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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている
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第6話 影を失うもの 第5章 影を生きるもの

 世界が白くほどけていく。


 刑場を渡っていた風が消え、朝焼けも、罪人たちの姿も静かに薄れていく。


 最後に残ったのは、山田浅右衛門の背中だった。


 刀を持たない武士は、一度だけ振り返る。


 その表情は、ようやく長い役目を終えた者の穏やかな顔だった。


《……生きよ。》


 その一言だけを残し、姿は朝日の中へ溶けていった。


 光が弾ける。


 梓は静かに目を開いた。


 病室でも交差点でもない。


 救急車のサイレンが遠くで響いている。


 交差点の歩道。


 膝をついたままの梓は、小さく息を吐いた。


 額には汗が滲み、指先はわずかに震えている。


「……終わりました。」


 高峰がすぐ隣でしゃがみ込む。


「戻ってきたか。」


「はい。」


 梓は頷き、静かに立ち上がる。


 その瞬間だった。


 歩道へ横たわっていた悠斗の指先が、小さく動いた。


「先生!」


 救急隊員が駆け寄る。


 閉じていた瞼がゆっくりと開く。


 ぼんやりと天井――いや、夜空を見上げる。


「……ここ。」


 掠れた声だった。


「俺……。」


 母親が泣きながら手を握る。


「悠斗!」


 少年はゆっくりと母親を見る。


 その目には、ちゃんと感情があった。


「母さん……?」


 その一言だけで十分だった。


 救急隊員たちの緊張が一斉にほどける。


 高峰も静かに息を吐いた。


「助かったな。」


「はい。」


 梓も微笑む。


 しかし、その表情はどこか寂しかった。


 悠斗はゆっくりと身体を起こそうとする。


「影……。」


 その言葉に梓は反応した。


「どうしました。」


 悠斗は震える手で街灯の下を指差す。


「……ある。」


 誰も意味が分からない。


 だが梓だけは分かっていた。


 悠斗の足元には、夜の街灯に照らされた影が、確かに伸びていた。


 少年はその影を見つめる。


 恐る恐る一歩踏み出す。


 影も同じようについてくる。


 また一歩。


 ちゃんと動く。


 もう一歩。


 離れない。


 悠斗の目から、大粒の涙がこぼれた。


「……よかった。」


「俺……。」


「まだ、ここにいる。」


 母親は事情も分からないまま息子を抱き締めた。


 梓はその姿を静かに見つめる。


(影とは。)


(光が作るものではありません。)


(人が、この世界で生きている証。)


(存在の輪郭。)


(だから。)


(失えば、人は自分を見失います。)


