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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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第5話「焦げ落ちる病棟」 その3 燃やされる名

 暗闇に沈む……と思った瞬間、どこか遠くで、布を焦がすような匂いがした。

 鼻腔に入り込む、あの“焦げ”の臭い。

 脳髄の奥を、黒い指先でなぞられたような感覚。


(……まただ。火の匂い……)


 患者――いや、もう“患者だったはずの自分”は、眠りと覚醒の狭間にいた。

 体はベッドに寝ている。

 でも意識は、何かに引かれるように、ゆっくりと別方向へ落ちていく。


 息が熱い。

 喉が乾く。

 皮膚がじわじわと焼かれている錯覚。


(誰か……いる……)


 まぶたを閉じているのに、“光る揺らぎ”が見える。

 それは焚火のようで、炎のようで、けれど色が違う。

 赤でも橙でもなく、もっと暗い――血が焦げたような黒い炎。


 その“黒炎”の向こうに、何かが動いた。


 猫だ。

 猫の形をした“影”だ。

 だが、その輪郭はあまりにおかしい。


 尻尾が、燃えている。

 しかし炎は揺れず、むしろ逆向きに流れている。

 猫の足音は“水音”だった。

 パシャ……パシャ……と濡れた足が床を叩く。

 濡れた足跡が、黒炎の上に浮かぶ。


(どうして……水? 燃えてるのに……)


 猫影は、ゆっくりとこちらを振り返った。

 瞳だけが鮮烈な黄色で、溶けた蝋燭のように垂れていた。


 ――誰かが、呼んでいる。


 それは猫の声ではなかった。

 背後から、男の声が落ちてくる。


 “名を、答えよ”


(名……?)


 自分の名前を言おうと口を開く。

 だが、発音する前に、言葉が溶け落ちた。

 脳の中で、名前の輪郭が灰になって散っていく。


(……あれ? なんだっけ……)


 焦りが胸をかすめる。

 だが、今度は別の声が重なる。


 “名無くば、罪は燃える”


 黒炎がぱっと広がる。

 火ではない、“熱い記憶”が焼けて飛んだ。


(俺は……誰だった……?)


 猫影が再びにじり寄る。

 歯があるのに笑っている。

 いや、歯に見えるのは、焼けて縮んだ白骨のようなものが覗いているだけかもしれない。


 黒炎の奥――“男の姿”が見えた気がした。


 着物のような古い服装。

 頭巾のような黒い布。

 手には縄……いや、縄の“影”。

 影が揺れ、“括りつける”ような気配を持っている。


 男は淡々と告げた。


 “己の名を失う者は、焼かれる他なし”


(待って……俺は……)


 また名前を探す。

 けれど、脳の中のその場所は、すでに灰になっていた。

 焦げた穴に指を突っ込むような痛み。


(どうして……思い出せない……!)


 黒炎が迫る。

 猫影が喉元に顔を寄せる。


 水音がした瞬間、黒炎が跳ねた。


 火と水が同時に触れたような“じゅっ”という音が耳に落ちる。

 そして、皮膚が焼ける錯覚が走った。


「やめ……っ」


 声は出たが、音は黒炎に吸われた。

 何かに“上書きされている”感覚があった。


(俺の……記憶が……書き換えられてる……?)


 理解はしたが、抵抗はできなかった。

 黒炎の中で、自分の思い出が次々と燃えていく。


 家族の顔。

 仕事の制服。

 好きだった料理の味。

 誰かに怒られた日の記憶。

 褒められた日の記憶。

 何かを諦めた日の記憶。

 すべてが、黒炎に食われていく。


 最後に残ったのは、

 “誰かが自分を呼んだ声”だけだった。


 黒炎の男が、こちらへ顔を向ける。

 目は暗闇の底のように深かった。


 “名が無ければ、存在に非ず”

 “燃やし、運ぶ。残すもの無し”


(……連れて行かれる……)


 失われた名前の穴が、胸のあたりに杭を打たれたように痛む。

 黒炎の男が手を伸ばしてくる。


(やめろ……)


 その時だった。


 ――どこか遠くで、“札が鳴る音”がした。


 ぱん、と乾いた音。

 水面を叩くような音。

 黒炎がざわりと揺れる。


 猫影が不快そうに背を丸めた。


『……大丈夫です。聞こえますか?』


 女性の声。

 低く、落ち着いた、どこか祈りに似た響き。


 黒炎の奥から、その声が染み入ってくる。


(誰……?)


真名井まない あずさと申します。

 あなたを、探して来ました』


 その声が落ちた瞬間、黒炎が一部だけひび割れた。

 焼け焦げた世界に、細い光が差し込む。


 黒炎の男が、こちらを振り返る。

 その目が、わずかに怒りを孕んでいた。


(……助かる……?)


 そう思った瞬間、黒炎が再び強く燃え上がった。


 男の声が響く。


 “来るな”


 黒炎の奥――梓の声が、消えかけながらも確かに言った。


『あなたの名前……まだ、燃え尽きていません。

 どうか、残っている部分を、私に見せてください』


 焼け落ちる記憶の中で、患者は涙が出るほどの安堵を覚えた。


(……名前……名前……)


 それを探そうとすると、黒炎の男が手を伸ばし、

 胸の奥の灰になった場所を握ろうとする。


“名を燃やす”


 だが、患者は必死に意識を伸ばした。


(やだ……消えたくない……)


 そこに、また梓の声が落ちる。


『大丈夫です。もう少し……


 私が、辿ります』


 光が少しずつ、黒炎に亀裂を入れていく。


 だがその瞬間、

 黒炎の奥で、男の姿が“はっきり”とこちらを向いた。


 その顔は――

 どこかで見た古い絵巻物のような、

 江戸の裁きの席に座る者のような、

 恐ろしくも冷静な眼差しだった。


 そして男は、はっきりと呟いた。


“名を、焼く”


 世界が黒く跳ねた。


(あ……俺……)


 砕けるように、意識が暗転する。


 最後に聞こえたのは、梓の声だった。


『……絶対、助けます』


 その言葉だけが、

 黒炎に食われる前の“最後の記憶”として残った。

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