少し開いていることに気づいた。
嫌な予感がした。
その理由は分からなかった。
ただ、胸の奥の針がまた刺さった。
「……お兄ちゃん?」
ゆっくりと扉を開ける。
そこに兄が立っていた。
暗闇の中で、その姿だけがはっきり見えていた。
背筋が真っ直ぐで、肩の形も、髪の揺れもいつも通り。
でも、
“兄の目”ではなかった。
黒い。
深い。
底なしの湖か沼みたいな視線。
その目が結衣を捉えた瞬間、
結衣の心臓が冷たくなった。
足元には両親が倒れていた。
声が出なかった。
涙すら出なかった。
兄が微笑んだ。
その笑顔は、
兄が結衣を守るときの微笑みと“全く同じ形”だった。
けれど、その意味は別物だった。
兄の口が動く。
しかし出てくる声は、兄の声じゃない。
「逃げろ」
その声の奥には、
“兄自身の言葉”も確かに混ざっていた。
——このとき結衣は理解した。
兄は、
兄のまま死んでいない。
“何か”に飲み込まれて、
もがいている。
結衣が振り返ろうとした瞬間、
背中に鋭い痛みが走った。
空気が割れる音もしなかった。
ただ、冷たい刃が皮膚を裂く感触だけが残った。
結衣の身体は前に倒れ、
玄関へと転がり出る。
視界が何度も揺れ、
兄の影が遠ざかる。
兄の顔が歪んで見えた。
泣いているようにも見えた。
それが最後だった。
世界がぐらりと傾き、
結衣は意識を失った。




