第6話 影を失うもの 第2章 祓屋を使うもの
午前三時二十分。
東湾県警本部。
捜査一課とは別棟にある会議室には、夜勤明けの刑事たちの疲労が静かに漂っていた。
机の中央には事故資料が積まれている。
交通事故。
人身事故。
轢き逃げ。
分類だけ見れば、どこにでもある事件だった。
だが、その横には別の資料が置かれている。
防犯カメラの静止画像。
被害者のスマートフォン。
現場写真。
どの資料にも、赤い付箋が貼られていた。
――影が確認できない。
会議室の扉が静かに開く。
黒いスーツ姿の女性が一人、部屋へ入ってきた。
真名井梓だった。
「お待たせいたしました。」
室内にいた刑事たちが軽く会釈する。
彼女が警察官ではないことは全員知っている。
だが、その立場や役割については、誰も詳しく知らされていない。
ただ一つ確かなのは――
説明のつかない案件において、彼女が呼ばれるという事実だけだった。
部屋の奥に座る管理官が立ち上がる。
「真名井さん、こちらへ。」
短くそう告げると、管理官は会議室の奥にある扉へ向かった。
梓は一礼し、その後に続く。
扉の向こうは、小さな応接室だった。
外の喧騒が嘘のように静まり返っている。
他の刑事たちはいない。
完全に隔離された空間だった。
管理官は扉を閉め、鍵をかける。
「ここから先は、限られた者だけの情報になります。」
「承知いたしました。」
梓は静かに頷いた。
管理官は机の上に新たな資料を広げる。
先ほどの会議室にあったものとは違う。
より詳細で、より踏み込んだ内容だった。
「交通事故としては二十件を超えています。」
「ただし、通常の事故では説明できない共通点があります。」
「影、ですね。」
梓が先に言う。
管理官は小さく頷いた。
「高峰からも報告が来ています。」
「現場では、防犯映像にもはっきりと記録されている。」
梓は資料を手に取り、一枚ずつ確認していく。
事故発生位置。
発生時刻。
街灯配置。
監視カメラ。
被害者写真。
そして、事故直前の自撮り写真。
梓の指が止まった。
「……段階的ですね。」
「お気付きになりましたか。」
「はい。」
写真を並べる。
一枚目。
影はある。
二枚目。
少し薄い。
三枚目。
半分だけ欠ける。
四枚目。
完全に消失。
「一度に奪われていません。」
梓は静かに言う。
「少しずつ。」
「存在の輪郭を削っています。」
管理官が眉をひそめた。
「存在の輪郭?」
「影は光学現象だけではありません。」
梓は写真を見つめたまま続ける。
「人が『そこにいる』という情報も影として残ります。」
「それが何らかの形で侵食されている可能性があります。」
応接室の空気がわずかに重くなる。
外の会議室とは違い、ここでは言葉の意味がより直接的に響いた。
「つまり。」
管理官が口を開く。
「影が消えるのではなく。」
「人が少しずつ、この世界から切り離されている、と。」
梓は小さく頷いた。
「現段階では推測です。」
「ですが、その可能性が高いと思われます。」
管理官は腕を組む。
「交通課では、交差点そのものの構造を疑っています。」
「道路照明、信号制御、監視カメラ、反射。」
「すべて調査しました。」
「結果は異常なし。」
梓は静かに資料を閉じた。
「でしたら。」
「相手を知る必要があります。」
「相手?」
「はい。」
「何が原因となっているのか。」
「それが分からなければ、対処方法も決まりません。」
管理官は小さく息を吐いた。
「毎回そこへ行き着きますね。」
「原因を知らずに対処することはできませんので。」
梓は穏やかに答えた。
それが彼女の仕事だった。
戦うことではない。
理解し、
整えること。
管理官は軽く頷いた。
「分かりました。」
「本件については、引き続き高峰を窓口にします。」
「現場との連携は彼を通してください。」
「協力要請も今後は高峰君から直接要請をおこなう事を強化しました。」
梓は一瞬だけ視線を上げる。
「承知いたしました。」
それは、これまでとは少し違う形だった。
これまでは、すべてが上層部を通した極秘の依頼だった。
だが今回は――
現場との距離が、わずかに近づいている。
管理官は続ける。
「彼も今回の件には深く関わっています。」
「あなたとの相性も見たい。」
「今後の体制を考える上でも、ね。」
梓は静かに頷いた。
「理解いたしました。」
管理官は資料を閉じる。
「では、お願いします。」
梓は一礼した。
「全力を尽くします。」
応接室を出ると、夜明け前の廊下は静かだった。
梓は鞄を持ち直し、小さく息を吐く。
「……高峰さん、ですか。」
まだ数度しか顔を合わせていない刑事。
だが、現場を見ている人間だ。
今回の件を解く鍵になる可能性は高い。
梓は歩き出す。
相手を知る。
それが、修正の第一歩だった。
◇
夜明け前の街は、まだ眠っていた。
