第6話「影の消える交差点」 その1 そこにないもの
最初の通報は、「轢き逃げだ」と言われていた。
深夜二時過ぎ。
繁華街から少し離れた、市内でも交通量の多い四車線の交差点。
地名はどこにでもありそうなものだが、夜になるとタクシーとトラックばかりが目立つ場所だ。
高峰修一は、パトカーの青い回転灯を背に、路面に引かれたチョークの輪郭を見下ろしていた。
輪郭の中は、既に空だ。
さっきまでそこに横たわっていた遺体は、救急隊に引き上げられている。
代わりに残っているのは、黒いシミと、割れたスマートフォン。
それから、ぶつかった車のバンパーの破片。
「被害者は?」
問いかけると、制服警官がメモ帳をめくった。
「二十代男性。会社員です。
名前は──」
警官が答えを言う前に、高峰は手を上げて制した。
「後でいい。
ひとまず状況だ」
「はい。
信号は、被害者側が青。
横断歩道を渡り始めたところを、右折しようとした車両に跳ねられた……という話です。
運転手はそのまま逃走。
ただ──」
「ただ?」
「……目撃者の証言が、少しおかしくて」
“おかしい”という言葉は、この仕事をしているとよく聞く。
飲酒のせいだったり、記憶の混乱だったり、先入観だったり。
だが、たまにその“おかしさ”が、本当に“おかしい案件”に繋がることがある。
「どこがどうおかしい?」
「現場近くのコンビニ店員の証言なんですが……
『車に跳ね飛ばされる直前、その男に“影がなかった”』と」
「影が……なかった?」
「はい。
“街灯の下を歩いているのに、足元が真っ白だった”って、そう言ってます」
高峰は一瞬、返す言葉を失った。
(また変なのが来たな)
頭の片隅に“残響”という単語が浮かぶ。
すぐに打ち消した。
何でもかんでも怪異のカテゴリに入れ始めた時点で、警察官としては終わりだ。
「防犯カメラは?」
「この交差点、最近一斉に更新されたらしくて。
最新式の高感度タイプが四方向についてます。
データはもう押収済みです」
「なら話は早い。
署に戻る前に、ここで一度見せてもらおう」
カメラポールの根元には、既に鑑識がタブレットを広げ、リアルタイムで映像を確認していた。
高峰は隣に立ち、モニターに目を凝らす。
深夜の交差点。
斜め上から俯瞰した映像。
点滅する信号と、遠くを走る車のライト。
再生バーが「02:07」のあたりで止まる。
「ここです」
鑑識が早送りをやめる。
画面内で、被害者の男がフレームの端から現れる。
フード付きのパーカーにジーンズ。
手にはコンビニの袋。
何の変哲もない、酔いもなさそうな足取りだ。
高峰は無意識に“足元”に目を落とした。
白い横断歩道。
その上に、細い脚。
しかし──その下にあるはずの“黒い影”が、ない。
「……照度の問題か?」
「他の歩行者は普通に影が出てますよ」
鑑識が再生を少し戻し、別のタイミングを見せる。
手前を通り過ぎる中年男性。
横断歩道を渡る自転車。
どれも足元には、街灯に引き伸ばされた影が伸びている。
対して、被害者の男だけが──
まるで映像処理で“影だけ切り抜かれた”ように、足元が空白だった。
「カメラの不具合じゃないのか?」
「可能性はありますが……
だったら、その前後も影が消えないとおかしいんですよね。
この人、一分前くらいから別の位置にも映ってますが、そこではちゃんと影があります」
「つまり、“ここに来た時だけ、影が消えた”?」
「そういうことになります」
高峰は腕を組んだ。
画面の中で、男は横断歩道の中央まで進む。
そこへ右折してくるワゴンタイプの車。
ヘッドライトが強く光る。
「ここからスローに」
映像がコマ送りになる。
男がふと顔を上げる。
ヘッドライトの光を横から浴びる。
その瞬間──男と車の間に、“黒いノイズの塊”のようなものが一瞬だけ走った。
「……今の、巻き戻せ」
鑑識が数フレーム戻す。
画面の中央に、モザイクのような黒い揺らぎ。
ピントが合っていない、データの乱れのような、しかし形を保っている“何か”。
次の瞬間、男の体が横に弾かれる。
車のフロント右側にぶつかり、そのまま画面の外へ飛んでいった。
車の運転席側の窓に運転手の横顔が映る。
驚愕した顔ではない。
むしろ“何かを避けようとしてハンドルを切った瞬間”の表情。
「運転手は、目撃証言によると“急に何かが飛び出してきた”と言っていたそうです」
「何か、ね」
映像に映っている“黒いノイズ”を思い返す。
人間の影にしては、あまりにも形が崩れすぎている。
だが、ただのデータ破損にしては、位置が“出来過ぎていた”。
横断歩道の中央。
被害者と車の進路の中間。
影が消えた場所。
運転手は、見えない何かを避けようとして、被害者をはねたのかもしれない。
だが、報告書に「見えない何か」は書けない。
「映像はコピーしておけ。
それと、この交差点での事故件数のデータが欲しい。
直近一年と、可能なら更新前のカメラのログも」
「分かりました」
鑑識がうなずく。
ふと、若い制服警官が恐る恐る近づいてきた。
「あの、高峰警部補……」
「どうした」
「これ、さっきの被害者さんの……」
ビニール袋に入れられたスマートフォンが差し出される。
画面には、割れたガラス越しにカメラアプリのサムネイルが表示されていた。
