第5話 名前を焼くもの 第4章 燃える名前
東湾医療センターの病棟は、不自然なほど静かだった。
昼過ぎにもかかわらず、人の話し声が少ない。
ナースステーションでは看護師たちが小声で会話を交わし、廊下を歩く職員も無意識に足音を殺していた。
病院全体が、何かを恐れている。
そんな空気だった。
エレベーターの扉が開く。
真名井梓は静かに病棟へ足を踏み入れた。
胸元には量子暗号札。
右手には八鍵。
まだ抜いてはいない。
戦うためではなく、視るために来た。
廊下の先では、高峰が待っていた。
「お待たせしました。」
「いや。」
高峰は短く答える。
「状況は変わってない。」
「患者は?」
「意識はある。」
「だが、自分の名前だけが思い出せない。」
歩きながら病室へ向かう。
白い廊下。
磨かれた床。
消毒液の匂い。
その中へ、焦げ臭さだけが細く混じっていた。
梓は歩みを止める。
「……どうした。」
高峰も立ち止まる。
「匂いです。」
梓は床へ視線を落とした。
「焦げています。」
「まだ残っています。」
高峰は辺りを見回す。
「俺には何も見えない。」
「見えません。」
梓は静かに答える。
「ですが。」
「歩いています。」
その言葉に、高峰の表情がわずかに変わった。
「何が。」
「まだ分かりません。」
「でも。」
「患者さんではありません。」
梓はゆっくり床へしゃがみ込む。
磨かれた床へ指先を近付ける。
触れない。
数ミリ手前で止めた。
「……水。」
小さく呟く。
「濡れています。」
「見えるのか。」
「いいえ。」
「感じます。」
指先へ冷たい違和感だけが伝わってくる。
恐山で覚えた感覚だった。
残穢が濃い場所では、世界そのものがわずかに歪む。
ここも同じだった。
病室ではない。
病院そのものへ、何かが染み込んでいる。
梓はゆっくり立ち上がった。
「高峰さん。」
「この病院だけでは終わりません。」
「俺もそう思ってる。」
高峰は資料を差し出す。
「さっき本部から来た。」
全国の発生地点。
赤い印が少しずつ増えている。
梓は一枚ずつ目を通した。
北海道。
宮城。
新潟。
長野。
東湾。
そして、隣県。
「移動していますね。」
「ああ。」
「しかも旧街道沿いだ。」
梓はゆっくり息を吐いた。
「人を追っているのではありません。」
「道を辿っています。」
「道?」
「はい。」
「昔から人が祈り、送り、別れてきた道です。」
高峰は眉を寄せた。
「つまり。」
「死者の道……か。」
「可能性はあります。」
病室の前へ着く。
高峰が扉を開けた。
ベッドには男性患者が横たわっていた。
胸には包帯。
顔色は悪い。
モニターは正常値を示している。
だが、その目だけが落ち着きなく天井を泳いでいた。
「……誰か。」
患者が呟く。
「歩いてる。」
梓が近付く。
「何が見えますか。」
患者は震える指を病室の入口へ向けた。
「あそこ。」
「黒い。」
「猫。」
高峰は振り返る。
誰もいない。
廊下にも異常はない。
「どこだ。」
梓だけは入口を見つめたままだった。
「……いました。」
静かな声だった。
「今。」
「こちらを見ていました。」
高峰の背筋へ冷たいものが走る。
「見えたのか。」
「一瞬だけ。」
「もう消えました。」
その瞬間だった。
病室の照明が、小さく明滅する。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
心電図モニターの電子音が乱れ始める。
患者の呼吸が急激に浅くなった。
「熱い……。」
患者が胸を押さえる。
「熱い……。」
梓の瞳が鋭くなる。
「高峰さん、下がってください。」
右手で八鍵を抜く。
左手には量子暗号札を二枚。
札が静かに光を帯びる。
梓は患者を真っ直ぐ見据え、静かに祓詞を紡いだ。
「――遮断・静界。」
二枚の札が淡い青白い光となり、患者の周囲へ円を描く。
同時に、梓はもう一枚の札を指先へ挟んだ。
「――中和・整調。」
淡い光が患者の胸へ染み込んでいく。
荒れていた呼吸が少しずつ整い始めた。
心電図も正常値へ戻る。
だが。
病室の窓ガラスだけが黒く染まった。
ガラスに映るのは病室ではない。
黒い猫だった。
黄色い瞳だけを光らせ、こちらを静かに見つめている。
その姿は、高峰には見えない。
梓だけが見ていた。
猫はゆっくりと口を開く。
鳴き声はしなかった。
代わりに。
誰かの声だけが、病室の奥から静かに響いた。
《――名を。》
その声は耳から聞こえたものではなかった。
