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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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第6話「影の消える交差点」 その4 影裁ちの間

 悠斗の意識が落ちた瞬間、梓は量子暗号札を踏み込むように展開し、

 その中心から、患者の精神層へ滑り込む。


 夜の交差点が、ぐにゃりと歪む。

 光が裏返り、アスファルトが黒布のように波うち、

 街灯の影がすべて“こちら側”へと流れ込んでくる。


 そして、世界は──影だけになった。


(……深層。影の層……ここまで強い残響は久しぶりです)


 梓は静かに呼吸し、

 白い息のような祓詞ふつしの余韻を指先に残す。


 足元は水面に似ているのに、踏めば硬い。

 遠くには、何百本もの“首なし影”が揺らめいている。

 それらは、誰かの影だったもの。

 奪われた輪郭の残骸。


 中心に──誰かが立っていた。


 黒衣。

 烏帽子にも似た帽形。

 背筋を伸ばし、足元に無数の影を従えている。


 その姿を見た瞬間、梓の胸が、僅かに締めつけられた。


(……これは……裁く者の“祈りの形”)


 影が、ざわりと揺れる。


「生者が来たか。

 影の側に踏み込むとは、愚かなことよ」


 その声は、深い井戸の底から響いてくるようだった。


「あなたは──」

梓は敬語のまま、丁寧に問いかける。

「患者さんの影を奪った、残響ですね」


「残響……?」

 黒衣の男はゆっくりと首をかしげた。

「いや、我は裁きの執行者。

 名を持たぬ者には、影は不要。

 影のない者は、生者ではない」


「名を奪っているのは、あなたの方です」


「違う。

 我はただ、生と死の間に立つ者。

 影を切り落とし、輪郭を断ち、罪なき者を“向こう側”へ送るだけよ」


 梓は静かに息を吸う。


 影の上で、黒衣の男の影が“不自然に反転して”揺れた。


(……裏返りの影……確定です。

 これは……江戸期の裁きの祈り)


「あなたの名を、教えていただけますか」


 黒衣の男は、影を揺らしながら一歩、近づく。

 次の瞬間、彼の背後の影たちが一斉にひれ伏した。


「我が名……

 山田浅右衛門やまだ さえもん

 影を断ち、首を断ち、罪人の存在をこの世から切り離す者」


 世界が、低く震えた。


 梓はその名を知っていた。

 史書に刻まれた、江戸の死刑執行人。

 都市伝承によって肥大化した“裁きの象徴”。


(……やはり。

 この強さ……祈りの集積です)


「浅右衛門さん」

梓は丁寧に名を呼ぶ。

「ここはあなたの領域ではありません。

 この方たちは“裁かれる罪人”ではない。

 どうか、影を返してください」


「返す必要はない」

 浅右衛門の声は冷たく、濁りがなかった。

「影を失った者は、生者ではない。

 影を返すことは、死刑の取り消しと同じ。

 許されぬ」


「あなたは誤解しています。

 これは罪の裁きではなく、“存在の侵食”です」


「黙れ、生者。

 影を持ちすぎた者は、存在が重すぎる。

 我が裁きは正しい」


 影の海が波打ち、

 無数の影が梓の足元へ群がってくる。


(……対話は不可能。

 ならば、祓いで“祈りの形”を正します)


 梓は八鍵やつかぎの柄に触れ、

 量子札を掌に展開する。


 浅右衛門が、すっと右手を挙げる。

 その動きに合わせ、彼の影から“鎌”が伸びた。

 影を切る鎌。

 存在を薄く削ぐ刃。


「影を寄越せ」


 鎌が迫る。


 梓は歩幅を開き、祓詞の初動を切る。


「祓詞──」


 だが、浅右衛門は速かった。

 影の刃がすでに肩へ迫っている。


(間に合いません……!)


 その時、梓の背後で鋭い空気の断裂音が走った。


 氷のように冷たい声。


「──影に触るな」


 佐々木結衣(ささきゆい)だった。


 結衣は迷いなく影の海へ踏み込み、

 手にした刀──《斬影刀ざんえいとう》を影の鎌に叩きつける。


 金属音はしない。

 音ではなく、“影が削れる音”がした。


「また邪魔が入ったか」

 浅右衛門が目を細める。


「邪魔じゃない。

 影を喰うやつは全部、滅す」


 結衣の声は低く、冷徹。

 その背筋には、怒りとも憎しみともつかない緊張が漂っていた。


「結衣……」

「梓、後ろ下がって。

 コイツは私の型の敵」


(……“兄の事件”の類型?

 そういうこと……)


 結衣の影が、微かに震えていた。

 恐怖ではない。

 怒りでもない。


 “許さない”という意志だけ。


 浅右衛門は、刀を構える結衣を興味深げに見た。


「影を断つ刃を持つとは……

 そなた、何者だ」


「祓屋…

 ──滅殺の方」


 次の瞬間、

 浅右衛門の影が“爆ぜた”。


「来るぞ!」


 梓は結衣の肩を掴んで飛び退く。


 影の海から、無数の影鎌が突き出し、

 二人の足元に噛みつくように伸びた。


 梓は札を構え、祓詞を紡ぎ始める。


 札が白い光を放ち、影の鎌を押し戻す。

 光を浴びた影は、火傷を負うように“じゅっ”と縮む。


 浅右衛門が低く笑った。


を使うか……

 だが、影は光の裏。

 光が強いほど、影も強い」


「そうです。

 だからこそ、“裏返り”を戻します」


 梓は歩を進め、再び祓詞を構える。


 結衣がその前に立つ。


「梓。

 あんたは“影の裏返り”を直せ。

 私は、コイツの核を斬る」


「結衣……無理は──」


「大丈夫。

 これは……“影喰い”は、私の領域」


 浅右衛門の周囲の影が、巨大な渦を巻く。


「影の裁き、受けよ!」


 黒渦が二人を飲み込む。


 梓は札を高く掲げた。


「祓詞《籠影返照法ろうえいへんしょうほう》!!」


 白光が渦に割り込み、

 影の裏返りを一箇所ずつ矯正していく。


 結衣は斬影刀の一閃で、

 浅右衛門の影の鎌を“切断”した。


「──っ!」


 浅右衛門が一瞬、後ずさる。


 影の底が揺れる。

 世界が傾く。


(ここで……行きます)


 梓は最後の祓詞の形を整える。


「祓詞《佑影転調式ゆうえいてんちょうしき》──!」


 光が、影の核へと流れ込む。

 浅右衛門の影が、煙のように分解し始めた。


「影を返せば……

 罪が……歪む……!」


「誰も裁かれていません。

 あなたの役目は、もう終わりました」


「終わり……?

 いや……まだ……首を……」


「さようなら、浅右衛門さん」


 梓の祓詞が光を収束し、

 結衣の斬影刀が最後の影を断ち切る。


 黒い世界が、音もなく弾けた。

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