第1話 団地消失エリア事件 その1 空白になった住民票
東湾市北縁に広がる公団団地群は、都市計画がまだ夢だった時代の遺物だ。
灰色の箱をいくつも積み上げて、そこに番号を振り、まとめて「北湾第六団地」と呼んでいる。
名前のついているのは団地までで、その中で暮らす人々は、統計上「その他大勢」の一括りだ。
——少なくとも、つい一週間前までは。
「住民票が、丸ごと消えた?」
東湾県警本部サイバー対策室・警部補、高峰修一は、モニターの文字列を見つめたまま眉をひそめた。
画面には、自治体の住民基本台帳システムからの照会結果が並んでいる。
北湾第六団地一号棟六階、六〇一号室〜六〇四号室。四つの部屋だけ、住民情報が空白になっていた。
空欄ではない。
削除フラグでもない。
最初から「何も登録されていない」状態になっている。
問題は——そこに人間が住んでいたことだ。
「電力会社の検針データも、水道の使用量も、先月まで全部揃ってます。でも今月分の請求だけ、契約ごと消えてる」
隣の席で、情報分析官の若い巡査部長が早口にまくしたてる。
「配達業者の履歴、通販の配送ログ、フードデリバリーの注文記録も、全部『お届け先不明』に書き換えられてて……。でも、ドライバーの運行ログは残ってるんですよ。六〇一号室まで行ってる」
「“行った事実”だけ残って、“行った相手”が消えてるってことか」
「はい。で、そのドライバーに聞き取りしたら、『いつも通り家族がいた』と。
ただ——」
「ただ?」
「“顔も名前も思い出せない”そうです。毎週、定期配送してた相手なのに」
高峰は、指先で机を軽く叩いた。
嫌なパターンだ。
数年前から増え始めた、「残響案件」の典型的な兆候に似ている。
——残響。
正式には「思念残響現象」と呼ばれる、二〇三〇年代以降の警察用語だ。
ただ、現場の人間はもっと雑に「残響」とか「エコー案件」とかでまとめている。
説明しようとすると長くなるが、簡単に言えば、
“誰かの祈りや怨念が、ネットワークと世界OSの隙間にしがみついて暴走した結果、現実のデータと認識を書き換えてしまう現象”
……ということになっている。
なっている、というのは、学者と官庁と企業の間で定義が微妙に違うからだ。
サイバー対策室に回ってくるのは、そのうち「犯罪や事故に繋がったもの」だけだが、それでも年々、件数は増えている。
「つまり、北湾第六団地の一角だけ、世界から“なかったこと”にされかけてる。そういう理解でいいか?」
「ざっくり言うと、はい」
若い巡査部長は乾いた笑いを浮かべた。
「ただ、自治体も電力会社も『システム不具合』で押し通したいみたいで……。でも住民からの通報があって、生活安全課からこちらに回ってきました」
「通報者は?」
「一号棟六階の別の部屋の住人です。自分の隣近所が**“いなかったことになっている気がする”**って」
「気がする、か」
「はい。本人もあんまり自信がない感じでしたね。『たしか家族がいた気がするんだけど、顔が思い出せない』って」
思い出せないのではなく、思い出すための足場ごと削られつつある。
高峰は、過去の事例を頭の中でめくった。
残響案件に共通する特徴がある。
最初はみんな、「気のせい」で片づけようとするのだ。
日常の綻びとして見逃せてしまう程度の異常。
その積み重ねが、ある地点で臨界に達したとき——
人間のほうが、過去を切り捨て始める。
「現場は押さえてあるか?」
「はい。生活安全課と所轄の刑事課が臨場中ですが、デジタル系はうちに丸投げする気満々です」
「だろうな」
高峰は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、軽く現場見てくる。
“気のせい”ならそれでいいし、そうじゃないなら——」
口ごもったところで、背後から声が飛んだ。
「また、祓屋案件かもしれませんね」
サイバー対策室の室長代理、四十代半ばの女警視が、コーヒーカップを片手にこちらを見ていた。
「残響がらみで、データ改ざんに加えて“記憶の改変”が報告されてる。そういう時は大体、あのフリーの祓屋を呼ぶ流れになるでしょう?」
「……まだ決めつけるのは早いですよ」
「そう願いたいものだけどね」
警視は肩をすくめた。
