恋患い?
昼過ぎ。
ミラー公爵領にある別荘に到着したネネフィーは、アズベルトのエスコートで馬車から降りた。
見上げた建物は帝都で滞在したミラー公爵邸ほどではないまでも、歴史を感じさせる重厚な佇まいを見せている。
「アズベルト様、お待ちしておりました」
燕尾服を着た老紳士が、アズベルトに向けて恭しく腰を折る。
すると、後方にずらりと並んだ使用人たちもそれに合わせて腰を折った。
(ひえっ)
ネネフィーは思わずアズベルトの背中に隠れる。
「……うん、しばらく世話になるよ」
「使用人一同光栄でございます」
「さあネネ。部屋に案内しますね」
アズベルトは使用人たちにネネフィーを紹介することなく、彼女をエスコートしてすたすたと屋敷に入る。
外装の重厚さとは異なり、スッキリとした高い天井と広く取られた窓。明るい色の壁紙や飾り付けられた生花が解放感を存分に感じさせていた。
「ここは帝都の屋敷とは違い、少し奥まった造りをしています。明日にでも案内しますので、迷子にならないように注意してくださいね。ただ……もしかすると長居はしないかもしれません」
「? はい」
「さあ、こちらがネネの部屋です。荷物は既に運んでいます」
アズベルトが扉を開ける。
「うわっ……」
部屋に一歩踏入れたネネフィーは、驚いて窓辺に駆け寄った。
「この部屋から湖が一望できます。美しいでしょう?」
アズベルトの言葉に、ネネフィーはキラキラした瞳でこくこくと頷く。
部屋のすぐ目の前には、透明度の高い大きな湖が広がっており、時折小魚の跳ねる姿が見える。
「あそこのテラスの少し先から、直接湖に降りることが出来ます。ボートもありますので、また2人で乗りましょうね」
「はい!」
アズベルトがデッキへと続くガラス扉を開ける。
「素敵……」
ネネフィーは、光を浴びてキラキラと光る湖面をじっと見つめた。
「ふふふ、良かったです。ディナーまでまだ少し時間がありますので、それまでゆっくりしていて下さい」
アズベルトはネネフィーの頭を優しく撫でると、部屋を出て行こうとする。
「あ、あの……アズ様」
そんなアズベルトを、ネネフィーは思わず呼び止めた。
「どうかしましたか?」
「あの、その……」
「?」
ネネフィーは一歩アズベルトに近寄ると、ちょんちょんと彼の袖口を引っ張って顔を見上げた。
「えっと……」
(ぎゅうってしてほしい……です)
ネネフィーは何とか目で訴えながら、両手をおずおずと上げる。
「ネネ……」
アズベルトは僅かに目を見開くと、すぐに彼女の身体をぎゅっと抱き締めた。
ネネフィーは彼の体温にほっとして、無意識に頬を擦り寄せる。
「寂しくなったらいつでも呼んでくださいね。私の部屋は隣です」
耳元で囁きながら、頬にゆっくりと唇を這わした。
(離れたくない……)
馬車の中でずっとくっ付いていたせいで、いざ身体が離れると無性に寂しくなる。
「それでは」
ひとしきり抱き締めあった後、アズベルトは名残惜しそうに部屋を出て行った。
ネネフィーはそんなアズベルトが出ていった扉を、しばらくの間ぼうっと眺めていた。
「はあ……素敵……」
オープンテラスのデッキチェアに座り、ネネフィーは何度目か分からない溜息を吐いた。
時折跳ねる魚の水音と小鳥のさえずり。
木陰が多いせいか吹き抜ける風もひんやりと心地良く、ネネフィーはぼんやりと湖を眺めながら物思いにふけっていた。
(さらっとした大きな手。間近で見ても、毛穴1つ無い美しい肌。上まつげは当然のことながら、下まつげも長くって、やっぱり髪と同じ銀色なのですね。後は意外に着痩せしていることが分かったわ! あの硬い胸板! 逞しかったですわ……それとやっぱり唇……。ああ……想像以上に柔らかくてしっとりしていて、もうっ、もう! もう!! だめよ、だめだわ! ああ、ああ、ああ!! ムリ!カッコ良過ぎます、好き大好き愛しています! この幸せを、一体誰に感謝すれば良いのですか? ありがとうございますありがとうございますぅううううううううう)
「お嬢様、そろそろ戻ってきてください」
心の声が駄々漏れのネネフィーに、ジェンは平常運転で新しい紅茶を注ぐ。
「だって、だってぇ……」
ネネフィーは真っ赤になりながら、ふにゃっとテーブルに突っ伏した。