 高峰が缶コーヒーを一本差し出した。


「飲め。」


「ありがとうございます。」


 二人は歩道のガードレールへ腰を下ろす。


 救急隊が撤収を始める。


 鑑識も機材を片付けていた。


 交差点は少しずつ、いつもの夜へ戻っていく。


「今回は……。」


 高峰がぽつりと言う。


「人を助けたって感じだったな。」


「いつも助けています。」


「いや。」


 高峰は首を振る。


「今までは事件を止めた、って感じだった。」


「でも今回は違う。」


「一人の人生を、ちゃんと取り戻した。」


 梓は静かに微笑む。


「そう言っていただけると嬉しいです。」


 少しだけ沈黙が流れる。


 高峰は空を見上げた。


「なぁ。」


「はい。」


「影って、本当に存在なのか。」


 梓も同じように夜空を見る。


「人は光だけでは生きられません。」


「光があるから影ができます。」


「影があるから、自分の輪郭を知ることができます。」


「だから。」


「影まで否定してしまえば、人は自分が誰なのか分からなくなるんです。」


 高峰は苦笑した。


「相変わらず難しい話だ。」


「すみません。」


「いや。」


「今なら少しだけ分かる。」


 高峰は自分の足元を見る。


 街灯に照らされた影が静かに伸びている。


 恐山から戻っても。


 火を焼く残響と向き合っても。


 今日もまた、自分はここに立っている。


 その事実だけが、少しだけ嬉しかった。


 救急車の赤色灯が、静かに遠ざかっていく。


 規制線も外され始め、鑑識員たちは機材を片付けていた。


 事故現場だった交差点は、少しずつ日常を取り戻していく。


 誰も知らない。


 ほんの数分前まで、この場所が”影だけの世界”と重なっていたことを。


  ◇


 高峰は缶コーヒーを飲み干し、小さく息を吐いた。


「終わったんだな。」


「はい。」


 梓は静かに頷く。


「対象は……修正しました。」


 ほんのわずかに、言葉を選ぶような間があった。


「もう影は奪われません。」


 その言葉に、高峰は安堵したように笑う。


「なら良かった。」


 だが、その笑みは長く続かなかった。


 梓は交差点を見つめたまま、小さく呟く。


「ただ……」


 高峰は眉をひそめる。


「……迷ったのか。」


「はい。」


「修正で戻すか。」


「完全に断つか。」


 梓はゆっくりと息を吐いた。


「今回の対象は、まだ戻せる余地がありました。」


「だから、私は修正を選びました。」


 少しだけ、視線が揺れる。


「でも。」


「それが正しかったのかは……まだ分かりません。」


 高峰はしばらく黙り、それから肩をすくめた。


「難しい仕事だな。」


「はい。」


「ですが。」


「だからこそ、私たち祓屋がいます。」


 その言葉のあと、しばらく静寂が流れた。


 朝の空気は澄んでいて、どこか現実感が薄い。


 梓は自分の手を見つめる。


 あの瞬間。


 完全に断つという選択肢を前にしたとき。


 滅殺の祓詞は、あまりにも自然に口をつきそうになった。


 迷いなく、迷いを断ち切るための言葉として。


 それを否定しきれなかった自分がいる。


 修正を選んだ今でも。


 あの言葉の正しさを、どこかで認めてしまっている。


 それが、胸の奥に引っかかっていた。


「……私は。」


 梓は小さく呟く。


「戻す方を選びました。」


 高峰は横目で彼女を見る。


「それでいいんじゃないか。」


「……そう、でしょうか。」


「少なくとも。」


「お前は迷った上で選んだんだろ。」


「はい。」


「なら、その迷いごと引き受けるしかない。」


 高峰は軽く笑う。


「簡単に割り切れる仕事じゃないってことだ。」


 梓は少しだけ目を伏せ、それから頷いた。


「……はい。」


 少しの沈黙のあと、高峰はふと思い出したように口を開く。


「そういえば。」


「今回の元凶って、何者だったんだ。」


「ただの通り魔って感じじゃなかったよな。」


 梓はわずかに視線を落とし、静かに答える。


「山田浅右衛門を名乗る影は。」


「江戸時代に実在した首切り役人の名を継ぐ存在です。」


「罪人の首を落とす役目を担い、その技と覚悟で知られていました。」


 高峰は眉をひそめる。


「処刑人か。」


「はい。」


「その名を背負うことで。」


「苦しまずに“断つこと”に意味を見出すようになっていきました。」


「影もまた、切り離せるものだと考えたんです。」


 梓の声は淡々としているが、どこか重い。


「最初は役目としての意識だったはずです。」


「ですが次第に。」


「断つことそのものに執着していった。」


「影を奪われた人間がどうなるかも、理解していたはずなのに。」


 高峰は小さく舌打ちする。


「分かっててやったのか。」


「はい。」


「そして、ある時から。」


「影を断つ事で苦しみを与えず世界から消し去る事こそが、使命だと。」


 梓はゆっくりと息を吐く。


「歪みは、そこからです。」


「役目と信念が混ざって。」


「自分の正しさを疑わなくなった。」


 高峰は腕を組み、低く唸る。


「……厄介だな。」


「はい。」


「だからこそ、完全に断つべき対象でもありました。」


「でも同時に。」


「元に戻れる可能性も、残っていた。」


 梓は静かに言葉を結ぶ。


「だから、迷いました。」


 二人は立ち上がる。


 朝日が交差点を照らし始める。


 長い影が、道路へ伸びていた。


 高峰は歩き出す前に、ふと自分の足元を見た。


 影はある。


 ちゃんとある。


 思わず苦笑する。


「……妙な気分だな。」


「何ですか。」


「さっきの話を聞いたせいか。」


「影があるってだけで、少し安心する。」


 梓はわずかに目を細めた。


「そうですね。」


 二人は並んで歩き始める。


 朝の光を背に受けながら。


 足元には、それぞれの影が静かに寄り添っていた。


 その様子を、誰かが見ていた。


 交差点の向かい側。


 朝日に照らされたビルの窓。


 一瞬だけ。


 窓ガラスから、黒い影が離れた。


 人の形をした影。


 しかし、その足元には影がない。


 次の瞬間には、もう何もなかった。


 梓も、高峰も気付かない。


 影だけが。


 静かに、どこかへ歩き去っていった。

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