第8話「祈りを書き換える者」 その1 願いの上書き
大学二回生の沢田芳樹は、夜の山道を一人で登っていた。
街の灯りが遠くにちらつくだけで、足元の石段はほとんど見えない。
(ほんとに……ここで願いが叶うのか……?)
きっかけは、サークル仲間の武田が倒れたことだった。
原因不明の重度の胃疾患。
検査を重ねても良くならず、医者の顔色も日に日に暗くなる。
友人を救えるならと、芳樹はSNSで流れてきた噂を思い出した。
「願い事が……全部叶う神社」
怪しい。
どう考えても怪しすぎる。
だが──
噂の投稿主の動画には、確かに“良くなった”という証言がいくつもあった。
病気回復、失踪したペットの帰還、落ちた試験の逆転合格……。
(あいつが……助かるなら……)
石段を登るたび、冷たい風が喉を抜けていく。
やがて、山の上にぽつりと灯る淡い明かり。
小さな社がひっそりと建っていた。
鳥居は古く、木の表面は黒ずんで割れている。
賽銭箱の前には誰もいない。
……いや、違う。
(誰かいる……?)
背筋に、小さなざわめきが走った。
社殿の前、鈴の影に──
僧のような姿が立っている気がした。
(誰か参拝してるのか……?)
近づこうとすると、その影は音もなく霧のように溶けた。
「っ……!?」
(……気のせい……じゃなかった……)
芳樹は震える手で賽銭を落とした。
冷たい金属音が、夜気の中で妙に伸びて響いた。
そして、深く頭を下げる。
「……武田を……助けてください。
病気が、治りますように……
どうか……お願いします……」
祈った瞬間、
風が止んだ。
境内の空気が、薄い水の膜になったように“揺れ”た。
(な……に……?)
視界が、黒い影に歪む。
目の前に御簾が現れる。
社殿の内部ではなく、空間そのものに吊り下げられたような奇妙な御簾。
その向こう側に、何かがいる。
筆の音だ。
すらすらと、紙をなぞる音。
(……誰かが……祈願書を書いてる……?)
御簾が揺れ、黒い袖が一度だけのぞいた。
袖口が僧衣のように広がり、
影のような指が筆を走らせていた。
芳樹は思わず声を飲む。
(……俺の願いを……書いてくれてる……?)
御簾越しに筆の動きが止まった。
次の瞬間、視界に“祈願書”が浮かび上がる。
墨がにじんだ古い和紙。
そこには大きく願いが記されていた。
「友人の武田の病の快復」
(……ちゃんと書かれてる……!)
だが、墨がうねり始める。
(え……?)
願文の末尾が勝手に変形し、
筆跡が嫌に滑らかに伸びていく。
「──ただし、願主の“心身を代価として”」
(……!?)
背筋が凍った。
(俺の……心身……?)
御簾がカッと揺れる。
向こう側に“僧の影”が立つ。
顔は見えない。
だが、その存在は圧倒的だった。
低い声が、直接胸の奥に響いた。
『願いとは……代償を伴うもの。
書き換えた祈りは……正しき道なり……』
「い、いや……ちょっと、待って──!」
叫ぼうとしたが、喉が震えるだけだった。
視界の端に浮かぶ祈願書が、じわりと墨を吸い込み、
最後の一行が黒々と浮かび上がる。
「祈願主:弓削」
(……弓削……?
そんな名前……書いた覚えは……)
芳樹の頭に激痛が走った。
心臓が、別のリズムで脈打ち始める。
(や……め……!)
気づいた瞬間、
視界が真っ白になった。
落ちていく。
願いごとを書き換えられた祈りに、
自分の“心”が吸い取られるように。
(たす……け……)
最後に浮かんだのは、
御簾の向こうで静かに筆を置く“影僧”の姿だった。
その指先には──
黒い墨が、祈りのように滴っていた。