「事故の前、ちょうどこの交差点で自撮りしてたみたいです。
……ちょっと、変なんです」
高峰は手袋越しにスマホを受け取る。
写真フォルダを開くと、事故直前のものと見られる画像がいくつか並んでいた。
夜の交差点を背景にした、他愛もない自撮り写真。
舌を出したり、ピースサインをしたり。
一枚開く。
背景の街灯は白く滲み、信号は赤。
画面の中央、笑っている被害者の背後に、長く伸びるはずの影はなかった。
ポートレートモードの影処理のせい、と言われれば、そうかもしれない。
だが、被写体の足元まで真っ白に処理するには、不自然な切り取りだ。
「他の写真は?」
「事故の二時間前くらいからのですね。
居酒屋らしき店内、その後、路上で友人たちと撮ってるものもあります」
時間をさかのぼって見ていく。
店内で笑う男たち。
駅前の広場。
ビルのガラス越しに映る姿。
そこには、普通に“影”がある。
信号の下に伸びる黒いシルエット。
街灯に引き伸ばされた輪郭。
異常が現れ始めるのは、問題の交差点に近づいてからだ。
数枚のうち、三枚。
どれもこの交差点を背景にしている写真だけ、“影”が抜け落ちている。
まるで、意図的に塗りつぶされたように。
「……ここは、いつからこんな感じなんだ?」
高峰が呟くと、若い警官が首をかしげた。
「え?」
「この交差点だ。
最近になって事故が増えてないか?」
「ああ……そういえば」
警官はメモを見返しながら言う。
「一ヶ月くらい前から、妙に人身事故が続いてるらしいです。
それまでは物損が多いだけで、そんなに大きな事故はなかったんですが……」
「件数と内容、整理して出してくれ。
できれば、全部の事故の監視映像も確認したい」
「はい」
警官が駆けていく。
高峰は交差点を見渡した。
まだ規制線が張られ、人も車も遠巻きに避けている。
信号機は淡々と色を変え続けていた。
昼間なら、平凡な交差点だ。
だが、夜の今は、どこか“照明の届かない空白”が散らばっているように見える。
(影が消える交差点、ね……)
冗談にもならないフレーズが脳裏をよぎる。
その時、無線が鳴った。
『こちら指令。
昨夜の別件人身事故の件、高峰警部補に共有。
同じ交差点で、影のない被害者の目撃証言が複数あり』
「……やっぱりか」
舌打ちしたくなる衝動を飲み込む。
同じ場所。
同じ時間帯。
“影のない人間”が車に跳ねられる。
統計学的に説明できる偶然ではない気配があった。
だが、今ここで「これはおかしい」と声を上げれば、
周りの警官たちは皆、瞬時に“超常案件”を想像してしまうだろう。
それは避けたかった。
(順番だ。
まずは警察としてやることをやる。
それでも説明できなかったら、その時だ)
高峰は、交差点の中央へと歩き出した。
まだ道路は規制されている。
アスファルトの中央に立ち、四方の街灯を見上げる。
どのライトも点いている。
照度不足ではない。
光の方向も問題ない。
つまり、「影ができない環境」ではないのに、影が消えている。
見えない何かが、足元の“影のデータ”だけを抜き取っている。
そんな馬鹿げた仮説が、一番しっくりきてしまう。
「……面倒だな、本当に」
独り言のように呟いてから、ポケットからスマホを取り出す。
指が、登録済みの名前へと自然に滑っていく。
【祓屋】
通話ボタンに親指をかけて、数秒ほどそのまま迷う。
以前なら、こんな現象を“科学的に説明できる範囲”で処理しようと粘ったはずだ。
だが今は、
自分が見たもの、体験したものの重みを、
もう誤魔化せない。
通話ボタンを押す。
呼び出し音が一度鳴り、すぐに止まった。
『……真名井です』
いつもの落ち着いた敬語。
電話越しでも、そこだけ空気が違う。
「また、変な現場だ」
『そうですか。
どちらにいらっしゃいますか?』
「交差点だ。
人が一人、車に跳ねられた。
それ自体はよくある。
──問題は、そいつに“影がなかった”って点だ」
短い沈黙の後、梓の声が少しだけ低くなった。
『影、ですか』
「ああ。
防犯カメラにも、自撮りにも、影が映っていない。
ここ一ヶ月、この交差点で似た事故が続いてるらしい」
『……交差点。
光の方向は一定ですか?』
「四方向からの街灯。
どっから見ても、影はちゃんと出るはずの環境だ。
なのに、“特定のタイミングだけ消える”」
『分かりました。
すぐに向かいます』
「……さっきもどこかで聞いた台詞だな」
『今度は、火ではないのですね。
“光と影”の方ですか』
「そういうのを分類できる時点で、お前の世界の話だろ」
軽口を叩きながらも、
どこかでホッとしている自分に気づく。
『影が消える現象……
とても嫌な予感がします。
どうか、それ以上の被害が出る前に、辿り着けますように』
「祈る相手は、そっちのOSか?」
『いえ。
この世界の“理”の方です』
通話が切れた。
高峰はスマホをポケットに戻し、横断歩道の端に立った。
信号が変わる。
青になった。
歩行者用の信号機のランプが、静かに点滅を始める。
その光の下で、自分の足元に影が伸びているのを確認し、
ほんの少しだけ、胸を撫で下ろした。
今のところ、自分の影はまだ、ちゃんとそこにある。
──問題は、いつまであるか、だ。
そう思った瞬間、
なぜか背筋に、冷たい汗がにじんだ。




