第8話 願いを奪うもの 第1章 願いを盗む社
願いは、叶えば幸せになるものだと思っていた。
沢田芳樹は、そう信じたかった。
午前一時四十分。
京都府北部。
市街地から少し外れた山道を、芳樹は一人で登っていた。
大学二回生。
どこにでもいる学生だった。
特別に信心深いわけではない。
神社仏閣に詳しいわけでもない。
ただ、友人を助けたかった。
それだけだった。
足元の石段は雨で濡れている。
街灯はない。
スマートフォンのライトだけが、苔の生えた石を白く照らしていた。
(本当に……ここで願いが叶うのか……?)
噂は、大学のサークル仲間から聞いた。
願いが叶う神社。
場所は誰もはっきり覚えていない。
けれど、辿り着いた者は願いを叶えてもらえる。
病気が治った。
失くしたものが戻った。
試験に受かった。
そんな話ばかりが、SNSに断片的に流れていた。
怪しい。
普通なら笑って終わりだ。
だが、芳樹は笑えなかった。
サークル仲間の武田が倒れた。
原因不明の胃疾患。
検査を重ねても原因は分からず、日に日に痩せていく。
病室で笑う武田の顔が、頭から離れなかった。
『大丈夫だって。すぐ戻るから』
そう言っていた声が、ひどく弱かった。
(あいつが助かるなら……。)
芳樹は石段を登る。
一段。
また一段。
呼吸が白くなる。
山の空気は冷たい。
だが、鳥居が見えた瞬間、奇妙な熱が胸の奥に生まれた。
古い鳥居だった。
木の表面は黒く割れ、注連縄は半分ほど朽ちている。
扁額はかすれて読めない。
その奥に、小さな社が建っていた。
灯りはない。
それなのに、社殿の前だけがぼんやり明るい。
月明かりではない。
提灯でもない。
そこだけ空気が薄く光っている。
「……ここ、なのか。」
芳樹は鳥居の前で足を止めた。
胸が妙にざわつく。
帰った方がいい。
理性はそう告げていた。
だが。
武田の顔が浮かぶ。
細くなった腕。
無理に作った笑顔。
芳樹は鳥居をくぐった。
その瞬間。
背後の山道の音が消えた。
風も。
虫の声も。
遠くの車の音も。
全てが消えた。
残ったのは、自分の足音だけだった。
社殿の前に立つ。
賽銭箱は古く、木目が黒ずんでいる。
鈴緒はあるが、鈴はない。
芳樹は小銭を取り出し、賽銭箱へ入れた。
硬貨が落ちる音が、妙に長く響いた。
ちゃりん。
ちゃりん。
ちゃりん。
一枚しか入れていないはずなのに、何度も音が重なる。
芳樹は息を呑む。
それでも、深く頭を下げた。
「……武田を助けてください。」
声が震える。
「病気が治りますように。」
「もう一度、一緒に大学へ行けますように。」
「お願いします。」
その瞬間だった。
風が止まった。
空気が、水の膜のように揺れる。
社殿の奥に、御簾が現れた。
そこにあったはずのものではない。
空間そのものに吊り下げられたような、薄暗い御簾。
その向こうで。
筆が走る音がした。
すらすら。
すらすら。
和紙を墨が撫でる音。
芳樹は動けない。
(誰か……いる……?)
