水鏡
「行っちゃいましたわ……」
引き摺られるように去っていくローリエの姿を眺めていたネネフィーは、残念そうに呟きながら席に戻る。
「少々拗らせた方でございましたね」
ジェンもネネフィーの後について戻ると、すっかりぬるくなってしまった紅茶を入れ直した。
「どうなさいますか?」
「え? あの人のこと? 特に考えていないわよ。弱そうだし」
ジェンの問いに、クッキーを摘みながらネネフィーは答えた。
「婚約者などと言っておりましたが、アズベルト様の元婚約者の方なのでしょうか?」
「どうかしら? でも気持ちは分かるわ。私も幼い頃は色々と妄想したものよ。リース様と結婚したり、子供を産んだり……うふふふふ」
ネネフィーはニヤニヤと笑う。
その妄想、現在進行形ではございませんか?
ジェンは危うく飛び出しそうになる言葉をぐっと堪えた。
「それに、もしあの方がアズ様の元婚約者であったとしても、今の婚約者は私です。負けませんわよ!」
ネネフィーはえっへんと胸を張る。その表情に、一切の不安も嫉妬も見当たらなかった。
「……しかし仮にですが、もしアズベルト様が現在も先程の方とお付き合いされていた場合、お嬢様はどうなさいますか?」
「え?! この国は、婚約者や妻は1人しか迎えられないのではないの?!」
「そうなのですが……妻以外に愛人を何人も持っている御方が結構いるのですよ。高位貴族や皇族となると、それが特に顕著だと伺っております」
「愛人……。そっか……これはあれね。本で読んだわ! 妻の妊娠中に外で子供を作って、身体の弱い妻が亡くなった後、すぐに夫がその愛人と結婚して屋敷に住まわせるの。それから前妻の子は義母と義妹に虐め抜かれるのよ! 私だったら迷わず修道院に行くわ!」
「……お嬢様は一体何の話をしているのですか?」
「え? お母様に借りた小説の……」
ネネフィーの言葉にジェンは軽い溜息を吐く。
「誰が修道院に行くのですか?」
振り返ると、いつの間にか戻って来たアズベルトが満面の笑みで立っていた。
ジェンと神官がすぐさま一歩下がって腰を折る。
「アズ様! お帰りなさいませ!」
ネネフィーは立ち上がると、嬉しそうにアズベルトに駆け寄った。
「ただいま、ネネ」
ネネフィーを優しく抱き締めると、じぃっと瞳の奥を覗き込む。
「先程魔力の気配を感じましたが、何かあったのですか?」
「あ、そうでしたわ。ローリエ様という方が、あの辺に立っておりましたの」
ネネフィーは柵の向こう側を指差した。
「ローリエ……?」
「オックス伯のご令嬢の名でございますね」
アズベルトの背後で大きな箱を抱えたジョエルが答える。
「ああ、成程」
アズベルトはネネフィーをエスコートして席に座った。
「アズ様はローリエ様とお知り合いですか?」
ネネフィーはアズベルトに尋ねる。
「う~ん、どうでしょう。幼い頃に何度かオックス家のパーティーに招待されて行きましたが、その時に横目で見た程度ですね」
「横目で見た程度……つまり、元婚約者じゃないのですね? やはり彼女は妄想仲間……」
ネネフィーの呟きに、アズベルトの眉がぴくりと動いた。
「ネネ。そのローリエとやらに何か言われたのですか?」
「え~っ、余り調子に乗らない方が良いと助言頂きましたわ」
「ほう……」
アズベルトは片眉を器用に上げ、ネネフィーにつけていた神官とジェンを交互に見る。
二人はアズベルトの意図に気付いてしっかりと頷いた。
「その方、アズ様の婚約者なのだとおっしゃっておりましたので、お友達になれるかと思ったのですが……何故か突然戦線布告されましたので、敵かどうか確認していたのです」
「それで敵だったのですか?」
「それが、従者の方が突然やって来て急いで連れ帰ってしまったので、きちんと確認出来ず終いですわ」
「そうですか……」
アズベルトは考え込むようにゆっくりと紅茶を口に含んだ。
「私にはネネ以外に婚約者がいたことはありません。この先何が起きても、未来永劫私の妻となるのはあなただけです。どうかそのことを忘れずにいて下さい」
「はい。勿論ですわ」
アズベルトの真摯な瞳に、ネネフィーは頬を染めながらもしっかりと頷いた。
「ネネ、これを見て下さい」
神殿を後にして馬車に戻った二人。
アズベルトは、先程までジョエルが抱えていた箱を開けると、中から直径60センチ程度の鏡を取り出した。
「綺麗な鏡ですね」
ネネフィーはアズベルトの隣から覗き込む。
繊細な彫刻で縁取られたその鏡は、不思議と映り込んでいる景色がゆっくりと波打っている。
「これは水鏡といいます。まずは触れてみて下さい」
ネネフィーはアズベルトに促されるままに表面を指先で触れると、そこから鏡全体に波紋がゆっくりと広がっていく。
「これ、水ですわ」
「ええそうです。これは先程の神殿にある特別な水から作られた鏡です。そしてこちらも」
アズベルトは箱の中からもう1つ同じ鏡を取り出した。
「そっちも水鏡ですか?」
「ええ。厳密に言えばこれら2つは対になっています。双方覗き込めば、たとえ遠く離れていても会話が可能なのです」
「え?! すごい!」
「だからね、ネネ。バカンスが終わっても、これを使って沢山話をしましょうね」
「え、あ……」
この休みが終われば、次に会うのは年明けのデビュタント。
それまで二人は離れ離れ。
少し寂しそうに笑うアズベルトにネネフィーの胸は締め付けられ、思わず彼の腕にしがみ付いた。
そんなネネフィーの髪を、アズベルトは優しく撫でる。
「毎晩寝る前、これで沢山話をしましょう。その日あった出来事や心に残ったこと。嬉しかったこと、悲しかったこと。二人で沢山共有しましょう。……だからそんな顔しないで」
アズベルトは持っていた水鏡を横に置くと、ネネフィーを膝の上に抱き上げて背中を優しく擦る。
「ごめんなさい……」
ネネフィーは小さく謝罪すると、アズベルトの胸に顔を埋めて彼の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
2022.11.26修正