病室の空気そのものが、誰かの言葉を記憶していたような響きだった。
梓は窓ガラスを見つめたまま動かない。
黒猫は、まだそこにいた。
黄色い瞳だけを静かに光らせ、自分を見返している。
「高峰さん。」
梓が静かに口を開く。
「患者さんから目を離さないでください。」
「何がいる。」
高峰が低く問い返す。
「まだ断定できません。」
梓は首を横へ振る。
「ですが、こちらを見ています。」
高峰は窓を見る。
何も映っていない。
自分と梓、病室の景色だけだ。
それでも、高峰は否定しなかった。
恐山で見た。
見えないものが、人を壊す瞬間を。
患者が突然、大きく息を吸い込んだ。
「やめろ……。」
胸を押さえ、苦しそうに身をよじる。
「来るな……。」
「名前を……。」
「呼ぶな……!」
心電図が乱れた。
警告音が病室へ鳴り響く。
看護師が駆け寄ろうとする。
「入るな!」
高峰が鋭く制止した。
梓は患者の傍らへ膝をつく。
左手へ量子暗号札を一枚。
患者の額へ静かにかざした。
「聞こえますか。」
「私は真名井梓です。」
「あなたを助けに来ました。」
患者の瞳がわずかに動く。
焦点は合わない。
だが、声だけは届いていた。
「……燃える。」
「全部……。」
「俺の……。」
言葉が止まる。
思い出そうとしている。
しかし、その先がない。
梓は静かに祓詞を唱えた。
「――中和・整調。」
量子暗号札が淡く輝く。
患者の呼吸が少しだけ整う。
だが同時に、病室全体の温度が上がり始めた。
「暑い……。」
看護師が額の汗をぬぐう。
「暖房は……。」
「止めたままだ。」
高峰が即答する。
暖房は停止している。
それでも空気だけが熱を帯びる。
焦げ臭さが濃くなる。
梓は静かに目を閉じた。
(違います。)
(患者さんだけではありません。)
(病室全体が侵食されています。)
恐山とは違う。
土地ではない。
人の記憶を媒介に、この空間そのものを書き換えようとしている。
患者だけを守っても終わらない。
その時だった。
患者が突然、梓の腕を強く掴んだ。
「先生!」
看護師が息を呑む。
患者は梓だけを見ていた。
「……助けて。」
掠れた声だった。
「俺の名前……。」
「どこへ行った……。」
梓は患者の手を包み込むように握る。
「大丈夫です。」
「まだ失われていません。」
「全部ではありません。」
「本当……ですか。」
「はい。」
患者の目から涙が流れ落ちる。
「妻の顔は……。」
「娘の顔も……。」
「見えるんです。」
「でも……。」
「名前だけが……。」
梓は目を伏せた。
名前だけを焼く。
名前だけを奪う。
人との繋がりだけを切り離していく。
なんて残酷な侵食なのだろう。
その瞬間。
窓ガラスの黒猫が立ち上がった。
黄色い瞳が細くなる。
そして。
鏡の向こうから歩き出すように、一歩だけ踏み出した。
梓だけが、その姿を見ていた。
「……!」
八鍵を構える。
しかし黒猫は病室へ入らない。
入口の前で立ち止まり、静かに廊下の奥へ歩いていく。
パシャ。
パシャ。
濡れた足音だけを残して。
梓は八鍵を下ろした。
「追いません。」
「いいのか。」
高峰が問う。
「はい。」
「追えば、こちらが誘導されます。」
一拍置いて、梓は病室を見渡した。
「場所が分かりました。」
「どういう意味だ。」
「原因は患者さんの外ではありません。」
梓は患者へ視線を向ける。
「この方の内側です。」
「内側?」
高峰の表情が曇る。
「正確には。」
梓はゆっくりと言葉を選んだ。
「名前があった場所です。」
「名前が……あった場所?」
「はい。」
「名前を焼かれたことで。」
「そこへ、別の存在が入り込んでいます。」
病室が静まり返る。
誰も言葉を発せない。
高峰だけが静かに問い返した。
「……そんなことが。」
「できます。」
梓は静かに頷く。
「だから現実で祓詞を重ねても、一時的に侵食を抑えることしかできません。」
「根本は残ったままです。」
「なら、どうする。」
高峰の問いに、梓は患者を見つめたまま答えた。
「患者さんの記憶を、お借りします。」
「記憶?」
「はい。」
「名前を失った空白へ入ります。」
八鍵を握る右手へ力が入る。
左手には量子暗号札が静かに並ぶ。
「そこにいる存在と直接向き合わなければ、この方は助けられません。」
午後三時。
病室の時計が静かに時を刻む。
患者の呼吸だけが微かに響く中、梓はゆっくりと目を閉じた。
ここから先は。
現実では届かない。
名前を失った、その空白の世界へ足を踏み入れる。