御簾の向こうに、人影があった。
僧衣のような黒い袖。
細い指。
その手が筆を持ち、何かを書いている。
やがて、芳樹の目の前に一枚の紙が浮かび上がった。
古い祈願書。
墨の匂いが、夜の空気へ滲む。
そこには、確かに書かれていた。
――友人、武田の病の快復。
芳樹は息を呑んだ。
(本当に……。)
(願いを……書いてくれた……。)
安堵が胸に広がりかけた。
その直後。
墨が動いた。
書かれた文字の末尾が、ぬるりと伸びる。
黒い線が勝手に増えていく。
まるで、願いそのものが別の形へ作り替えられていくように。
祈願書の下に、新しい一文が浮かんだ。
――ただし、願主の心身を代価とする。
芳樹の全身が冷えた。
「……え?」
声が裏返る。
「待ってください。」
「そんなこと、願ってない。」
御簾の向こうで、筆の音が止まった。
黒い袖が、ゆっくりと持ち上がる。
顔は見えない。
だが、見られている。
芳樹にはそう分かった。
《願いとは、代償を伴うもの。》
低い声が胸の奥へ直接落ちてきた。
《弱き願いは、叶わぬ。》
《ゆえに、我が正す。》
祈願書の末尾に、さらに墨が走る。
――祈願主、弓削。
芳樹は後ずさった。
「違う……。」
「俺は、ただ武田を……。」
《願いは受理された。》
《代価は、願主より徴収される。》
その言葉と同時に、芳樹の胸の奥が熱くなった。
心臓が、自分のものではない拍子で鳴り始める。
どくん。
どくん。
どくん。
頭の中に、見知らぬ文字が流れ込んでくる。
願い。
代価。
祈願主。
弓削。
自分の名前が、祈願書の端から少しずつ薄れていく。
「やめろ……。」
叫ぼうとした。
だが、声は喉に貼り付いた。
御簾の向こうで、筆がもう一度動く。
すらすら。
すらすら。
芳樹の視界が白く滲む。
(俺の願いが……。)
(俺のものじゃなくなる……。)
最後に見えたのは、御簾の奥で静かに筆を置く影だった。
黒い墨が、その指先から祈りのように滴っていた。
◇
翌朝。
武田は目を覚ました。
病院中が騒ぎになった。
「数値が……正常に戻っています!」
担当医の声は震えていた。
胃壁の炎症は消え、腫瘍のように見えていた影もない。
何週間も改善しなかった血液検査の結果が、一晩で正常値へ戻っている。
「そんな馬鹿な……。」
教授が画像を何度も見比べる。
「昨日まで確かに病変があった。」
「診断ミスではありません。」
「では説明がつかない……。」
病室では武田自身が一番驚いていた。
「あれ……腹痛くない。」
ゆっくりと起き上がる。
食欲が戻っている。
呼吸も軽い。
昨日までの苦しみが嘘のようだった。
その知らせは、すぐに芳樹のもとへ届いた。
『武田、治ったぞ!』
『マジで退院できるらしい!』
『お前、この前何かするって言ってたよな!?』
スマートフォンが何度も震える。
画面を見つめたまま、芳樹は返事ができなかった。
(……叶った。)
(本当に……叶った。)
友人は助かった。
願いは実現した。
それなのに。
胸の奥には、言いようのない違和感だけが残っていた。
昨夜のことを思い出そうとする。
山道。
鳥居。
社。
そこまでは覚えている。
だが、その先が霧のように曖昧だった。
(神社……どこだった……?)
頭が痛む。
思い出そうとするたび、こめかみの奥が鈍く疼く。
「……あれ?」
机の上には、昨夜持っていったはずのリュックが置かれている。
財布もある。
スマートフォンもある。
だが、一つだけ妙なことに気付いた。
(お守り……?)
いつ買ったのか分からない。
黒い布で包まれた小さなお守りが、リュックの中に入っていた。
表には何も書かれていない。
裏にも文字はない。
ただ、触れた瞬間だけ、指先がひどく冷えた。
「こんなの……持ってたっけ。」
記憶にない。
それでも、不思議と捨てる気になれなかった。
その日の昼。
大学構内。
武田は元気な姿で現れた。
「悪いな!」
笑顔だった。
「心配かけた!」
サークル仲間が歓声を上げる。
「奇跡じゃん!」
「ほんとに治るなんて!」
「医者も意味分からんって言ってたぞ!」
皆が笑う。
武田も笑う。
芳樹も笑おうとした。
だが。
口元だけが引きつった。
(……よかった、本当に……。)
そう思うのに。
どこかで、自分の中の何かが静かに欠けている。
「芳樹?」
武田が首を傾げた。
「どうした?」
「いや……。」
答えようとして、言葉が止まる。
胸の奥が空っぽだった。
昨日まで武田を助けたい一心だったはずなのに、その感情が遠い。
薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるような感覚。
「疲れてる?」
「ああ……。」
それしか言えなかった。
講義が始まる。
教授の声が耳に入らない。
ノートを開く。
ペンを握る。
だが、何を書けばいいのか分からない。
視線だけが、ノートの白紙を見つめ続ける。
そのときだった。
紙の上に、一滴の黒い染みが落ちた。
「……?」
インクではない。
墨だった。
ぽたり。
また一滴。
白いノートの上で、墨が勝手に広がっていく。
芳樹は目を見開いた。
周囲の学生は誰も気付いていない。
教授も黒板を書き続けている。
自分だけが見えている。
墨は細い線となり、ゆっくり文字を描き始めた。
《代価 受理》
芳樹の呼吸が止まる。
さらに文字が増える。
《第一段階 完了》
《願主 同期開始》
「……っ。」
喉が急に渇く。
耳鳴りがする。
視界が揺れる。
最後に、一文字だけ。
大きく。
力強く。
墨が書いた。
――弓削。
その瞬間。
芳樹の胸の奥で、誰かが静かに笑った気がした。




