表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
225/226

第41話 鏡の中枢 第3章 映る側

 施設の中は、外よりも静かだった。


 音がないわけではない。だが、すべてが一段階落とされている。足音は吸われ、衣擦れは消え、呼吸の音さえ輪郭を失う。残るのは、時折どこかで鳴る硬質な反響だけだった。鏡同士が微かに触れ合うような、乾いた音。それが一定の間隔で繰り返される。


 廊下は長い。


 直線のようでいて、途中からわずかに曲がっている。だが、曲がっているはずの先が見えている。距離と角度が一致しない。視界は連続しているのに、空間の構造が噛み合わない。


 愛音は歩く。


 迷いはない。


 目的地を知らなくても、行くべき場所は分かる。主から渡された“方向”が、そのまま身体の中にある。考えなくても足が向く。


 壁に、鏡がある。


 丸いもの。


 四角いもの。


 縁が欠けたもの。


 歪んだもの。


 磨かれたばかりのように光るもの。


 それらが、無秩序に並んでいる。


 愛音の姿が映る。


 だが、同じではない。


 一つの鏡では、笑っている。


 別の鏡では、無表情。


 別の鏡では、泣いている。


 さらに別の鏡では、目を見開いたまま固まっている。


 どれも愛音だ。


 だが、どれも“今の愛音”ではない。


 別の可能性。


 別の選択。


 別の状態。


 それが、同時に存在している。


 愛音は立ち止まらない。


 見ているが、見ていない。


 興味がない。


 ただ、奥へ進む。


 廊下の途中で、人がいた。


 背を向けて立っている。


 白衣のようなものを着ている。


 研究者。


 あるいは、それに似せた何か。


 愛音が近づくと、その人物が振り返る。


 顔は普通だった。


 どこにでもいる男。


 だが、その目だけが違う。


 焦点が合っていない。


 どこを見ているのか分からない。


《止まれ》


 声が落ちる。


 命令。


 だが、その言葉に力はない。


 言葉だけが存在している。


 愛音は止まらない。


 そのまま通り過ぎる。


 男はそれを見ている。


 見ているだけだ。


 止めようとしない。


 止める理由が、途中で消えている。


 そのまま、壁の鏡へと目を向ける。


 鏡の中の自分が、違う顔をしている。


 それを見て、男は小さく呟く。


《違う……これは……》


 その言葉は途中で消える。


 次の瞬間、鏡の中の“別の顔”が、前へ出る。


 男の身体が、わずかに揺れる。


 そして——


 表情が変わる。


 先ほどまでの戸惑いが消える。


 代わりに、落ち着いた顔になる。


《問題ない》


 同じ声。


 だが、中身が違う。


《これでいい》


 そのまま、何事もなかったかのように立ち直る。


 先ほどまでの人格は、もうない。


 消えたのか、奥に押し込まれたのか。


 分からない。


 だが、今そこにいるのは“別の誰か”だった。


 愛音は振り返らない。


 関係ない。


 その程度の変化では、対象にならない。


 さらに奥へ進む。


 空気が変わる。


 鏡の数が増える。


 壁だけではない。


 床にも、天井にも。


 すべての面に鏡がある。


 どこを見ても、自分が映る。


 だが、同じではない。


 笑っている。


 怒っている。


 何も感じていない。


 壊れている。


 無数の“自分”が、そこにいる。


 その中の一つが、こちらを見ている。


 他とは違う。


 動いていない。


 ただ、じっと見ている。


 愛音も止まる。


 その鏡の前で。


「それ?」


 小さく言う。


 問いではない。


 確認。


 鏡の中の愛音が、ゆっくりと動く。


 こちらと同じ動きではない。


 遅れているわけでもない。


 独立している。


《違う》


 声がする。


 鏡の中から。


《それではない》


 別の鏡が揺れる。


 別の愛音が前へ出る。


《こっちだ》


 さらに別の鏡。


 さらに別の顔。


 無数の“候補”が、前へ出ようとする。


 どれも“自分”だと主張する。


 どれも“正しい”と言う。


 選ばせようとしている。


 その中から、一つを。


 最適なものを。


 それが、この空間の構造だった。


 愛音は首を傾げる。


「いっぱいあるね」


 興味はある。


 だが、迷いはない。


「でも、いらない」


 その一言で、空間が揺れる。


 鏡が軋む。


 映っていた像が、わずかに歪む。


《なぜだ》


 声が落ちる。


 今度は奥から。


 すべての鏡の奥。


 中心から。


《選ばねばならぬ》


 低い声。


《最適を定めねば、器は崩れる》


 愛音は考える。


 ほんの一瞬だけ。


「主様が決めるから」


 答えは単純だった。


 自分で選ばない。


 必要がない。


 外部に委ねている。


 それが、愛音の構造だった。


 鏡の奥で、何かが止まる。


《外部定義か》


 声が変わる。


 わずかに興味が混じる。


《ならば——》


 次の瞬間、鏡が一斉に光る。


 映っていた像が、すべて前へ出る。


 愛音の周囲を囲む。


 無数の“愛音”が、同時に動く。


 笑うもの。


 怒るもの。


 泣くもの。


 壊れたもの。


 すべてが、同時に手を伸ばす。


 愛音へ。


 取り込もうとする。


 定義を上書きしようとする。


 “最適な愛音”へと作り変えようとする。


 愛音は動かない。


 逃げない。


 ただ、そこに立つ。


 手が触れる。


 すり抜ける。


 意味が成立しない。


 掴めない。


 流し込めない。


 夢の時と同じ。


 内側に“流れ込む余地”がない。


《……入らぬか》


 声が揺れる。


 初めての反応。


 想定外。


 愛音はそのまま一歩踏み出す。


 鏡の一つへ。


 中心へ。


「じゃあ、こっち」


 選ぶのではない。


 捕まえる。


 そのまま手を伸ばす。


 鏡に触れる。


 冷たい。


 だが、すぐに割れる。


 音はない。


 だが、確かに砕ける。


 その奥に、もう一つの空間がある。


 そこに、“本体”がいる。


 愛音は笑う。


 少しだけ。


 楽しそうに。


「見つけた」


 次の瞬間、奥から何かが動いた。


 鏡の奥。


 無数の人格を束ねるもの。


 平賀源内の残響が、初めてこちらを見た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