車も少ない。
信号だけが規則正しく色を変えている。
梓の運転する小さなハイブリッド車は、市街地を離れ、古びた商店街へ入った。
目的地は決まっている。
中森安行の店。
雑居ビルの三階。
看板はない。
知らなければ辿り着けない場所だ。
表向きの顔すら持たない。
裏では祓屋へ呪具を供給する職人。
そして誰よりも”残響の癖”を知る男だった。
ビルの階段を上る。
古びたコンクリートが足音を吸い込む。
三階の奥。
無機質な扉の隙間から、わずかに灯りが漏れていた。
まだ午前四時前。
普通なら閉まっている時間である。
梓は苦笑する。
「……やはり、起きてましたか。」
扉を軽く叩く。
すぐに内側から声が返る。
「開いてんぞ。」
梓は扉を押し開けた。
中は相変わらずの作業場だった。
相変わらず寝癖のついた髪。
作業着姿。
机の上には分解された量子暗号札が並び、細かな電子部品が散らばっていた。
「今回は早かったな。」
「正式依頼を受けました。」
「なるほどな。」
中森は工具を置き、椅子へ深く腰掛ける。
「……交差点だろ。」
梓は少し驚く。
「もうご存じでしたか。」
「俺は情報屋だからな。」
中森は笑う。
「警察より早いこともある。」
梓も静かに微笑んだ。
店内を見回す。
壁には札。
机には札。
棚にも札。
同じように見えて、一枚として同じものはない。
「また仕様を変更されたのですね。」
「ああ。」
中森は一枚の札を放った。
梓が受け取る。
見た目は普段の札と変わらない。
だが、僅かに重い。
「中身を変えた。」
「今回は演算遅延を半分まで削った。」
梓は目を見開いた。
「半分……ですか。」
「多重祓詞前提だ。」
「安定性も上げてある。」
梓は札を裏返す。
微細な回路が以前とはまるで違う。
「かなり大胆な改良ですね。」
「梓ちゃんは祓詞を使う。」
「俺はそれを展開する札を作る。」
中森は笑った。
「役割が違うだけだ。」
梓は静かに頷いた。
「今回の相手ですが。」
資料を机へ置く。
交差点。
事故。
影。
中森は資料を一枚見ただけだった。
「……なるほど。」
「影じゃねぇな。」
梓が顔を上げる。
「違うのですか。」
「影を喰ってるんじゃない。」
資料を指で叩く。
「存在の境界を削ってる。」
「結果として影が消える。」
梓も同じ結論だった。
「私も、その可能性を考えていました。」
「ならそいつが正しい。」
中森は即答した。
「相手は影そのものじゃない。」
「もっと昔からある。」
「役目に縛られた奴だ。」
梓は少し考える。
「裁き……でしょうか。」
「あるいは死。」
「どっちも近い。」
中森は机の引き出しを開け、新しい札を数枚取り出した。
「持ってけ。」
梓は札を受け取る。
「先ほどの改良型……ですね。」
「演算効率を優先してある。」
「遮断と中和を重ねても札が焼けない。」
梓は一瞬だけ沈黙した。
「……おいくらでしょうか。」
中森はにやりと笑う。
「今回も特注だ。」
「一枚、三十万。」
梓はわずかに目を細めた。
「……相変わらずですね。」
「命に比べりゃだいたい安い。」
中森は肩をすくめる。
「それに今回も難物だ。」
「割引はねぇ。」
梓は小さく息を吐いた。
「……期待してません。」
スマートフォンを取り出し、画面を操作する。
指先で認証を済ませ、送金先を確認する。
「今、電子決済でお支払いします。」
「儲かってんな、梓ちゃん。」
数秒後、端末が小さく通知音を鳴らした。
「毎度あり。」
「記録が残る方が助かりますので。」
「真面目だな。」
中森は笑った。
梓は札を丁寧に収める。
「ありがとうございます。」
中森は少しだけ真面目な顔になる。
「梓ちゃんよぉ。」
「はい。」
「今回は、修正だけで考えるな。」
梓は顔を上げる。
「え?」
「影を戻そうとすると。」
「逆に、お前が向こうへ引っ張られる。」
その一言で、店の空気が静まった。
「だから。」
中森は札を一枚、梓へ向ける。
「まず自分の境界を守れ。」
「それから相手を見定めろ。」
「修正は最後だ。」
梓は札を見つめ、小さく頷いた。
「……承知しました。」
中森は最後に笑う。
「それと。」
「高峰をちゃんと使え。」
「現場を見る目は、お前よりあいつの方が上だ。」
梓は少しだけ意外そうな顔をした。
「刑事として、ですか。」
「そうだ。」
「祓屋は残響を見る。」
「警察は人間を見る。」
「その違いを忘れるな。」
梓は静かに一礼する。
「ありがとうございます。」
「行ってきます。」
店を出る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
梓は新しい量子暗号札を掌に収める。
今回の事件は、影ではない。
人と世界を隔てる”境界”そのものが削られている。
そんな予感だけが、胸の奥で静かに形になり始めていた。




