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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている
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第7話 届かないもの 第5章 ひとつになった声

 最初に聞こえたのは、雨音だった。


 静かな雨だった。


 団地の古びた窓を細かく叩き、夜明け前の街をゆっくりと濡らしている。


 木村美咲は、ゆっくりと目を開けた。


 見慣れた天井だった。


 ひび割れた白い塗装。


 薄く染みた水跡。


 自分の部屋だった。


「……あれ……?」


 喉が少し痛む。


 声を出そうとすると、かすれた音が漏れた。


 身体を起こす。


 布団の上にいる。


 夢だったのかと、一瞬思う。


 だが、胸の奥に残る感覚がそれを否定した。


 焼けるような熱。


 誰かの叫び。


 そして――


 優しい声。


「……ありがとう……」


 思わず呟く。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 ただ、確かに何かが終わったのだと感じていた。


 そのとき、部屋の襖がそっと開いた。


「ママ……?」


 小さな声だった。


 小学一年生の息子が、不安そうな顔で立っている。


 寝癖のついた髪。


 まだ眠そうな目。


 それでも、心配そうにこちらを見つめていた。


「大丈夫……?」


 美咲は一瞬、言葉を失う。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……うん、大丈夫。」


 かすれた声だったが、はっきりと届いた。


 息子はほっとしたように息を吐き、部屋の中へ入ってくる。


「なんか……うなされてたよ。」


「怖い夢、見たの?」


 美咲は少しだけ考える。


 そして、首を横に振った。


「……ううん。」


「でもね、最後は……いい夢だったかも。」


 息子は首をかしげる。


 よく分からない、という顔だった。


 それでも、美咲の表情を見て安心したのか、小さく頷いた。


「そっか。」


 その一言だけで、十分だった。


 何も変わらない日常。


 それでも、美咲はゆっくりと息を吐いた。


(戻ってきた……)


 胸の奥にあった重たい何かが、消えている。


 あの空間で感じていた圧迫感も、もうない。


 ただ、ほんの少しだけ――


 寂しさのようなものが残っていた。


 その頃。


 団地の外、雨に濡れた階段の踊り場に、梓は立っていた。


 濡れた手すりに手を置き、静かに空を見上げる。


 雨はもう弱くなっていた。


 灰色の雲の向こうに、朝の光が滲んでいる。


 喉がまだ熱い。


 共鳴封子の余熱が、かすかに残っていた。


 だが、声は戻りつつある。


「……はぁ……」


 小さく息を吐く。


 その吐息に、わずかに音が混じる。


 完全ではない。


 それでも、確かに戻ってきている。


 梓は振り返り、団地の一室を見上げた。


 木村美咲の部屋だった。


(助けられた……)


 残響空間は主人を失えば崩壊する。


 あの場も例外ではなく、歪みを正した瞬間から崩れ始めていた。


 取り残されれば、神隠しと同じように現世から消える。


 だから梓は、意識を失った美咲を抱え、崩れゆく空間の中を必死に駆け抜けた。


 重く、息が詰まりそうなほどの負荷だったが、それでも手を離すことはなかった。


 あのままなら、戻れなかった。


 だが――


 修正は間に合った。


 お七の残響を正し、歪みを解いたことで、世界は本来の形へ戻った。


 そして、美咲もまた、現実へ引き戻された。


 梓は目を閉じる。


(間に合って……よかった……)


 胸の奥に、ようやく安堵が広がる。


 あの瞬間、手を伸ばした感触がまだ残っている。


 消えかけていた存在を、確かに掴んだ感触。


 それが現実だった証だった。


 背後から足音がする。


「終わったか。」


 高峰だった。


 傘も差さず、濡れたまま立っている。


 梓は小さく頷いた。


「……はい。」


 かすれた声だったが、はっきりと音になっていた。


 高峰はそれを聞いて、わずかに目を細める。


「戻ってきてるな。」


「無茶した割には上出来だ。」


 梓は苦笑する。


「……ぎりぎり、でした。」


「だろうな。」


 高峰は団地を見上げる。


「中の住民、全員無事だ。」


「妙な夢を見たって話はあるがな。」


 梓は静かに目を伏せる。


(届いたんですね。)


(最後の声が。)


