第7話「響かない叫びの町」 その5 声なき祈りの余韻
翌朝の住宅街は、昨夜の異様な熱が嘘のように消えていた。
焼け跡ひとつ残っていない。ただ、住民たちは揃って喉の奥に違和感を訴え、医者は皆「軽度の声帯炎」と首をかしげた。
息を吸うと少し焼けるように痛む者、歌うと熱が走る者。どれも傷跡はなく、ただ“声の層”だけが薄く擦り切れていた。
梓は静かに町を見渡した。
昨夜、灰の精神層で見た“燃え尽きる町並み”と同じ構図が、今朝の光の下では穏やかな住宅街として広がっている。
それが残響の厄介なところでもあり、美しさでもあった。
「真名井」
背後から高峰が歩いてきた。
声は落ち着いていたが、疲れが隠れていない。
「終わりなんだよな、これで」
「はい。お七さんは……消えたわけじゃありません。正しい場所に戻りました」
「そういう言い方はほんと分かりにくい」
高峰は苦笑した。が、苦笑の裏には昨夜の異常さを受け止めようとする真剣さが見えていた。
「住民の喉の焼け方……あれ、人間がやったもんじゃねぇ。
でも少女の影を見たっていう複数の証言と合わせると……分かってきたよ」
「何が分かったんです?」
「通報した家の男性、泣きそうな顔で喉押さえてただろ。
あれ全部、あの少女の“助けを求めた記憶”だったんだな」
梓はゆっくり頷いた。
「届かなかった声は、残響化します。
助けを求めても届かず、叫んでも掻き消され……
その苦しみが“声そのものの熱”になって残るんです。
お七さんの最期は、そういう形で世界に刻まれてしまった」
「……届かない声、か」
高峰は空を見上げた。
細い雲が朝日に照らされて白く伸びている。
「俺たち、案外……誰かの声を聞き逃してんのかもな」
「人間って、そういうものかもしれませんね」
梓は柔らかく答えたが、その胸の奥にも痛みがあった。
届かなかった祈りは、誰にでも一度はある。
ただ、お七のように“焼かれた声”として残るのは、ごく一部だけだ。
救急隊員が駆け寄ってきた。
「例の男性、命に別状はありません。
声はしばらく出ないでしょうが……ゆっくり治っていきます」
高峰が礼を言い、隊員が離れると、梓は小さく息をついた。
(間に合って良かった……)
八百屋お七の残響は、怨念の形をしていながら純粋だった。
彼女の求めたものはただ一つ。
助けを求める声が、誰か一人にでも届くこと。
その願いが満たされた今、灰の町は静かに消えていった。
梓のスマホが震えた。
画面には中森の名。
『梓、終わったか?』
声の第一音がすでに胡散臭い。
「あなた、いつもタイミングだけは抜群ね」
『褒め言葉と受け取るよ。で、聞きな。
昨日お前が潜った層……“多重”になってただろ?』
「気づいてるわよ。異様に深かった」
『その層が揺れてる。
お前が整えたあと、空いた空間に、別の残響が寄ってきてる。
“声の熱”に惹かれたんだろうな』
梓は眉を寄せた。
「つまり……まだ何かが来てる?」
『ああ。名前に聞き覚えがあったけど……まあ、後で話すよ。
そっちはそっちで準備しときな』
通話は一方的に切れた。
「……ほんとにあの人、性格最悪」
ため息を吐いた瞬間、住宅街の出口でエンジン音が止まった。
黒いバイクが一台。
その上でこちらをじっと見ている人物。
佐々木結衣。
彼女はヘルメットを外さず、梓を一瞥した。
「声……消えたの?」
「あなたも現場に来てたのね」
「気配がしたから。
……今回はあんたの祓詞、正解だったみたいね」
「誉め言葉?」
「事実を言っただけ。
“届かない祈り”って……なんか胸に引っかかるよ」
「……あなたでも?」
「さぁ…私は“滅すべき残響”しか見てない」
結衣はバイクに跨り、エンジンを鳴らした。
排気が朝の空気を揺らす。
「梓…
またすぐ会う。
どうせ次のやつが動き出してる」
「事件じゃないタイミングがいいんだけど」
「期待するだけ無駄」
バイクはあっという間に角を曲がって消えた。
住宅街には再び静寂が広がった。
その片隅に、風に散りきれず残っていたものが一つ。
灰になりかけた、けれど確かに“涙”の跡。
梓はそっとそれを見つめた。
(八百屋お七……
あなたの祈りは、もう焼かれません)
量子暗号札を胸元にしまい、梓はゆっくりと歩き出した。




