第4話 恐山・修行残響編 その3 死者に触れた者
最初は、ただ会いたかっただけだった。
たったそれだけだ。
彼女は小さなリュックを背負って、恐山に来た。
土産物屋で鈴を買い、参道を歩き、観光客に紛れながら坂を登った。
周囲は観光地の顔をしている。
「霊場」と言われているが、売店もあるし、観光バスもある。
正直、思っていたより現実的だった。
だけど。
硫黄の匂いだけは、ずっと鼻に残っていた。
それは「ここだけは違う」と告げていた。
—
彼女は、三年前に弟を失っている。
事故ではない。
病気でもない。
ある日突然、自分から歩いていった。
駅のホームから。
そのときの映像を、何度も何度も見た。
背中だけを残して、
改札を抜けたところまで。
「どうして?」
問い続けても、誰も答えない。
だから、ここに来た。
恐山なら、
死者の声が聞こえると聞いた。
嘘でもいい。
幻でもいい。
一度だけでいい。
「……話したい」
観音堂の前に立ったとき、
彼女はそう呟いた。
声にした瞬間、
空気が少しだけ“重く”なった気がした。
風が止まり、
観光客の声が遠のき、
鈴の音だけが、異様に響く。
彼女は気づかなかった。
誰とも接触していないのに、
自分の世界だけが静かになっていることに。
—
「姉ちゃん」
声がした。
すぐ後ろから。
心臓が跳ねた。
振り返る。
そこに、
弟が立っていた。
制服姿。
三年前と同じ。
時計は進んでいるはずなのに、
彼だけが止まっている。
「……うそ」
喉が、震えた。
「来てくれたんだな」
声も、記憶通りだった。
少し低くなりかけで、
でもまだ子どもっぽい。
「ずっと、呼んでた」
足元の石が、少し沈む感覚。
でも、彼女は気づかなかった。
視界が、弟に吸い込まれている。
「夢?」
「現実」
弟は不思議そうに首を傾げた。
「ここでは、全部本物なんだよ」
「……じゃあ」
彼女は乾いた声で聞いた。
「どうして、あのとき」
問いが出た瞬間、
空気が冷たくなる。
弟の笑顔が、ほんの一瞬だけ消えた。
「……あのとき?」
「ホームから……どうして」
弟は少しだけ目を細めた。
それが、
“見慣れた優しい顔”じゃなくなった瞬間だった。
「それを、知りに来たんだろ」
声の高さが、微かにずれた。
「だったら、ちゃんと聞きなよ」
「怖がらないでさ」
彼女は、一歩近づいた。
硫黄の湯気が、足元を這う。
弟の輪郭が、少しだけ歪む。
でも、構わなかった。
会えている。
それだけでよかったはずだった。
「……教えて」
手を伸ばした。
触れる寸前で、
弟の姿が揺れた。
皮膚のようだった。
画面のノイズのようでもあった。
「ねえ」
弟の声が、二重になる。
「自分はさ」
「もし、あのとき俺の代わりに死ねたなら
本当にそうしたか?」
言葉が、胸に沈む。
「……それは」
考えようとした瞬間、
頭の中に別の映像が流れ始めた。
弟じゃない。
別の死者たち。
知らない人間。
知らない事故。
知らない記憶。
でも、
なぜか“自分の記憶みたい”に入り込んでくる。
「やめて……」
弟の顔が、少しずつ分解される。
目だけが、残る。
目だけが——
何人もの目に、変わっていく。
「ねえ」
声が歪む。
「君は、
今まで何人の死を見てきた?」
彼女は後ずさった。
だけど、地面が柔らかくなっている。
足が沈む。
逃げられない。
「祓いとか、修正とかさ」
声はもう、弟じゃない。
山全体から響いている。
「結局、
誰かを“消して”るだけじゃない?」
涙がこぼれる。
でも、誰の涙か分からなかった。
自分のか、
弟のか、
誰かのか。
彼女の耳元で、
最後に声がした。
「君も、
少しずつ、消えてるよ」
世界が反転する。
空と地面が入れ替わる。
硫黄の匂いだけが、
内側に染み込んできた。
——
次に彼女が気づいたとき、
そこは地蔵の前だった。
口が乾いている。
手の中に、
見覚えのない鈴が握られている。
さっき買ったのとは、違う鈴だ。
自分の名前が、思い出せない。
誰に会いに来たのかも、
思い出せない。
ただ一つだけ残っていた感覚。
「……私、
誰かに触れちゃいけないものに
触ったんだ」
その言葉すら、
本当かどうか、わからなかった。




