第8話「祈りを書き換える者」 その4影祈祷師の玉座
足を踏み入れた瞬間、
世界が反転したように、色が消えた。
山の小社の境内。
さっきまで薄暗い夕暮れだった場所が、
まるで水底のように静まり返り、
音が途切れ、空気がゆっくりと沈む。
(……ここが……“祈りの内部”)
八鍵の先端が微かに震える。
量子暗号札がぱちりと光り、周囲の境界線をなぞった。
その瞬間、
世界が“裂けた”。
「っ……!」
目の前に現れたのは、
古い御簾が幾重にも垂れた空間。
柱はなく、天井も床も曖昧だ。
式典用の幕のような御簾が、風もないのに揺れ続けている。
その奥。
黒い玉座が置かれていた。
玉座の周囲には、墨のような祈願書が無数に浮かび、
祈りの文字が勝手に書き換わる。
(……祈願データの自動改竄……
やっぱり、ここが中心……)
八鍵を構えた瞬間、
玉座の前の御簾がざ、と大きく揺れた。
影が現れた。
僧衣──だが、はっきりとした形ではなく、
黒い筆跡が人型になったような“影”そのもの。
顔の部分は深い闇。
ただ、わずかに目の形をした空洞がこちらを見ていた。
『……祈りを……直す者か……』
声が直接、胸の内側から響いた。
「あなたが……祈りを書き換えてる残響ですね」
私は静かに言う。
声が響くと同時に、御簾がひとつ、ぱたりと倒れた。
『直す?
……祈りとは……正すものではない……
導くものだ……
願う者は……弱い……
弱き者には……強き祈りを……上から与えればよい……』
(……この“言い方”……
誰かを利用して、その願いを別の形に変える……
そういう思想……)
私は八鍵を一段階開いた。
影僧は、墨色の指を伸ばす。
空中に浮かぶ祈願書のひとつがぐにゃりと曲がり、
墨が勝手に走りはじめた。
書かれた文字は、
《友人の病の快復》
《代価:願主の心身》
「……勝手に“代価”を付け足すつもりですか」
『代価なくして……願いは成らぬ。
祈りを与える者として……当然の理……』
「与える……?
あなたは祈りを“与えて”いない。
奪っているだけ」
影僧の輪郭がかすかにざらつき、
御簾がゆっくりとめくれた。
その奥、玉座の背後には、
光を吸い込むような黒い板。
そこに無数の名前が浮かんでは消える。
私は目を細めた。
(……芳樹くんだけじゃない……
ここ数ヶ月、願いが叶ったと言われてた人たち……
全員、“ここ”に……)
『願う者の願いを、我が祈りで正す。
それが……救いだ……』
(“正す”?
願いを“正しい形”に変える……?
こんな思想……)
胸の奥に、歴史の授業で聞いた古い名前がよぎった。
「……あなた……誰なんです?」
問いかけると、影僧の頭がゆっくりとこちらを向いた。
『……名を問うか。
ならば教えよう……
我は──』
御簾が一斉に跳ね上がった。
玉座の奥、黒い板の中央に
ひとつの名が鮮やかに浮かぶ。
《弓削》
影僧の声は静かだった。
『弓削法皇……
叶わぬ祈りを、叶う形へと導いた者……
祈りを……我が形に書き換える者……』
(……弓削道鏡……!
“祈りを書き換える”思想……
まさにこの残響……)
祈りの書き換え。
願いの上書き。
それを善と信じた、強烈な思想。
(こんなの……許されるはずがない)
私は息を整え、量子暗号札を両手で構えた。
「……あなたの祈りは、願主を壊す。
その祈りは、“祈り”じゃない」
影僧の周囲に祈願書が渦巻き、
黒い筆跡のような腕が無数に伸びる。
『では……見せよ……
“正しく直す”とは……どういう祈りか……』
私は目を閉じ、一気に息を吸った。
(……恐山で掴んだ、新しい祓詞……
“願いの改竄”に対抗する……逆写しの祓詞……
今なら……使える)
八鍵を振りかざし、足を踏み込んだ。
「祓詞《改祈反照》──!」
空間が裂け、白い光が奔る。
影僧が放った祈願書の嵐が梓の前で跳ね返され、
墨の黒が反転して白い光に飲まれていく。
『……っ……!
祈りを……“戻す”だと……?
そんな祓詞は……存在しない……!』
「“祈りは願主のもの”。
あなたじゃない」
白い光の刃が奔り、
玉座の背後の黒板に刻まれた
**《祈願主:弓削》**の文字が
一つ、また一つと崩れていく。
影僧の輪郭が歪み、声が乱れた。
『……祈りは……力……
力は……支配……
支配こそ……慈悲……!』
「それは祈りじゃない!
ただの“書き換え”。
世界をあなたの形に塗りつぶすだけ!」
祓詞《改祈反照》が最後の光を奔らせ、
影僧の胸へ突き刺さる。
墨がふっと弾け、
影僧は玉座ごと崩れ落ちた。
御簾がゆっくりと舞い落ちる。
最後に、影僧は名を失った声でつぶやいた。
『……願いは……叶うべき……だった……』
影は完全に消えた。
静寂が戻る。
祈願書は白紙へと戻り、
芳樹の願いも、
本来の形へと“修正”された。
(……終わった……)
私は八鍵を下ろし、
静かな闇の奥へ深く息を吐いた。




