番外編 寄生型残響・藤田宏和事件 その4 受胎の暴走
わずかに、
ドアが軋んだ。
内側から。
結衣がノブに力を込めるよりも先に、
向こうが動いた。
金属の擦れる音と一緒に、
室内の空気が漏れ出してくる。
生暖かく、
湿った空気。
甘さと、
鉄の匂い。
結衣の視界がスライドする。
ドアが、
内側から引き開けられた。
藤田宏和が、立っていた。
照明に照らされた顔は、
もう人間の輪郭じゃなかった。
皮膚が、不自然に引き延ばされている。
骨格の位置が、少しずれている。
目の間隔が、以前より広い。
けれど、目だけは異様に澄んでいた。
生きている目ではなく、
“通路”のような目だった。
その背後で、
女が立っている。
藤田の恋人。
だが、
目が合わない。
焦点が、結衣ではなく、
藤田の背中を見ている。
まるで、
そこに別の“誰か”がいるように。
「……来ると思ってたぞ」
藤田の口が動く。
だが声は、
ひとつじゃなかった。
二層で、
重なって響く。
「お前みたいなのが、
そろそろ来る頃だ」
結衣は、一歩踏み出した。
その瞬間だった。
背後から、
小さな足音。
そして声。
「パパ……?」
部屋の奥から、
子供が顔を出した。
まだ眠そうな目。
布のくたびれたパジャマ。
現実にいる子供の姿。
結衣の視界の端で、
数値が弾け上がる。
《寄生干渉率:97%》
嫌なタイミングだと理解したときには、
もう遅かった。
藤田の身体が、
わずかに痙攣した。
いや、痙攣じゃない。
“内部”から引っ張られている。
指が、
不自然な角度に曲がる。
腕が、
ガクンと跳ねる。
「……あ?」
女の声が、震える。
「ヒロ……くん?」
藤田の口が歪んだ。
笑っているのか、
裂けているのか、
判別がつかない形で。
「悪ぃな……」
「これ、
コントロール効かねぇんだわ」
次の瞬間、
藤田の腕が、
人間の可動域を完全に無視して動いた。
音が鳴った。
骨の鳴る音。
空気が裂ける音。
女の喉から、
声にならない音が漏れる。
藤田の手が、
彼女の首元を掴んでいた。
速すぎて、
悲鳴は間に合わない。
「——っ!」
結衣が動く。
が、その刹那。
足元の床が、
ぬるりと波打った。
残響が、空間にまで干渉し始めている。
現実そのものが、
コードのように歪む。
その隙に、
藤田の首が、
異様な角度に曲がり、
女の顔に
自分の額を押しつけた。
「……ほら」
二重に重なる声。
「もう、
逃げ場ねぇだろ?」
次の瞬間、
子供が叫んだ。
「ママァッ!!!」
振り向いた藤田の目が、
子供を捉える。
それは、
父親の目じゃない。
獲物を見る目だ。
結衣は歯を食いしばり、
八鍵を展開する。
「……やめろ」
低く、漏らす。
だが藤田は、ゆっくりと子供の方へ向き直る。
一歩。
異様に長くなった指を、
持ち上げる。
子供が後ずさる。
足が、絨毯に引っかかる。
転びそうになる。
「パパやだ……」
藤田の口から、
泡のような笑いが漏れる。
「違ぇよ」
「もう、パパじゃねぇ」
その瞬間、
結衣が床を蹴った。
だが、
間に合わなかった。
藤田の指が、
子供の肩に触れた瞬間、
空気が
ひしゃげた。
音が潰れた。
叫び声が、
途中で断ち切られた。
結衣の視界の端で、
通信ログが明滅する。
《INTEGRATION COMPLETE》
《HOST REWRITE FINISHED》
藤田の身体が、
ぴたりと静止する。
彼の顔が、
ゆっくりとこちらを向いた。
もはや人間の慈悲は、
どこにもない。
「……さて」
二つの声が、
完全にひとつになる。
「次は、お前だ」
結衣は、
ゆっくりと八鍵を構え直した。
まばたき一つしない。
感情もない。
ただ、
目の奥にだけ、
小さな揺れがあった。