「いやいや今更何を照れておいでですか。こちらが胸やけする程いちゃこらしていたではありませんか」
「うへぇ……」
ネネフィーは恥ずかしさを紛らわせる為か、目の前に置かれた軽食を次々と口の中に放り込む。
「良いのですよ、お嬢様。これから夫婦となるのですから、存分に仲良くなさって下さい」
「んぐ、ぐぐ。ええ、ええそうね。はぁ……リースしゃま、かっこいい……しゅき」
「お嬢様、その発言。いささか問題があります」
「……え?」
「お嬢様がどれ程リース神を大切に想っているかは存じております。しかし、あの御方はアズベルト・ミラー様でございます。いかにお顔が似ているからといっても、全くの別人でございます。その辺りをしっかりとご認識下さい」
「え? お顔が似ているって、肖像画を見たでしょ? あれは同一人物ですわよ? 見れば分かるわ、一旦本取ってくるわね!」
今回の旅行にも、しっかりと持参したリース神の載った本。
ネネフィーは部屋に取りに行こうと腰を上げるが、すぐにジェンに止められる。
「結構でございます。確かに、お嬢様がそう思う程にそっくりでございます。しかし、それでもお名前を呼び間違うなどもってのほかでございます」
「う~ん?」
ネネフィーは首を傾げる。
「良いですか? 巷では『私と仕事のどっちが大事なの?』などという質問がありますが、もしアズベルト様に『私とリース神のどちらが好きなのですか?』と聞かれた場合、何と答えるのですか?」
「え? 何ですの? その質問は」
「どちらをお選びになりますか?」
「それは勿論、勿論…………………………」
「勿論?」
「…………同一人物なんだけど……やっぱり本で確認……」
ネネフィーは再度部屋を指差す。
「結構です。もしやお嬢様、選べないのですか?」
「え、でもどう考えても同一人物だわ! アズ様はリース様だし、リース様はアズ様よ!」
胸を張って断言するネネフィーに、ジェンはこめかみを揉む。
どうやら彼女の頭の中では、すっかり二人は同一人物になっているようだ。
「分かりました、同一人物なのですね。ですがそれでもお名前を呼び間違うのは、非常に失礼にあたります。十分お気を付け下さい」
「確かにそうね。気を付けるわ」
何とかネネフィーを納得させることに成功したジェンは、ほっと胸を撫でおろした。
ディナーの席。
真っ白いテーブルクロスが敷かれたダイニングテーブルの中央には、白薔薇がアレンジされて美しく飾られている。
高い天井から繊細に輝くシャンデリアが垂れ下がり、アズベルトの髪と瞳をより一層輝かせていた。
「明日は、湖の周辺を散策してみましょうか」
正装のアズベルトに見惚れていたネネフィーは、その声にはっと我に返る。
「み、湖ですか! それは楽しみですわ」
「ふふふ」
アズベルトはそんなネネフィーの姿に機嫌良さそうに笑うと、ゆっくりとした動きでワイングラスを回した後、口に含んだ。
(ああ、もうダメかもしれない……アズ様のどんな姿でも見惚れてしまいますわ……)
ネネフィーは熱に浮かされたようにぼうっとする頭を軽く振ると目の前の食事に集中する。
しかし、
(胸がいっぱいで入らないですわ……)
小さく息を吐くと、ネネフィーはそっとカトラリーを置いた。
「ネネ? どうしましたか? もしかしてお口に合いませんでしたか?」
「いえ、とても美味しいです。ただちょっと食欲が無くて……」
小さく呟いたネネフィーに、アズベルトは立ち上がる。
「疲れたのですか? 大丈夫ですか?」
早足で一気にネネフィーの側まで来ると、跪いて顔を見上げた。
「ぜ、全然大丈夫ですわ!」
(ただただアズ様が素敵過ぎて、胸がいっぱいで食欲がありませんとは、口が裂けても言えませんわ!)
「え?」
「え?!」
(いつも通り心の声が駄々漏れですよ、お嬢様。しかも食欲がないのは恋のせいではなく、先程軽食をがっついていたせいですからね)
ネネフィーのすぐ後ろに待機していたジェンは、心の中で突っ込む。
「こ、こほん。まあ疲れていないのであれば良かった。でも無理はしないで下さいね」
「は、はひ……」
2人して照れながら俯き、何とも言えない甘酸っぱい空気がダイニングに流れた。
2022.11.20修正
 