「いまのところ、祓屋を公式に認めてる部署はない。うちも、ただの“外部協力者”扱い。
でも、現場は助かってる。あなたも、そうでしょう?」
「……おかげで“説明のつかない案件”が、“説明しなくていい案件”に変わってくれるのは、ありがたいですね」
「それを世間では“方便”と言うのよ、高峰警部補」
軽口を叩きながらも、室長代理の目は笑っていなかった。
残響案件の増加は、警察にとっても頭痛の種だ。
サイバー犯罪として扱うには“霊感が強すぎる”。
かといって、オカルトとして切り捨てれば、被害者の家族が納得しない。
そこで、どこの部署とも正式には属さない、“祓屋”と呼ばれる存在が、曖昧な境界線に滑り込んでいる。
「まずは現場を見てきます。祓屋を呼ぶかどうかは、そのあとで判断します」
「ええ、そうして。……ああ、それと」
警視は、ふと思い出したように付け加えた。
「今回は**“消えた住民”が、まだ生きている可能性がある**。
もし残響に取り込まれてるなら、救えるうちに救わないとね」
「残響が人を取り込むのは、もう“稀なケース”じゃなくなってきてますからね」
「そう。だからこそ——」
女警視はカップを置き、モニターの空白を見つめる。
「今回は、ちゃんと“人”を守る方向で考えてよ。
最近、後処理で何人か植物状態になってる件、知ってるでしょう?」
「……はい」
高峰は短く答えた。
一部の祓い師——特に、強制抹消タイプの連中が関わると、
残響そのものはきれいさっぱり消える代わりに、被害者の人格ごと吹き飛ぶことがある。
事件としては“終わる”。
でも、誰もそれを解決とは呼べない。
「俺は、まだ“削除する”ことに慣れたくないんで」
「いい心がけよ。面倒くさいけどね」
サイバー対策室を出ると、外はうす曇りだった。
冬から春へ切り替わる前の、街の温度設定が一瞬だけ迷っているような気候。
高峰は、庁舎前の駐車場に向かいながら、胸ポケットの端末に目を落とした。
新着の共有メモが一つ増えている。
タイトルは——
【北湾第六団地一号棟六階・現場写真】
画像を開いた瞬間、高峰は足を止めた。
団地の外観写真。
おなじみの、灰色の箱を積んだ建物だ。
だが六階部分だけ、何かがおかしい。
窓の並びが、途中から歪んでいる。
拡大してみると、六〇一〜六〇四号室にあたる部分だけ、光の反射が妙に曖昧だった。
まるで、そこだけピントが合っていない。
(カメラの不具合……にしては不自然だな)
現場で見れば、ただの見間違いかもしれない。
だが、残響案件では「写真写りの悪さ」が、そのまま世界の歪みを示していることもある。
高峰は、微かな喉の渇きを覚えた。
論理と数値が好きな人間ほど、こういう“説明できない歪み”に弱い。
庁舎の出口まで歩いたところで、胸ポケットの端末が震えた。
差出人は、サイバー対策室共有の「外部協力者リスト」。
特定の名前が、自動補完でポップアップ表示されている。
——真名井 梓。
フリーのデジタルエクソシスト。
俗に言う「祓屋」の中でも、とくに厄介で、よく働く女。
彼女を呼ぶかどうかは、現場を見てから決めるつもりだったが——
胸の奥で、嫌な予感がひっかかっていた。
「……願わくば、“気のせい”であってくれ」
誰にともなく呟いて、高峰はパトカーのドアを開けた。
北湾第六団地まで、渋滞がなければ三十分。
世界のどこかで、すでに誰かの「祈り」が暴走しているのだとしたら——
三十分は、少し長すぎる。
サイレンを鳴らすほどの案件では、まだない。
だが、彼の背中には、じわりと冷たい汗が滲んでいた。
“存在が消える”タイプの残響は、他のどの案件よりも厄介だ。
失踪は追える。
死体は調べられる。
だが、「最初から存在しなかったことにされた人間」は——
どこにも記録が残らない。
エンジンがかかる音と同時に、空が少しだけ暗くなった。
北湾第六団地の六階で、すでに何かが進行していることを、
この時点で知っている人間は、世界に一人もいなかった。
ただひとつ、例外があるとすれば——
“残響”そのものを、祈りとして扱う女が、どこかで端末の通知を見ているかもしれない、ということだけだ。
真名井 梓
二十九歳。職業、祓屋。
彼女がこの案件に本格的に関わり始めるのは、もう少しあと。
北湾第六団地で“誰か”が、完全に世界から消えたあとだ。