 雨が止む。


 雲の切れ間から、朝日が差し込む。


 団地の壁を柔らかく照らし、濡れた地面に光が反射する。


 その光の中に、一瞬だけ影が揺れた。


 小さな少女の姿。


 焼け焦げた姿ではない。


 町娘のような、あどけない少女。


 振り返り、嬉しそうに笑う。


《ありがとう。》


 その声だけが、梓には聞こえた。


 次の瞬間。


 少女の姿は光に溶けるように消えた。


 残ったのは、静かな朝の空気だけだった。


 梓はゆっくりと息を吐く。


「……届きましたね。」


 高峰が首をかしげる。


「何か言ったか?」


 梓は首を横に振る。


「いいえ。」


「独り言です。」


 団地の上空では、雲がゆっくりと流れていく。


「おい、真名井!」


 安心した梓は全身の力が抜けていくことを感じながら意識が遠退いていった。


 団地の前には、救急車の赤色灯がまだ回っていた。


 担架に乗せられた梓は、意識を失ったまま運び込まれる。


「真名井! しっかりしろ!」


 高峰の声が、遠くで響いていた。


 だが、その声もやがて遠のき――


 暗闇に沈んだ。


     ◇


 目を覚ましたとき。


 白い天井が視界に広がっていた。


 消毒液の匂い。


 規則正しく鳴る機械音。


 ここが病室だと理解するのに、時間はかからなかった。


「……ここは、どこでしょうか」


 喉が焼けるように痛む。


 声がかすれる。


「気がついたか」


 すぐそばから声がした。


 振り向くと、高峰が椅子に座っていた。


 腕を組み、険しい顔でこちらを見ている。


「……高峰さん」


「無茶しやがって」


 低く、抑えた声だった。


 だが、その奥にある感情は隠しきれていない。


「お前、どれだけ無理したか分かってんのか」


 梓はゆっくりと瞬きをする。


 体が重い。


 喉が痛い。


 全身が軋むようだった。


 体の奥から、どっと疲労が押し寄せてくる。


 お七に焼かれた喉。


 残響空間から人を引き戻した負荷。


 それらが一気に現実へと戻ってきた。


「……っ」


 思わず顔をしかめる。


「無理すんな」


 高峰が立ち上がり、ベッドの横に来る。


「医者にも言われてる。しばらく安静だ」


「……少し、休めば大丈夫かと……」


「“少し”じゃねぇ」


 ぴしゃりと言い切る。


「ちゃんと休め。これは命令だ」


 珍しく強い口調だった。


 梓は少しだけ目を丸くし。


 それから、ふっと力を抜いた。


「……承知しました」


 素直に頷く。


 それだけで、高峰は少しだけ表情を緩めた。


「……ったく」


 小さく息を吐く。


「お前はほんと、放っとくとすぐ無茶するな」


「……仕事ですので」


「だからって限度がある」


 言いながらも、その声はどこか安堵していた。


 梓は目を閉じる。


 体が沈むように重い。


 だが、それは嫌な感覚ではなかった。


 ただ、眠りが近いだけだ。


「……高峰さん」


「なんだ」


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。


 だが、確かに届いた。


 高峰は一瞬だけ言葉を失い。


 それから、そっぽを向いた。


「……寝ろ」


 ぶっきらぼうに言う。


 梓は微かに笑い。


 そのまま、静かに眠りへと落ちていった。


     ◇


 その日の夜。


 病室は静まり返っていた。


 消灯時間を過ぎ。


 廊下の足音も途絶え。


 機械の音だけが、規則正しく響いている。


 ベッドの上で、梓は眠っていた。


 そのとき。


 音もなく、扉が開いた。


 入ってきたのは、一人の男。


 中森だった。


 足音を立てずに歩き、ベッドの横に立つ。


 眠る梓を見下ろす。


「……派手にやったな」


 小さく呟く。


 返事はない。


 当然だ。


 中森は懐から一枚の札を取り出す。


 量子暗号札。


「たまにはサービスしとくか」


 軽く言いながら、札を梓の喉元へと当てる。


 焼けたように傷んだその場所に、そっと触れさせると――


「――祓え給え、清め給え」


 低く、短く祓詞を紡ぐ。


 札が微かに光り、空気が震えた。


 見えない何かが、静かに剥がれ落ちるように消えていく。


 やがて光は収まり、札はただの紙へと戻る。


 中森はそれを指で弾き、ポケットへ戻した。


「……応急処置だ」


 誰にともなく呟く。


 眠る梓の顔を一瞥する。


「たまたま修正がうまく噛み合ってるだけだ」


 その声は淡々としていた。


「滅殺が必要ないってわけじゃねぇ」


 わずかに目を細める。


 何かを見据えるように。


 そして。


「……まぁ、今は寝とけ」


 それだけ言うと。


 踵を返し、静かに病室を出ていった。


 扉が閉まる。


 再び、静寂。


 そして。


 眠る梓の呼吸が、ほんのわずかに穏やかになった。


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